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神の目的におけるキリスト・イエスの比類のない役割ものみの塔 1973 | 8月1日
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満ち満ちたさまがあますところなく彼のうちに宿る ― どのようにして?
神がご自分の初子であるみ子を選ばれたのは,何と理想的な選択だったのでしょう。そのみ子の命が地上に移され,人間の胎に宿されて,完全な人間として生まれ出るようにされるまでに,み子はすでに,明らかに幾百万年にもわたって神に奉仕した比類のない記録を持っていました。というのは,み子は「全創造物の初子」ですから,創造の始めからみ父とともにおられたからです。(コロサイ 1:15,新。ヨハネ 1:1,2)他のあらゆる創造物 ― み使いたち・星の輝く天・太陽・月・惑星である地球・海洋・土地・樹木・草本・花・海生動物・鳥・陸生動物そして人間そのものなどすべては,み子を通して作られました。パウロが書いたとおりです。「彼は他のすべてのものより前からおり,他のすべてのものは彼によって存在するようになりました。……彼は初めであり,死人の中からの初子です。それは,彼がすべての事において最初の者となるためでした。なぜなら,神は満ち満ちたさまがあますところなく彼のうちに宿ることをよしとし,また,苦しみの杭の上で彼の流した血を通して平和を作ることにより,地上のものであれ天にあるものであれ,他のすべてのものを彼を通して再びご自分と和解させることをよしとされたからです」。(コロサイ 1:16-20,新)「神は満ち満ちたさまがあますところなく[キリスト・イエス]のうちに宿ることをよしと(された)」のはどういうわけですか。神のみ子のうちに見いだされるその「満ち満ちたさま」とは何ですか。
使徒は自らあとの箇所で,「キリストの中にこそ,神の特質の満ち満ちたさまが形を取ってあますところなく宿っている」と述べて,その事をわかりやすく説明しています。(コロサイ 2:9,新)使徒ヨハネも次のように書いて,わたしたちの理解を助けています。「ことば[人間となる以前の状態のときのイエス]は肉体となってわたしたちの間に宿り,わたしたちはその栄光,父の独り子が持つような栄光を目にしたのである。彼は過分の親切と真理とに満ちていた。というのは,わたしたちはみな彼に満ち満ちたものの中から,しかも過分の親切の上にさらに過分の親切を受けたからである。なぜなら,律法はモーセを通して与えられ,過分の親切と真理とはイエス・キリストを通して存するようになったからである」― ヨハネ 1:14,16,17,新。
そうです,イエスは神の霊の実で満ちあふれていたばかりか,み父に関する知識とみ父の聖なる特質とで満ち満ちていたので,「わたしを見た者は,父をも見たのです」と言うことができました。(ヨハネ 14:9,新)しかし,それだけではありません。イエスを神の目的すべてを実現する手だて,つまりすべての預言がその真の意味と意義を見いだす者とすることによって,神は,「[イエス]のうちに……知恵と知識とのすべての宝が注意深く秘められ」るようにされたのです。(コロサイ 2:2,3,新)神のみことばがこのみ子について告げている事がらすべてを学ばないかぎり,聖書とその預言および神の意志と目的について十分に理解することは決してできません。
神の種々の約束はイエスを通して明確な形と実質を帯びました。イエス・キリストはその生涯の歩みによって,そうした神の約束を単なることばに終わらせるのではなくて,現実の事がらとするために用いられました。ですから確かに,「神の特質の満ち満ちたさまが形を取って[イエスのうちに]宿っている」のです。イエスは,やがて来るものを予表した表象あるいは型以上の者でした。彼は影としてのメシヤではなくて,真正なメシヤでした。影としての大祭司ではありませんでした。実質上また事実上,彼は前もって示されていた真の大祭司でした。モーセを通して与えられた律法契約の備えについて,「そうした事はきたるべきものの影であり,その実体はキリストに属している」と使徒が述べているとおりです。(コロサイ 2:16,17,新)そうです,神の目的を完遂する全権をみ子に与えられたという点でもまた,『満ち満ちたさまがあますところなく[キリスト]のうちに宿っている』のです。ですから,復活させられたキリスト・イエスは弟子たちに対して,「わたしは天と地におけるすべての権威を与えられています」と言うことができました。(マタイ 28:18,新)彼は神の義の新秩序で王として支配する,「すべての政府と権威の頭」とされました。(コロサイ 2:10,新)彼は神の用いる「命の主要な代理者」です。そして,彼がその贖いの犠牲のもたらす命の恩恵を施すことこそ,わたしたちすべてが永遠の命を得られるよう神の設けられた唯一の方法なのです。―使行 3:15,新。
神の目的においてキリスト・イエスの演じるこうした重大な役割のゆえに,「わたしは道であり,真理であり,命です。わたしを通してでなければ,だれひとり父のもとに来ることはありません」と述べたイエスのことばは何と真実で,みじんも誇張をまじえない表現だったのでしょう。(ヨハネ 14:6)あなたは神のみ子について学べることすべてを学びましたか。み子の重大な役割があなたに及ぼしうる益を無にしないよう今努力していますか。あなたは,日常生活においてイエスのかしらの権に十分に,また喜んで服して,相応の誉れをイエスに帰していますか。あなたは将来に対する自分の希望のすべてを,命の主要な代理者としてのイエスを通して設けられている神の備えに託していますか。今そうしてください。そして,キリスト・イエスの父であるエホバ神から,「[キリスト]に満ち満ちたものの中から,しかも過分の親切の上にさらに過分の親切を」受けてください。―ヨハネ 1:16,新。
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マラウィ市民は重大な決定を迫られるものみの塔 1973 | 8月1日
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マラウィ市民は重大な決定を迫られる
世界中のクリスチャンは,アフリカの南東部にある国マラウィのエホバのクリスチャン証人たちが最近激しい迫害を受けていることに深い同情を寄せています。
ニューヨーク州と同じほどの大きさのこの国の市民は全部影響をこうむっています。人口453万人のうち,194人につき少なくともひとりが迫害を受けている者の中にはいっているからです。
したがって各市民が直面している問題は,自分は正しいことを支持し,圧制に反対するか。自分はキリストが,『この小さき者の一人[クリスチャンである弟子]に冷かなる水一杯にても与うる者は,誠に汝らに告ぐ,必ずその報いを失わざるべし』と言った者のひとりになるだろうか,ということです。―マタイ 10:42。
エホバの証人は,住んでいる国の法律に従う,平和を愛する人びととして知られています。それにもかかわらずマラウィでは,打ちたたかれ,拷問にかけられ,ある人たちは殺されました。多数は命が危険になったので,所有物を全部残して国外に逃げました。その数は2万を超え,そのうちの1万9,000人は,マラウィの西側にあるザンビアにのがれ,そこで望まれない訪問者として収容所に入れられました。苦しい生活のために350人が死亡しました。その多くは子どもたちでした。
しかしそれでも迫害者たちは満足しませんでした。ザンビアのもっと健康的な収容所へ移すと偽って難民をバスとトラックに乗せ,再びマラウィ
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