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エホバの道に喜びを見いだすものみの塔 1974 | 12月15日
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(ガラテア 6:1。ヘブライ 13:17。フィリピ 1:27)さらに,自制心を働かせ,不完全な人間の性向に支配されることのないようにしなければなりません。(コリント第一 9:26,27。箴 6:9-11)しかし,神のしもべたちは道理を超えてまで自分を駆使することを求められているわけではありません。例えば,野外奉仕に幾時間か費やそうと計画しているとします。しかし,とても疲れてくるなら,止まってしばらく休み,それから再び始めるほうが,追われるような気持ちで休みなく続けるより勝っていませんか。事実,そうするほうが,くつろいだ気持ちになり,幸福感も増し,より明せきに考えられるので,エホバにより良い奉仕をささげられるのではありませんか。また,寒くてとても疲れたように感じる場合には,ちょっと休んで温かいものを飲み,体を暖めてさわやかになり,その後再び続けるほうが,容赦なく無理に続けて喜びや効果性を危うくするより良いのではありませんか。イエスは魂をこめて働きましたが,それでも,時おり休むことの必要を認めていました。そうしたからといって罪の意識を抱いたわけではありません。(マルコ 6:31,32)そして,「心にたのしみあれば顔色よろこばし」とあり,あなたが証しをする人々も,あなたが幸福そうであれば自然と好ましいものを感じ取るのです。―箴 15:13。
20 エホバへの奉仕を本当に楽しむならどのような結果がありますか。
20 それで,エホバへの奉仕を楽しんでください。それを楽しみ,大いに喜んでください。(フィリピ 4:4)エホバは,ご自分に対するあなたの崇拝があなたの重荷であることを望みません。奉仕を楽しんでいるなら,あなたの心はあなたを動かしてさらに多くを行なおうとさせるでしょう。幸福感は他の人にうつるものであり,そうした精神が会衆全体に表わされるようになります。新しい人たちはそれを見,エホバの道が本当に喜びあるものであることを知り,あなたに加わってエホバへの幸福な奉仕に携わるようになるでしょう。―ゼカリヤ 8:23。
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読者からの質問ものみの塔 1974 | 12月15日
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読者からの質問
● エホバの証人は,なぜ新年の祝いをしないのですか。―アメリカの一読者より。
1年の終わりと新しい年の始まる1月1日に行なわれる新年の祝いは,偽りの宗教と関係があります。1月の最初の日は,二つの顔を持つローマ人の神ヤヌスに献げられた日でしたから,異教徒の祭日だったことになります。しかし,クリスチャンが新年の祝いを行なわない別の強力な理由があります。
クリスチャンは次のように諭されています。「浮かれ騒ぎや酔酒,不義の関係や不品行……のうちを歩むのではなく,……正しく歩みましょう」。(ローマ 13:13)しかしほとんどの場合に,新年の祝いにはこうした行為や節度を欠いた行ないが見られます。「民間伝承,神話,および伝説に関する標準事典」にはこう書かれています。「多くの西欧諸国では,盛大なパーティーを開いたり,酒を飲んだり,ばか騒ぎをしたりして,古い年を送り,新年を迎える」。非西欧文化に関しては,同書はこう述べています。そうした土地でも「1年の終わりと新しい年の始まりは喜びの時と考えられている」。
新年の祝いに加わる人は,たとえ自分自身は自制を働かせているとしても,他の人の行なう慎しみに欠けた行ないを大目に見たり,偽りの宗教に根ざす慣行を是認したりしている場合があります。エホバの証人がこうした祝いを行なわないからといって,証人たちがくつろぎの時を持ったり,レクリエーションを楽しんだりしないというのではありません。彼らも確かにそうした楽しみの時を持ちます。しかし,神と人の前に良い良心を保とうと努めている彼らは,節度を欠いたり,異教の祝祭を祝っているかに見える行ないをしたりすることは避けます。
● 血液から精製された血清を用いる治療を受けることはクリスチャンにとって正しいことですか。―ドイツの一読者より。
聖書は,神が血を重視しておられることをはっきり述べており,血は魂すなわち命を表わすものであるという神の見解を示しています。(レビ 17:11,12,14)それで,わたしたちの共通の先祖であるノアに与えられた神の次の命令はもっともなものです。「されど肉をその命なるその血のままに食らふべからず』。(創世 9:4)わたしたちすべてを含めノアとその子孫は,命を支えるために血を食物として用いてはならないことが示さ
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