コリントのクリスチャンへの第二の手紙
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14 クリスチャンではない
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B. パウロはコリントのクリスチャンへの愛を表し,自分の奉仕について説明する(1:12–7:16)
神と共に働く: コ二 5:20で,パウロの活動について,「あたかも神が私たちを通して訴え掛けているかのようです」と述べられている。その節で「訴え掛けている」と訳されているギリシャ語動詞(パラカレオー)は,人間が神と共に働くという文脈で使われている。ここのコ二 6:1の「私たちは皆さんに勧め[または,「訴え」,「懇願し」]ます」というフレーズに,同じ動詞が出ている。これは,神がパウロと仲間を含め真のクリスチャンの奉仕者と共に働く方であるという考えをさらに裏付けている。コ一 3:9の注釈を参照。
惜しみない親切: 用語集参照。
それを無駄にする: または,「その目的を見失う」。「それを無駄にする」と訳されているギリシャ語の表現には,直訳すると「空虚」という意味の語が含まれている。文脈からすると,天に行くよう選ばれたクリスチャンは,神の惜しみない親切を受け,「キリストの代理をする大使」として「和解のための奉仕」をする機会があった。(コ二 5:18-20)そのクリスチャンが,「受け入れられる時」また「救いの日」の間,奉仕を行わず神の恵みを求め続けないなら,神の惜しみない親切を無駄にすることになった。(コ二 6:2)
神は,「私は受け入れられる時にあなたの言うことに耳を傾け……」と言っています: パウロはイザ 49:8の預言から引用している。その言葉はイザヤに対して言われたようだ。イスラエル国民がイザヤによって代表され,「仕える者」として擬人化されている。(イザ 49:3)これは回復に関する預言で,初めて実現したのはイスラエルがバビロンから解放された時だった。しかし,イザヤはここで,エホバに「仕える者」が「民のための契約」(イザ 49:8)として,また神の「救いが地の果てにまで及ぶように……国々の光」(イザ 49:6)として与えられたと述べている。これは,この預言がメシアに関するもので,神に「仕える者」キリスト・イエスに当てはまることを明確に示している。(イザ 42:1-4,6,7をマタ 12:18-21と比較。)「恵みの時」とは,エホバがご自分に仕える者に答え,その者を助ける時。実際,イエスは地上にいた時,「自分を死から救える方に祈願を捧げ,願いを伝え……,神への畏れゆえに聞き入れられ」た。(ヘブ 5:7-9。ルカ 22:41-44; 23:46,ヨハ 12:27,28; 17:1-5と比較。)それは,予告されていた「仕える者」,つまり神ご自身の子にとって,「救いの日」および「受け入れられる時[または,「恵みの時」]」だった。ルカ 4:19の注釈と比較。
今こそ特に受け入れられる時です。今こそ救いの日です: パウロが引用しているイザ 49:8の預言は,回復に関する預言であり,メシアに関する預言でもある。この預言の実現にはイエス・キリストが関係していたが,パウロは預言を引用し,それがクリスチャンにも当てはまることを示した。パウロは,「神の惜しみない親切を受けながら,それを無駄にすることがないようにしてください」と勧めた。(コ二 6:1)それらクリスチャンは西暦33年のペンテコステ以降,「神のイスラエル」となっていた。(ガラ 6:16)しかし,「受け入れられる時」つまり恵みの時が「救いの日」となるためには,自分たちが神の惜しみない親切を受けるにふさわしいことを証明する必要があった。
洞-1 275-276; 塔10 12/15 12-14; 啓 127; 鑑06 3-4; イ-2 143-145; 塔98 12/15 18-20;
宣 78/10 1; 鑑77 7-8; 塔72 568; 塔71 86; 事 401; 塔65 22; 塔63 658; 目61 11/22 27; 塔57 113; 塔54 106; 塔52 165
塔84 8/15 8-13; 宣 84/9 3; 塔73 63; 塔72 187; 目72 7/22 15; 塔65 463,468; 塔62 571; 塔61 553,690; 目61 8/8 4; 塔52 165
右手と左手に持つ: パウロはここで,兵士がどのように武器を使うかを思い描いていたようだ。兵士は普通,攻撃用の武器である剣を右手に,防御用の武器である盾を左手に持っていた。パウロは,神の言葉を含め,そのような正義の武器を使って,真理を広める活動を推し進め,清い崇拝を攻撃から守った。(コ二 10:4,5。エフ 6:16,17。ヘブ 4:12)パウロは敵たちとは違い,自分の目的を遂げるために力を誤用したり欺きや中傷や策略を使ったりはしなかった。(コ二 1:24; 10:9; 11:3,13-15; 12:16,17)そうではなく,神から見て正しいつまり公正な方法だけを使おうとした。(用語集の「正しいこと,正しさ」参照。)パウロは,クリスチャンの奉仕者みんなが大切な活動を行う用意が十分にできていることを願っていた。
死にそうだ: または,「死に値する」。パウロと仲間は,宣教期間中に多くの試練に遭い,しばしば死の危険に直面した。(使徒 14:19。コ一 15:30,31。コ二 1:8; 4:11; 11:23-27)それでも,生きていますと叫ぶことができた。さまざまな苦難や迫害を経験したにもかかわらず,生き永らえた。
または,「矯正」。
私たちは……皆さんに語るために口を開き: または,「私たちは……皆さんに率直に語り」。「私たちの口は皆さんに対して開かれている」というギリシャ語は,「率直に話す」という意味の慣用句。
目65 3/8 4
私たちは皆さんに惜しみなく愛情を示しています: または,「皆さんは私たちの中で窮屈な思いはしていません」。ギリシャ語ステノコーレオマイはこの節で2回使われていて,字義的には「狭い場所に入れる」という意味。コリントのクリスチャンに関するこのフレーズの意味について,ある辞典は「彼らはパウロの愛情の狭い一画に囲い込まれているのではない」と説明している。パウロはいわば,コリントのクリスチャンに感じている愛情には限りがないと言っている。
優しい愛情: ここで使われているギリシャ語スプランクノンは,字義通りには体の内部を指す。使徒 1:18で,「内臓」と訳されている。この文脈(コ二 6:12)では,内奥の強い感情を指す。思いやりを表す極めて強いギリシャ語。
皆さんも心を大きく開いて: または,「皆さんも自分を広くして」。ここで使われているギリシャ語動詞は,字義的には「広げる」,「大きくする」という意味。(マタ 23:5)パウロは,温かな愛情を示すことに関して,この語を比喩的に使っている。ある参考文献は,この表現は「惜しみない愛情を広く」示すことを表すと述べている。
暮 レッスン56; 目20.3 10; 塔09 11/15 20-21; 塔07 1/1 9-11; 目 06/3 9; 塔04 10/1 16-17; 宣 04/5 8; 拝 149-150; 塔95 12/1 16; 宣 94/8 1; 塔88 10/1 12;
塔85 3/15 22-23; 目65 3/8 4; 塔64 751; 塔61 491; 目61 7/8 23; 塔52 378
クリスチャンではない人と結び付いてはなりません。それは不釣り合いな関係です: または,「クリスチャンではない人と不釣り合いなくびきで結ばれてはなりません」。この部分で農作業の基本が例えに使われている。農作業では,体の大きさや力がかなり違う2頭の家畜をくびきでつないで一緒に作業させることはしない。もしそうしたら,弱い方の動物はペースに付いていくのに苦労し,強い方にかかる負荷が大きくなってしまう。パウロは申 22:10を念頭に置いていたと思われる。モーセの律法は,イスラエル人が牛とロバをくびきでつないで畑を耕すことを禁じていた。パウロはこの農作業の基本を例えに使って,クリスチャンがクリスチャン会衆にいない人と手を組むなら,神との関係にどれほど悪い影響があるかを示している。例えば,クリスチャンが信者でない人と結婚するなら,2人の結び付きは不釣り合いと言える。崇拝に関して2人の考えと行動は一致しない。
結び付いてはなりません。それは不釣り合いな関係です: または,「不釣り合いなくびきで結ばれてはなりません」。ギリシャ語聖書で,「不釣り合いなくびきで結ばれる」と訳されるギリシャ語(ヘテロジュゲオー)はここでしか使われていない。その語は字義的には,「差のある仕方でくびきでつながれる(結び合わされる)」という意味。関連する動詞シュンゼウグニュミがマタ 19:6とマル 10:9の「神が結び合わせた[直訳,「くびきでつないだ」]もの」というフレーズで使われている。どちらの動詞も,「くびき」に当たるギリシャ語ジュゴスと関連がある。
洞-2 309; 暮 レッスン42; 愛簡 134-135; 塔10 6/1 27; 愛 113; 質2 34; 塔07 5/1 15-16; 塔04 7/1 30-31; 塔03 10/15 32; 目98 1/22 20; 塔95 11/15 31; 塔93 10/1 29-30; 目93 11/22 11-13; 塔89 11/1 18-22; 目86 3/8 17; 目86 3/22 7-8;
塔84 11/15 13; 塔82 6/15 31; 目74 4/8 18; 塔73 301,478; 塔72 188,497; 塔68 561; 塔67 683-684; 塔65 245,247; 目65 10/8 29; 目64 1/8 10; 目64 9/22 11; 塔63 412; 塔61 594; 塔60 208-209,408; 塔59 50; 塔58 38; 塔57 452; 塔56 52,467; 天 194; 塔53 228; 塔52 301
ベリアル: この語はギリシャ語聖書でここにしか出ておらず,サタンを指す名称として使われている。このギリシャ語はヘブライ語ベリーヤーアルに対応していて,そのヘブライ語は「どうしようもない」,「無価値な」という意味。それは,考え,言葉,助言(申 15:9,その語が「卑しい」と訳されている。詩 101:3。ナホ 1:11,その語が「役に立たない」と訳されている),「災難」(詩 41:8)に関して使われているが,エホバの民にほかの神々を崇拝させようとする者たちなど,最も低劣である無価値な者たちに関して一番よく使われている。(申 13:13)この表現は,邪悪な人たちを表すのに他の幾つもの節でも使われている。(裁 19:22-27; 20:13。サ一 25:17,25。サ二 20:1; 22:5。王一 21:10,13)西暦1世紀,ベリアルはサタンを指す名称として使われていた。シリア語ペシタ訳ではコ二 6:15のこの部分が「サタン」となっている。パウロは神の敵対者を大抵サタンと呼んでいるが(ロマ 16:20。コ二 2:11),「悪魔」(エフ 6:11。テモ一 3:6),「邪悪な者」(テサ二 3:3)「今の体制の神」(コ二 4:4)という名称も使っている。
調和: または,「一致」。ここで使われているギリシャ語シュムフォーネーシスは,字義的には「共に音を出すこと」という意味で,楽器が作り出すハーモニーを指すのかもしれない。ある辞書はこの語を「関心が共通している状態」と定義している。この節の最初の修辞的な質問に対する想定された答えは,「キリストとサタンの間には当然,調和や一致は全くありません」である。
クリスチャン: または,「信じる人」,「忠実な人」。ギリシャ語ピストスは,誰かまたは何かに対して信頼や信仰を表す人,つまり信じる人を指せる。一方で,この言葉は,他の人から信頼され忠実と見なされる人も指せる。この聖句のように両方の意味が考えられる場合もある。
クリスチャンはクリスチャンではない人と何を共有するのでしょうか: または,「クリスチャンはクリスチャンではない人とどんな分け前を持つのでしょうか」。ギリシャ語メリスは,「分け前」,「分」という意味で,使徒 8:21ではほかの語と合わせて「関わる」と訳されている。
塔73 301; 目66 3/22 27; 塔64 427; 塔60 208-209,408; 塔57 452; 天 194
神が言った通りです: パウロは,ヘブライ語聖書の幾つかの聖句を引用したり,それらの聖句に暗に言及したりして,崇拝における清さに対する神の態度がずっと変わらないことを示している。ここ16節で,レビ 26:11,12とエゼ 37:27に言及している。
エホバはこう言います: パウロはこの節でイザ 52:11から幾つかの言葉を引用していて,その文脈から,このメッセージがエホバ神からのものであることははっきりしている。(イザ 52:4,5)パウロは,セプトゥアギンタ訳に何百回も出てくるフレーズを使って,引用した幾つかの言葉を1つにまとめている。そのフレーズは,「エホバは言う」や「エホバは宣言する」に当たるヘブライ語の訳で,例えば,イザ 1:11; 48:17; 49:18(ロマ 14:11で引用されている); 52:4,5にある。付録C3の序文とコ二 6:17を参照。
それで,彼らの中から出て: この文脈(コ二 6:14–7:1)で,パウロはコリントのクリスチャンに,クリスチャンではない人と結び付いてはならず,清さを保つようにと訓戒した。ここ17節でイザ 52:11を引用している。その預言は,紀元前537年にバビロンからエルサレムに戻るユダヤ人への命令だった。それらのユダヤ人は,ネブカドネザル王がエルサレムの神殿から奪った神聖な器具を運んでいた。外面的な儀式上の清さを保つだけでなく,偽りの崇拝に関わるもの全てを取り除いて清い心を持つ必要があった。同じように,コリントのクリスチャンは偽りの宗教の汚れた神殿を避け,偶像崇拝の汚れた行い全てから離れている必要があった。「体と精神のあらゆる汚れを除き去って自分を清め」なければならなかった。(コ二 7:1)
そうすれば私はあなたたちを受け入れよう: または,「そうすれば私はあなたたちを迎えよう(迎え入れよう)」。これは,セプトゥアギンタ訳のエゼ 20:34,41からの引用のようだ。
全能者: ここで「全能者」と訳されているギリシャ語パントクラトールは,「あらゆるものの支配者」,「あらゆる力を持つ方」とも訳せる。パウロはこの文脈で,「全能者」の子供になるために,偽りの崇拝や命のない無力な偶像の使用を避けるようクリスチャンに勧めている。(コ二 6:16)「全能者」と訳される語は,ギリシャ語聖書に10回出てくる。ここが最初で,他の9回は「啓示」の書にある。(啓 1:8; 4:8; 11:17; 15:3; 16:7,14; 19:6,15; 21:22)
全能者エホバは言います: パウロはこの節で,サ二 7:14とイザ 43:6から引用しているようだ。「全能者エホバは言います」という表現は,セプトゥアギンタ訳のサ二 7:8から引用しているようで,その元のヘブライ語本文には,「大軍を率いるエホバはこう言っている」とある。パウロは,ヘブライ語聖書からの引用を使って,偽りの崇拝や命のない無力な偶像の使用を避けるようクリスチャンに勧めている。クリスチャンはそうすることで,「全能者エホバ」の「息子や娘」になることができる。付録C1とC2参照。
目66 9/8 6; 塔60 208-209
6 さらに,
3
11
14 クリスチャンではない