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この人たちもまたエホバに依り頼んでいるものみの塔 1984 | 10月1日
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王国宣明者の報告
この人たちもまたエホバに依り頼んでいる
エホバの証人による聖書教育の業が禁止されているある国で,数人の青年が,「人生の目的は何だろうか。どこに真理を見いだせるだろうか。どうしてこんなに悪がはびこっているのだろうか」という疑問を抱いていました。教会や親は納得のいく答えを与えてくれませんでした。アルコールと麻薬の乱用からも,精神的安らぎは得られませんでした。青年の一人は,同僚がエホバの証人と聖書の勉強をしていることを知り,その聖書研究の時に自分も同席することにしました。エホバの証人の組織の弱い所を見つけて同僚を“救う”つもりだったのです。ところが,反対のもの,つまり青年を悩ましていた疑問の答えを見いだしました。それで青年はエホバの証人と聖書研究を始めました。やがてこの若者は聖書の真理によって変化し,喫煙をやめ,酔うまで酒を飲むこともなくなり,自分の家族にもっと関心を払うようになりました。
青年の両親は,息子が学んでいる事柄に反対だったので,自分たちが住んでいるアパートから出て行くよう息子に圧力をかけました。すると,あり得ないと思っていたことが起きたのです。普通なら何年もたたないと入れない新しいアパートに入ることができたのです。そのことについて,青年はこう語っています。「神のお目的を知るようになったこと,また聖書の助言を自分の生活に当てはめることにより,平衡の取れた考え方が再びできるようになり,また,家族がいつも幸福でいられるようにすることができました。妻は私の考えを支持してくれており,私たちは確信を抱いて将来を見通すことができます」。
この青年は箴言 3章5,6節の次の言葉の意味を今や極めてはっきりと理解しています。「心をつくしてエホバに依り頼め。自分の理解に頼ってはならない。あなたのすべての道において神を認めよ。そうすれば,神ご自身があなたの道筋をまっすぐにしてくださる」。
エホバの証人の業が禁令下にある別の国で,ある年配の婦人がエホバの証人と接する機会を得ました。その婦人は自分が人生に失望していると証人に言いました。夫を亡くし,子供たちからは乱暴に扱われていたのです。ですから自分の身の上を嘆いて涙を流しました。ところが,その婦人は慰めをもたらす王国の良いたよりに耳を傾け,そのたよりにたいへん関心を示しました。そして,エホバの証人が娘に話をしてくれることを望みました。婦人の話では,その娘は頑固で,しばしば酒に酔い,喫煙をし,言葉遣いもひどいということでした。
姉妹が娘さんを訪問したところ,その人は王国の音信に耳を傾け,真理に優れた価値のあることを認めました。そして,聖書研究に応じました。聖書の力によってその人の生き方は変わりました。エホバに献身し,バプテスマを受けたのです。しかも母親より先にです。母親のほうは,その重要な段階を踏む準備をしているところでした。間もなく娘のほうは3人の人と聖書研究をするようになっていました。
この母娘が現在どれほど幸福かを読者は想像できるでしょうか。エホバ神,およびとこしえの命のためのその愛ある備えに共に信頼を置いているので,二人には確かに喜ぶ理由があります。―詩編 56:11。
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読者からの質問ものみの塔 1984 | 10月1日
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読者からの質問
■ クリスチャンの生き方が現在においてさえ報いの多いものであると言われているのに,パウロが,「今の命でキリストに望みをかけてきたことがすべてであれば,わたしたちはあらゆる人の中で最も哀れむべき者となります」と書いているのはなぜですか。
真のキリスト教に基づく生き方は,確かに優れた,満足のゆく生き方です。一方,コリント第一 15章19節の使徒パウロの言葉は,人が希望のために苦しみに耐えても,その希望に根拠がないなら哀れむべき者になることを示唆しています。
真のキリスト教を実践することにより生み出される生き方は優れたものであると結論してよい根拠は十分にあります。その証拠を幾つか考慮してみましょう。真実のクリスチャンは,清くて健全な愛ある人々から成る会衆の一員です。それらの人々は互いに対して関心を抱き,霊的また物質的な援助の手を進んで差し伸べます。神の助言に従うゆえに,クリスチャンは不道徳や飲み過ぎや喫煙および薬物の乱用と結びつけられるような数多くの身体的な危険や病気から守られます。(ローマ 1:26,27。コリント第一 6:18。コリント第二 7:1。エフェソス 4:18,19)人生の意味や方向づけが定かでないために当てもなく無定見に過ごすのではなく,創造者と自分との関係を高く評価し,神のご意志を行なうことから満足を得ます。聖書に基づくさまざまな原則に従うことは,より安定した,そしてより豊かな家族生活に寄与します。クリスチャンはその正直さのゆえに人材として求められるかもしれず,一時帰休や解雇の憂き目を見る可能性も少ないと言えるかもしれません。
このように簡単に挙げただけでも,クリスチャンの生き方が真に豊かで,報いの多いものであることが分かります。
しかし,クリスチャンは時として反対や迫害,さらには暴力行為をさえ経験します。(テモテ第二 3:12)そのようになることをイエスは予告しておられました。(マタイ 24:9,10。マルコ 8:34; 10:30。ルカ 21:12。ヨハネ 16:2)古代コリントのクリスチャンたちはこの事を知っていました。彼らは,かつて「神の会衆を迫害した」パウロが今では迫害の的になっていることを承知していました。パウロはコリントのクリスチャンたちに,「ののしられれば祝福し,迫害されれば忍び」と書き送っています。(コリント第一 15:9; 4:12。コリント第二 11:23-27)しかし,パウロはこう論じました。「なぜわたしたちはまた刻々危難に遭っているのですか。わたしは日ごとに死に面しているのです。……わたしがエフェソスで,人間がするようにして野獣と戦ったのであれば,それはわたしにとって何の益になるでしょうか。もし死人がよみがえらされないのであれば,『ただ食べたり飲んだりしよう。明日は死ぬのだから』ということになります」― コリント第一 15:30-32。
そうであればクリスチャンの直面した迫害は,彼らの抱いていた希望と関連していました。この希望が単なる幻想であったとしたら,迫害を経験しているのが無意味だったことになるでしょう。それでパウロは,「今の命でキリストに望みをかけてきたことがすべてであれば,わたしたちはあらゆる人の中で最も哀れむべき者となります」と言うことができたのです。―コリント第一 15:19。
しかし,パウロはキリストが確かに復活させられていたことを知っていました。イエスはよみがえらされたのち,パウロ自身をも含む幾百人もの証人たちの前に姿を現わしました。(コリント第一 15:3-8)それでパウロはコリント人にこう勧めました。「こうして,わたしの愛する兄弟たち,あなた方の労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから,堅く立って,動かされることなく,主の業においてなすべき事を常にいっぱいに持ちなさい」― コリント第一 15:58。
パウロは,キリストのために苦しみに遭った自分も他のクリスチャンたちも哀れむべき存在ではないということを確信していました。パウロは満ち足りた,記憶に残る,羨望の的とも言えるような人生を送りました。「敬虔な専心はすべての事に益がある(の)です。それは,今の命と来たるべき命との約束を保つのです」という言葉がパウロに当てはまったのと同様,その言葉はわたしたちにも当てはまり得るのです。―テモテ第一 4:8。
■ 「大半の者の愛が冷えるでしょう」というイエスの言葉は,そうした事が現在の真の崇拝者たちの間に生じることを意味していますか。
イエスはエホバの民の間で愛が大いに失われることを予告していたのではない,と信じてよい十分の理由があります。
使徒たちは,『イエスの臨在と事物の体制の終結のしるし』を求めました。イエスは,戦争・地震・食糧不足・クリスチャンに対する迫害などについて予告し,さらにこう付け加えられました。「不法が増すために,大半の者の愛が冷えるでしょう」― マタイ 24:3-12。
その預言の大半は,その時(西暦33年)から,ローマ人によりエルサレムに大患難がもたらされた西暦70年までの間に成就を見ました。(ルカ 19:41-44; 21:5-28と比較してください。)その間,油そそがれたクリスチャンの大多数の愛は冷えたでしょうか。そのようなことはありませんでした。その世代の間にキリスト教の信仰から離れ落ちた人々は少数派であったと思われます。ユダヤ人の迫害に遭っていたクリスチャンの大多数は「み言葉の良いたよりを宣明し」続け,神,および未信者や仲間のクリスチャンたちに対する愛を表わしていました。(使徒 8:1-25; 9:36-42)しかし,真の崇拝を行なっていると主張していたユダヤ人たちの間では,確かに愛が冷えました。ユダヤ人の大半はイエスの警告を無視し,ローマに対して反乱を起こし,自国を防衛するために暴力に訴えました。
イエスの預言は1世紀より後代に及び,今日その主要な成就を見ています。(啓示 6:2-8)当時のユダヤ人同様,人々が実際に効力のある愛を示すことはいよいよ少なくなっています。幾百幾千万もの人々が無神論に転じました。キリスト教世界においてさえ,人々が隣人愛を全く示さない傾向が見られ,教会への出席や聖書の知識は全般的に減少しつつあります。信仰心があると思われる人々の中にも,政治的な運動を通して人間の諸問題を矯正しようとする人が少なくありません。ですから,愛が冷えているのは,神の崇拝者を自認するそのような人々の間でのことだと思われます。
とはいえ,真のクリスチャンは自己満足に陥るべきではありません。1世紀のクリスチャンの中にも,最初の愛を失ったり,さまざまな問題のためにその愛からそれてしまったりした人々が幾らかいたのですから,わたしたちの愛が冷えるということもあり得るのです。(テモテ第二 2:16-19。啓示 2:4)たとえそうした事が起きたとしても,それはエホバの民の大半にとっては例外的なことでしょう。しかし,それがわたしたち個人の身に起こり得るということは,救われるために『終わりまで耐え忍ぶ』必要性を強調するものとなります。―マタイ 24:13。
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