聖書の見方
子供に体罰を与えるのは正しいことですか
あなたは,言うことを聞かない子供たちが騒いで,周囲の人たちに迷惑をかけている場面に遭遇したことがあるかもしれません。「もし自分の子供だったら,おしりを思いきりたたいてやるのだが」と,考えたことでしょう。一方,疲れている子や病気の子の泣き声が癇に触り,怒りにまかせて子供を打ちたたく親を見たこともあるでしょう。体罰は残酷な仕打ちにつながる場合が多いので,親が子供をたたくのはもってのほかだと考えた方もおられるかもしれません。
どのように懲らしめを与えるかを決定するのは,親にとって極めて難しい問題であるということは,まぎれもない事実です。体罰を与えるのは正しいことですか。それともそれは,一種の家庭内暴力にすぎないのでしょうか。(3ページから20ページをご覧ください。)
児童専門家や心理学者など,多くの人々は,親が子供に体罰を与えることに反対しています。サイエンス・ニューズ誌(1978年3月4日号)の中でR・S・ウェルシュ博士は,「家庭においても学校においても,もはや体罰は容認すべきではない」と,記しています。おしりをたたくことは,より強い者が力による支配を行なうことができ,いきり立った暴力行為も正当化されるという誤った教訓を教えることになる,と主張する人々もいます。
しかしながら,他の権威者たちは異なった考え方をしています。北西部地方児童補導相談所の主事であるソイネ・トーマの言葉を引用して,ある新聞は次のように述べました。「『懲らしめと秩序は不可欠なものである』。これは,『不作法な振る舞いに対しておしりをたたく』場合に限り,体罰にも適用される」。また「訓練への挑戦」の中でジェームズ・ドブソン博士はこう記しています。
「親自身が暴力的に振る舞うことによって,子供たちの内に敵意や闘争心を育てる可能性がある。……もっとも,子供が頭をたれてこぶしを握りしめているような場合,子供は親に対して自分の我を通そうとしているのである。もし親が(おしりをたたいて)ふさわしい仕方で応じるなら,子供に,自然界の教育方法と一致した貴重な教訓を与えたことになる」。
実際に,神の言葉は,子供の訓練に関する最善の助言の源です。エホバ神は人類家族の創始者であられるとともに,成功例や失敗例を数多く見てこられたからです。
愛の神であるエホバは,親たちにこう諭しています。「あなたがたの子供をいらだたせることなく,エホバの懲らしめと精神の規整とをもって育ててゆきなさい」。(エフェソス 6:4)懲らしめ ― 人格形成のための教育や訓練 ― は,愛の一つの表現となり得ます。「『わたしの子よ,……エホバは自分の愛する者を懲らしめる』……たしかに,どんな懲らしめも当座は喜ばしいものに見えず,むしろつらいことに思えます。しかしのちには,それによって訓練された人に,平和な実,すなわち義を生み出すのです」。それは家庭の中においても同様です。―ヘブライ 12:4-11。
しかし,愛ある懲らしめには,親がおしりをたたくことも含まれますか。神の言葉は,それが愛の一つの表現として行なわれ,愛に調和した方法でなされるなら,確かに愛ある懲らしめに含まれると述べています。霊感を受けた書物,箴言からの次の幾つかの聖句を考慮してください。
「愚かさが少年の心に結び付いている。懲らしめの杖がそれを彼から遠くに取り除く」。(22:15)「単なる少年から懲らしめを差し控えてはならない。あなたが彼を杖で打ちたたいても,彼が死ぬことはない。杖をもって彼を打ちたたくべきである。その魂をシェオールから救い出すために」。(23:13,14)「むち棒を控える者は自分の子を憎んでいるのであり,子を愛する者は懲らしめをもってこれを待ち望む」。(13:24)― 新世界訳。
ここに言及されている「杖」は,親から与えられるさまざまな形の懲らしめを指していますから,もちろん,体罰も含まれます。手で行なうにせよ,ものさしや他の適当な「杖」で行なうにせよ,親は愛を込めて子供たちを訓練する際に,体罰を与える権威を神から与えられています。
しかし聖書は,激しい怒りの感情に屈することを強く戒めて,親が行き過ぎないよう助けています。(箴 16:32; 25:28。コロサイ 3:8)もし親がこうした諭しを無視して,怒りを爆発させ,子供をひどく打ちたたくなら,懲らしめが愛の一つの表現であると述べる神の言葉に反することになるでしょう。聖書は,怒りに駆られてむちを加えたり,打ちつけたりすることを容認していません。そうした体罰は幼い子供に傷を負わせ,ある場合には子供をかたわにすることさえあるのです。それは愛ある懲らしめではなく,子供の虐待です。
賢明な親は,子供を矯正し罰する様々な方法があることを認めています。時には,厳しい言葉だけで十分でしょう。わがままな子供をしばらく隔離することもできます。子供らしい不注意や無責任が原因で何かをこぼしたり壊したりした場合,もしふさわしいなら子供に掃除をさせたり,償いをするために働かせたりするのは,えてして非常に効果があるものです。もちろん,融通性をもたせ,状況と子供によってこらしめを変えることは大切です。ある子供には効果的でも,他の子供にはそうではないかもしれないからです。
とはいえ聖書の示す通り,おしりをたたくことは,時折り与えられる懲らしめの一つの方法として,特に幼い子供にとって価値があります。成長するにつれて,大抵の子供は親が「本気」なのかどうか,尊敬に値するかどうかを知ろうとして,一再ならず親の権威に挑戦します。良い子供たちでさえ,「うるさいよ」とか「そんなことしたくないよ」などと言うことがあります。ある医師は,子供はまるで『地面に線がひかれている』所を知っていて,しかも親がどうするかを知るために,そこを横切ろうとするかのようだと説明しました。子供は罰を受けずにうまくやってのけるでしょうか。手綱を握っているのはだれですか。
とりわけ,ごく幼い子供たちがそうした挑戦を行なう時には,多くの言葉は必要ではないでしょう。おしりをたたくのが適切かもしれません。子供を打ちたたいて従わせるというのではなく,だれが権威を持っているかを十分に銘記させるため,確固とした態度でたたくのです。
涙が乾いてから,親は優しく子供を抱き締めながら,静かな口調でこう言うことができます。「あなたをとても愛しているのよ,だからあなたが権威を認めない敬意の欠けた人になって欲しくないの」。それは心に達する導きを与える絶好の時でもあります。前述のサイエンス・ニューズ誌に掲載された,体罰を非とする見解を読んだある父親は,同誌に次のような意見を寄せました。
『子供たちが明らかに不従順である時,私たち夫婦はなぜそれが規則違反であるかを説明してやりました。すると子供は,罰が必要なことを認めます。ひとたび櫂状の杖で約束の数だけおしりをびしびしとたたかれると,息子(およそ6歳)は私のひざにすべり込んで,抱きついてキスをしながら,「お父さん,よく分かりました」と言いました』。
自由放任の行き過ぎによる痛ましい結果は至る所に見られます。ですから,「[子]を愛する者は,懲らしめをもってこれを待ち望む」という聖書の言葉の真実さをよく認識することができます。(箴 13:24,新)親が子供の幼い時から,権威を認めることや,自由にはそれなりの制約が伴うことを理解させるのは本当に愛のあることです。幼子の必要に応じて与えられる荒々しさのない,しかも確固とした体罰による短時間の痛みは,これらの教訓を学ばなかったために十代ないしその後にもたらされる悲しみよりは,確かに勝ったものです。
体罰を賢明に与えるには親の努力が必要です。親は誤った愛情によって体罰を控えてはならず,しかも残酷な仕打ちや,子供の虐待に陥らないよう自らを制することが必要です。しかし創造者の諭しと,それによってもたらされる良い結果は,こうした努力が払うだけの価値のあるものであることを示しています。口語訳聖書が箴言 23章13,14節で次のように述べている通りです。「子を懲らすことをさし控えてはならない,むちで彼を打っても死ぬことはない。もし,むちで彼を打つならば,その命をよみから救うことができる」。