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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1955
塔55 12/1 443–445ページ

動物崇拝 ― その昔と今

人間はヱホバ神のみを崇拝せよと,神の御言葉は,述べています。人間は,昔から今にいたるまで,動物を崇拝して,この神のいましめを破つております。動物崇拝はどの程度まで行われましたか? この問題を研究することは,学術的な興味以上に興味深いものです。

これは昔のエジプトの街路で起きました。怒り狂う群衆は街路を我れ先きに走つて,国王の賓客である外国人のローマ市民の滞在する家にむかつて殺到しました。エジプト王は,その群衆のことを知り,君侯たちを遣わして群衆を解散させようとしましたが,その努力は無益でした。気の狂つたように怒り立つた群衆は,その家になだれこみ,そのローマ人を捕えて文字通りづたづたに切り裂いてしまいました。

いつたい,このローマ人は何をしたと言うのでしよう? どんな罪を犯しましたか? 路地にいた猫を誤つて殺しただけです! あなたは信ぜられますか? 常識で考えられますか? エジプト人たちは猫の女神パシュトを崇拝していましたから,どの猫も神聖なものだつたのです。ギリシヤ人のアルテミス,ローマ人のダイアナと同じようにエジプト人のパシュトは重んぜられていました。猫が死ぬと,家中全部の人は泣き悲しみ,猫のために盛大な葬式が行われました。

このローマ人についての出来事は,決して物めずらしいものではなく,また動物の中で猫だけが崇拝されたのでもありません。『エジプトの宗教の中で最も嫌悪すべきものは,動物崇拝であつた。どの神にとつても,特定の動物は神聖であつた。』エジプト人は実に多くの神々を拝みました。猫,犬,牛,牝牛,牡牛,羊,狼,獅子,鳶,トキ,鷹,ワニ,河馬,猫鼬,カエル,ウナギ,蛇,そして水獺,はみな崇拝の対象物でした。故意に神聖な蛇を殺した者は,死刑に処せられたと,ヘロドタスは述べています。もし過まつて殺したならば,祭司はその人に罰金を課しました。しかし,トキとか鷹の場合には,たとえ誤つて殺したにしてもその人は大抵怒り立つた群衆に殺されてしまいました。飢饉の時に,人間は餓死してしまい,また人間を殺して食べることも行われましたが,神聖な動物の肉を食べることは禁ぜられていました。

エジプト人だけがそのような動物崇拝をしていたわけではありませんが,なぜそのような動物崇拝は多くの人々のあいだで行われましたか? 死んだ『魂』が他の生物に乗り移るという輪廻説は,おそらくその大半の理由でありましよう。伝説や神話も,その理由の一半になつており,また動物は昆虫から人間を守つたり,食物や衣服を供給して人間の役に立つという事実もその理由の一部であつたことでしよう。

歴史家のローリンソンは,こう述べています。『この動物崇拝の最悪の形は,神が動物に化身して,動物の死ぬときまで化身しているという信仰である。そのような動物は,アピス牛であつた。』これらの動物は『その生存中,何千人もの人々より絶えず尊崇され,祈りが捧げられた。そして死ぬときには,うやうやしい取り扱いの中に石棺に葬られ,エジプト全地は泣き悲しんだ。』

しかし,使徒パウロは動物崇拝の真の理由をこう述べています『彼らは神を知つていながらも,神として崇めず,感謝せず,かえつて彼らの思いに頭は空しくなり,その愚かな心は暗くなつたからである。自分で賢いと言いながら,愚かになり,朽ちない神の栄光を変えて,朽ちる人間,鳥,四足の動物,また匍うものの像に似せた。』― ロマ 1:21-23,新世。

昔のエジプトに行われていたこれらの事柄を理解するとき,ヱホバがエジプト人に災を降し,御自分の民を救われた勝利の御業は,より一層燦然としてきます。また,イスラエル人がなぜ犢崇拝や他の偶像崇拝をすぐ行つたかが,分ります。彼らは,モーセが荒野でつくつた銅の蛇を崇拝しました。―出エジプト 32:24。列王紀略下 18:4。

今日インドで行われている動物崇拝

昔エジプトで行われた動物崇拝は盛大なものでしたが,同様に今日インドで行われている動物崇拝も盛大なものです。新しいインド政府が,猿を殺した人に賞金を与えるようになるまで,猿は1日約200万ドルに等しい食物を食いつくし,毎年おびただしく多量な穀物を食べていました。人間は餓死しましたが,猿や,孔雀は餓死しませんでした。それらの動物は神聖なものだつたからです。蛇は毎年5万人を殺していますが,それも蛇が神聖なものと考えられているからです。

1955年4月2日,インドのネール首相は,殺牛を非合法のものにしようとする法案通過に反対して,已むを得なければ辞職をするとまで言明しました。その法案は,ネール首相の属す議会党の一員から提出されたものです。このことを報告した1955年4月3日のニューヨーク・タイムス紙はさらにこう述べていました。

『殺牛を禁ずるか否かの問題は,インドのどの地方でもいつも論ぜられている。ほとんど毎週のように,ヒンヅー宗教の小さな群は,ニューデリーの街を行進しており,殺牛禁止を要求する黄色い旗を押し立てている。老齢で役に立たない何百万という牛は,道をぶらつき廻り,店頭の食物を食いちぎる。多くのヒンズー人たちは,いつも食物を取つて置いて,牛に与える。インドの牛は,世界中でいちばん悪い種類の乳牛である。』役にも立たず,また不具になつた牛を殺せないため,政府はその牛のために隔離所を設けようとしていますが,どうもはかばかしく行かないようです。

馬鹿々々しい牛崇拝や階級制度を示す例にこんなのがあります。触れてはならぬ者が井戸を用いると,神聖な牛の糞をその中に投げこんで,井戸を潔めねばならぬということです。

愛獣崇拝

アメリカ合衆国のような西洋諸国では,犬猫を可愛がるという形で,動物崇拝が行われています。ここ数年間,新聞は次のような記事をかかげていました『コロラダンは時価1000ドルの柩に犬を埋葬す』『私は過去35年間,愛獣のために20万ドルを費しました。いま,その金については全然後悔していません。』とコロラダン・フレッド・シュミットは言いました。『牧師は盲の女の案内犬のためになされた葬式の席上で,頌詞を述べた。著者である講演者の犬と友は,絹で裏打ちされた棺に葬られた。有名なオーク・パークの牧師カール・エス・ウインタース博士は,その案内犬のために行われた金曜日の葬式で席上説教した。』『大へんな路地猫ミヂーは,オマハにある9000ドルの家の相続者である。』74歳のプットマンが死んだ時に,中年の看護婦とミジーだけがつき添つていました。その遺言の中で,プットマンは家をミヂーに譲りました。看護婦は,言いつけられた通りに猫を養い,よく世話したならば,猫が死んだ時に家をもらうことができます!

また,猫の普及を図つたり,あるいは迷つた猫の大切な取り扱いを人々にすすめるため,毎年2万5000ドルを費す国際的な制度があります。

動物を崇拝する他の人々もいます。愛した獣の行く天の場所があるに違いないと感ずる人もいます。下等動物の事ばかりに心配してしまい,神のいましめを忘れたり,また仲間の人間の悲哀を忘れる人もいます。よく菜食主義者とか活体解剖反対者にそういう人が多いようです。彼らの熱心と,昔のエジプト人の熱心は,良く似かよつています。

聖書の見地

神は人間に下等動物を治めさせました。動物は人間の益に用いられるべきであつて,人間が動物の益に用いられてはなりません。しかし,人間の権利を濫用して,ある活体解剖者がしているように,動物を虐待してもなりません。また,現代の多くのニムロデがしているように,遊びの対象として動物を殺すべきではありません。『義しき者は,その畜の生命を顧みる。』人間がまだエデンの園にいたとき,神は動物の皮で衣をつくり,人間に与えました。ノアの大洪水後には,神は食物として動物の肉を人間に与えました。―シンゲン 12:10。

下等動物の機能,特にその頭脳は,人間の機能や頭脳と比べてずつと低いものです。動物は理解力がなく,分別できず,道徳観念を持たず,ヱホバを崇拝することができません。このことからして,人間が動物を崇拝することは,いかに馬鹿らしいものであるかが分ります。人間が堕落するとき,人間は犬畜性の標準にまで下つてしまうのです。『われおろかにして知覚なし,聖前にありて獣にひとしかりき。』ネブカデネザル王が気狂いになつたとき,獣のような行をしました。―詩 73:22。

分別のない動物は,永遠に生きることができず,死なねばなりません。その理由で,悪しき人々が獣に似せられているのです。『これらの人々は,捕えられて亡ぼされるるために生まれてくる分別の無い動物と同じく,』亡びをうけます。『尊貴なかにありて曉らざる人はほろびうける獣のごとし。』聖書によると,獣には復活もなく,天的の希望もありません。―ペテロ後 2:12,新世。詩 49:20。

人間は崇拝をするためにつくられました。それは,自分自身を崇拝するためでなく,他の人間を崇拝するためでもなく,ましてや人間よりも劣るものを崇拝するためではありません。ただ唯一つのヱホバ神を崇拝するためです。『あなた方はヱホバ神だけを崇拝しなければならない。あなた方はヱホバ神だけに聖なる奉仕を捧げねばならない。』創造者への心からの献身が足りない人は,造られたものを重んじ,造られたものに,仕えるようになります。それは崇拝の一つの形式です。―マタイ 4:10,新世。

マタイ伝 24章やテモテ後書 3章1-5節のような聖書予言の成就から判断すると,私たちは終の日に住んでいることが分ります。現在もつとも大切なことは,「ヱホバと,正義と柔和を求めよ」というヱホバのいましめに従うことであり,また「御国の良いたより」を伝道することによつて,他の人を助け,そしてヱホバのいましめに従わせることです。クリスチャンは,下等動物をむやみやたらにいぢめず,又面白半分に殺すことをいたしません。クリスチャンは,最重要のことを一番大切に重んじています。つまり,彼らは心から創造者であるヱホバ神に献身しており,そして「神の義と神の御国を求め続け」ます。―ゼパニヤ 2:1-3。マタイ 24:14; 6:33,新世。

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