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『義のために迫害される人たちは幸福です』目ざめよ! 1971 | 12月22日
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「あなたのみことばは真理です」
『義のために迫害される人たちは幸福です』
イエスとその使徒たちは,クリスチャンが迫害を予期すべきことを再三再四警告しました。a しかしそれに加えて,イエスは山上の垂訓の中で,「義のために迫害されてきた人たちは幸福です」と述べました。(マタイ 5:10,新)この垂訓がいみじくも「浸透力,痛切さ,また力の点で古今唯一最大の垂訓」とされているのは注目に値します。―ロバートソン著,「新約聖書のすぐれた叙述」。
ここでイエスは,どんな種類の迫害でもそうであると言ったのではなく,義のために迫害を受ける人は幸福であると言われたことに注目してください。初期クリスチャンはそうした迫害をこうむりました。たとえば,使徒ペテロはそれらクリスチャンに書き送りました。「彼らは汝らの己とともに放蕩の極に走らぬを怪しみて譏なり」― ペテロ前 4:4。
それに,神のみことばは,神のしもべたちがエホバ神への専心の献身を全うすることによって,義にかなうことを行なうよう要求しています。それは,心と魂と思いと強さのすべてをもって神を愛することです。また,人間よりもむしろ支配者としての神に服従しなければなりません。神の禁ずることを行なうよう人から強要される場合,神のしもべたちは迫害をこうむることになっても,そのような人間の要求を拒否するほかに道はありません。皇帝崇拝をいっさい拒み,それゆえにあらゆる残忍な仕打ちをこうむった初期クリスチャンがそうでした。それはまさしく義のために苦しむことでした。
イエスの足跡に忠実に従う今日のクリスチャンについても同じことがいえます。エホバ神のしもべたちをして,政党に加入させたり,偶像崇拝に類する儀式に携わらせたり,人間やその制度の求める無条件の奉仕に挺身させたりなどして,クリスチャンの中立の立場や神の王国に対する忠節を強制的に破らせようとする政府は少なくありません。そうした要求に屈するなら,エホバにのみ属するものをカイザルに与え,また,「人は二人の主に兼事ふること能はず」と述べたイエスの警告を無視することになります。―マタイ 6:24; 26:52。ヨハネ 18:36。マルコ 12:17。
これらエホバのクリスチャン証人は妥協して忠誠を破ることを拒んだために,きわめて残忍な迫害を受けました。特にアフリカの一部新興諸国では近年また現在でもそうです。それらの国のクリスチャンは無残にも失神するまで打たれ,拷問を受けて殺され,婦女子は繰り返し強姦されました。なぜですか。神と自分たちとの関係にかかわる事がらで妥協しなかったからです。確かにそれはすべて義のために苦しむことなのです。
また,別の問題で義のために迫害をこうむったクリスチャンもいます。神のみことばは,『血を避ける』ことを命じています。義にかなったこの命令に留意したため,子どもを連れ去られたうえ,子どもに強制的に輸血を施された親もいれば,血に関する立場のゆえに医療をいっさい拒まれた人もいます。血に関する聖書の立場を取ったばっかりに,ののしられ,おどしを受け,嘲笑され,愚弄されたりした人びともいます。彼らが忍んだそうした虐待のすべてもやはり,義のためにこうむる迫害なのです。―使行 15:19,20,28,29。
ほかにも例はありますが,今日のクリスチャンが迫害を受けていることを示すにはこれで十分でしょう。そうした人はすべて幸福である,とイエスは言われました。どうしてですか。どんな意味においてですか。幾つかの意味でそう言えます。身体上の苦しみそれ自体は幸福をもたらすものではありません。エホバ神とその王国を支持する立場ゆえに配偶者からの激しい迫害をこうむった多数の妻たちは,この点では夫もそうですが,忠実に忍耐した結果,配偶者が迫害するのをやめて信者となるのを見る幸福にあずかってきました。
迫害を免れるために妥協する人は確かに幸福とは言えません。そのような人は良心の呵責と悔恨の情にさいなまれます。しかし,妥協もしくは屈服するよりもむしろ迫害を甘受する人はほんとうに幸福です。次の助言のとおり,清い良心を持てるのです。「善き良心を保て。これ汝等のキリストに在りて行ふ善き行状を罵る者の,その謗ることに就きて自ら愧ぢん為なり」― ペテロ前 3:16。
そのような人は,被造物からの専心の献身を受けるに値する正当かつ愛ある至上者としてのエホバ神の立証の一端にあずかっていることを知るゆえに,ほんとうに幸福です。同時に,すべての人間を神から引き離せると豪語した悪魔が偽り者であることを実証する満足を味わいます。そうです,「わが子よ知恵を得てわが心を悦ばせよ然ば我をそしる者に我こたふることを得ん」と神ご自身が言われるとおり,神の心を喜ばせる,この上ない特権にあずかれます。―箴言 27:11。
それはなぜですか。ヨブ記から明らかなとおり,悪魔から何をされようとも神に対して忠実を保てる人間を神は地上に持てるものではないとしてサタンが嘲笑したからです。ヨブは悪魔がまちがっており,偽り者であることを実証し,その結果,幸福な者とされました。「我らは忍ぶ者を幸福なりと思ふ。なんぢヨブの忍耐を聞けり,〔エホバ〕の彼に成し給ひし果を見たり,則ち〔エホバ〕は慈悲深く,かつ憐憫あるものなり」とあるとおりです。(ヤコブ 5:11〔新〕)同様に,忠実に耐え忍んで,悪魔が偽り者であることを実証するクリスチャンはすべて幸福です。
同時に,義のために迫害を耐え忍ぶ人たちは幸福です。「天の王国は彼らに属するからです」。(マタイ 5:10,新)このことは,イエスがおもに話しかけたその油そそがれた追随者たちに文字どおりにあてはまります。義のために迫害を耐え忍ぶそれらの人は天的な報いを受けます。つまり,「神とキリストとの祭司となり」,天で「キリストと共に千年のあひだ王」となる幸福にあずかるのです。―黙示 20:6。
義のために迫害を忠実に耐え忍ぶ他の人びともすべてやはり天の王国にあずかるといえます。イエスはそれらの人たちに,「わが父に祝せられたる者よ,来りて世の創より汝等のために備えられたる〔王国〕を嗣げ」と言われたからです。それらの人びとはその王国の地的な領域を受け継ぎ,その天の支配者たちに代わって地的な領域を預かることになります。―マタイ 25:34; 5:5。
神のみことばは真理です。義のために迫害をこうむる人はすべて幸福です。しかも二重の意味で幸福です。つまり,現在,幸福を享受し,また将来,さらに大きな幸福を享受します。神に対して不忠実な者となるよりも,今,義のために迫害を耐え忍ぶ人たちは,ほんとうに幸福です。
[脚注]
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それは真実でしょうか目ざめよ! 1971 | 12月22日
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それは真実でしょうか
◆ 英国,ランカシアに住むある人は次のようなできごとについて述べた。「わたしはエホバの証人には何かがあると思っていましたが,妻は同意しませんでした。ある日,土地のカトリックの司祭が尋ねてきました。妻は司祭がわたしの考えを正してくれるものと期待していました。わたしは司祭に,イエスは12月25日に生まれたのではないのに,なぜクリスマスをその日に祝うのかと質問しました。司祭は,イエスが誕生したのは別の日であることをすぐに認めました。そこで,カトリックの公教要理は,「我らの救い主はいつお生まれになりましたか」という質問に,「我らの救い主はクリスマスの日にお生まれになりました」と答え,「クリスマスは12月25日である」との脚注を付していることを指摘して,それが真実かどうかを司祭に尋ねました。司祭はひとことも答えませんでした」。
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