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マタイ 注釈 22章新世界訳聖書 (スタディー版)
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心: この語は,一般に人の内面全体を指す。しかし,「知力」や「自分の全て」と一緒に言及される場合,より限定的な意味を持ち,おもに人の感情,欲求,気持ちを指すと思われる。ここで使われている3つの語(心,知力,自分の全て)は,全く別々のものを指すのではない。それらは意味が重なり合っていて,神への愛には欠けたところがあってはならず,全てを込めたものであるべきことを最大限強調している。
知力: 人は神を知り,神への愛を育むために,知的能力を使わなければならない。(ヨハ 17:3。ロマ 12:1)この部分は申 6:5からの引用で,元のヘブライ語本文では「心」,「自分の全て」,「力」の3つの語が使われている。しかし,ギリシャ語で書かれたマタイの記述では,「力」ではなく「知力」に当たる語が使われている。このように異なる語が使用されていることには幾つかの理由があると思われる。1つに,古代ヘブライ語では「知力」を意味する明確な言葉がなく,その概念はヘブライ語で「心」に当たる語にしばしば含まれていた。その語は人の思考,感情,態度,動機を含めた人の内面全体を指す。(申 29:4。詩 26:2; 64:6。この節の心に関する注釈を参照。)この理由から,ヘブライ語本文で「心」という語が使われている箇所で,ギリシャ語セプトゥアギンタ訳はしばしば「知力」に相当するギリシャ語を使っている。(創 8:21; 17:17。格 2:10。イザ 14:13)マタイが申 6:5を引用した際,「力」ではなく「知力」に当たるギリシャ語を使った別の理由は,「力[または,「活力」,脚注]」と訳されるヘブライ語に,身体的力と知的能力の両方の意味が含まれていたからかもしれない。いずれにしても,これらのヘブライ語とギリシャ語の語句の意味には重なり合うところがあるので,福音書筆者たちは申命記を引用した際に全く同じ言い方をしなかったと考えられる。マル 12:30,ルカ 10:27の注釈を参照。
自分の全て: 用語集の「プシュケー」参照。
エホバ: ここでの引用は申 6:5から。元のヘブライ語本文に,ヘブライ語の4つの子音字(YHWHと翻字される)で表される神の名前が出ている。付録C参照。
愛さなければならない: ここで「愛する」と訳されているギリシャ語はアガパオー。この動詞および関係する名詞アガペー(愛)はギリシャ語聖書に合わせて250回以上出ている。ヨ一 4:8では,名詞アガペーが「神は愛」という句で使われており,聖書は神を,原則によって導かれる利他的な愛の最高の模範としている。神の愛は,思いやり深くまた積極的に表される。それには,感情や感覚だけでなく,決意や行動が関係する。人間は,神に倣って意図的な選択としてそのような愛を示すことができる。(エフ 5:1)だから,この文脈にある最も重要な2つのおきてにある通り,愛を示すよう命じられている。イエスはここで申 6:5を引用していた。ヘブライ語聖書では,ヘブライ語の動詞アーヘーブまたはアーハブ(愛する),および名詞アハバー(愛)が愛を指す語としておもに使われている。これらは,上述のギリシャ語と同じように広い意味を伝える。エホバを愛することに関して,これらの語は神に全てを捧げてその方だけに仕えたいという人間の願いを表現する。イエスはそのような愛を完全に表した。そして,神への愛にはエホバに愛情を感じる以上のことが必要であることを示した。それは,人の生活全体を律して,全ての考え,言葉,行動に影響を与える。ヨハ 3:16の注釈を参照。
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