ヨハネ
注釈 1章
ヨハネ: ヘブライ語名のエホハナンあるいはヨハナンに相当する。「エホバは恵みを与えてくださった」,「エホバは慈悲深い」という意味。この福音書に筆者の名前は出ていない。しかし,西暦2世紀と3世紀までには,この書は一般に使徒ヨハネによるものとされていた。イエスがペテロの父をヨハネと呼んでいるヨハ 1:42と21:15-17は別として,この福音書でヨハネという名前が出てくる場合,バプテストのヨハネを指す。(ヨハ 1:42; 21:15の注釈を参照。)使徒ヨハネはこの書に一度も名前が出てこないが,兄弟のヤコブと共に「ゼベダイの子たち」と呼ばれている。(ヨハ 21:2。マタ 4:21。マル 1:19。ルカ 5:10。ヨハ 1:6の注釈を参照。)この福音書の結びの数節で,筆者は自分のことを「イエスの愛する弟子」(ヨハ 21:20-24)と呼んでいて,この表現は使徒ヨハネを指すと考えてよい十分な理由がある。ヨハ 13:23の注釈を参照。
ヨハネによる福音書: どの福音書の筆者も,自分が筆者であることをその書の中で明らかにしておらず,書名は原文にはなかったと思われる。ヨハネの福音書の写本の中には,書名が「エウアンゲリオン カタ イオーアンネーン」(「ヨハネによる良い知らせ[または,「福音書」]」)というものや,その短縮形「カタ イオーアンネーン」(「ヨハネによる」)というものがある。書名がいつ加えられ,使われるようになったのかは,はっきりしない。2世紀だという見方もある。2世紀の終わりか3世紀初期のものとされる福音書写本で,長い書名のものが発見されているから。ある学者たちによると,「福音書」(直訳,「良い知らせ」)という呼び名はマルコの福音書の始まりの言葉(「神の子イエス・キリストについての良い知らせの始まり」)から来ているのかもしれない。書名に筆者の名前を含めるのは,各書をはっきり識別する実用的な目的のためではないかと考えられる。
初め: 聖書で,「初め」という語の意味は文脈による。ここのギリシャ語アルケーが創造者である神の「初め」を指すとは考えられない。神は永遠で,初めがないから。(詩 90:2)それで,その語は神による創造の初めを指すに違いない。神が最初に創造したものが言葉と呼ばれている。これは,イエスとなった者の天での呼び名。(ヨハ 1:14-17)イエスは「全創造物の中の初子」(コロ 1:15)と呼ばれるにふさわしい唯一の者。「神に最初に創造された者」(啓 3:14)で,他の天使や宇宙が創造されるより前に存在していた。「他の全てのものは,天のものも地上のものも,[イエス]を通して創造された」。(コロ 1:16)「初め」という語が使われている他の例について,ヨハ 6:64の注釈を参照。
言葉: または,「ロゴス」。ギリシャ語はホ ロゴスで,ここでは称号として使われ,ヨハ 1:14と啓 19:13でも使われている。ヨハネはこの称号を所有する方がイエスであることを明らかにした。この称号は,人間となる以前に天で存在していた間も,完全な人間として地上で宣教を行っていた間も,天に高められた後もイエスに当てはまった。イエスは,創造者の他の子たちや人間に情報と指示を伝達する神の「言葉」つまり代弁者だった。イエスが地上に来る以前,エホバは多くの場合,「言葉」である天使を通して人間と話したと考えられる。(創 16:7-11; 22:11; 31:11。出 3:2-5。裁 2:1-4; 6:11,12; 13:3)
と共に: 直訳,「の方に向いて」。この文脈で,ギリシャ語の前置詞プロスは,密接なことや親しい関係を暗示する。これは,「言葉」と唯一の真の神が別個の存在であることも示している。
言葉は神のようだった: 直訳,「言葉は神だった」(ギリシャ語で冠詞は付いていない)。または「言葉は神性を備えていた」。ヨハネによるこの記述は,「言葉」(ギリシャ語,ホ ロゴス。この節の言葉に関する注釈を参照。)つまりイエス・キリストの特質や特性を表している。「言葉」は他の全てのものの創造の際に神に用いられた初子として卓越した立場にあり,それは,「神[a god]」,「神のような者」,「神性を備えている」,「神性を備えた者」と呼ばれる根拠となっている。多くの翻訳者は,全能の神と等しい存在として「言葉は神[God]であった」と訳すことを好んでいる。しかし,ヨハネが「言葉」は全能の神だと述べていたわけではないと言える十分な理由がある。まず,1節と2節の両方で,「言葉」は「神[God]と共に」いたとはっきり述べられている。また,ギリシャ語テオスが1,2節に3回出てくるが,1回目と3回目に出てくるテオスにはギリシャ語で定冠詞が付いているのに対し,2回目のテオスには付いていない。多くの学者は,2回目のテオスが無冠詞であることを重要な点としている。この文脈で,定冠詞の付いたテオスは全能の神を指す。一方,この構文で無冠詞のテオスは形容詞的な意味となり,「言葉」の特性を表現している。そのため,英語,フランス語,ドイツ語の幾つもの聖書翻訳はこの箇所を「新世界訳」と同様に訳しており,「言葉」は「神[a god]」,「神性を備えている」,「神性を備えた者」,「神のような」,「神に似た」という考えを伝えている。ヨハネの福音書のコプト語サヒド方言とボハイル方言への古代訳も,この見方を支持している。恐らく西暦3,4世紀に作成されたその翻訳は,ヨハ 1:1に最初に出てくるテオスを2回目のテオスとは違う仕方で扱っている。これらの訳は,「言葉」の特質を際立たせており,「言葉」の性質が神に似ていることを示しているが,父である全能の神と等しい存在とはしていない。この節と調和して,コロ 2:9は,キリストに「神の性質が完全に備わっている」と述べている。また,ペ二 1:4では,キリストの共同の相続人たちでさえ「神に似た性質を持つようになる」と述べられている。加えて,セプトゥアギンタ訳では,ギリシャ語テオスが,「神」と訳されるヘブライ語のエールまたはエローヒームの訳語として一般に使われている。それらのヘブライ語は,「力強い者」,「強い者」という基本的な意味を伝えていると考えられ,全能の神にも,他の神々にも,人間にも使われている。(ヨハ 10:34の注釈を参照。)「言葉」を「神[a god]」,「力強い者」と呼ぶことは,イザ 9:6の預言とも調和しており,そこではメシアが「力強い神」(「全能の神」ではない)と呼ばれるようになること,またご自分の民となる機会を得る人たち全ての「永遠の父」となることが予告されている。その方にとっての父,「大軍を率いる熱心な神エホバ」がこれを成し遂げる。(イザ 9:7)
彼: 「言葉」つまりロゴスのこと。ヨハ 1:1の注釈を参照。
彼によって存在するようになったものは: 最初期の幾つかのギリシャ語写本では3節と4節に句読点がない。「新世界訳」の句読点は,ウェストコット・ホート,聖書協会世界連盟,ネストレ・アーラントなどギリシャ語本文の学術版に沿っている。3節の最後の部分は4節につながっている。そのような訳は,命と光が「言葉」によって存在するようになったことを示している。(コロ 1:15,16)ギリシャ語本文に対する別の理解に従っている翻訳もあり,3節の最後の部分を先行する部分と結び付け,以下のように訳している。「存在するようになったもので,彼を通さずに存在するようになったものは一つもない」。しかし,多くの学者は「新世界訳」の読みを支持している。
命……光: この2つのテーマはヨハネの記したものに織り込まれている。神は命の源で,「言葉」であるイエスによって,他のあらゆる形態の命が「存在するようになった」。(ヨハ 1:3)この意味で,命はイエス・キリストを通して生じた。また,神はイエスによって,死にゆく罪深い人類が永遠の命を得ることができるようにした。その意味で,イエスは人類の光となった命と見なすことができる。ヨハ 1:9は,「言葉」を「どんな人にも光を与える真の光」と呼んでいる。「世の光」であるイエスの後に従う人は,「命を与える光を持つ」。(ヨハ 8:12)「言葉」は,人類に光を与えて「命へと導く」ことを神から委ねられた方。(使徒 3:15)
神の代理として遣わされた: または,「神から務めを与えられた」。バプテストのヨハネの務めは神から来ていて(ルカ 3:2),伝道者,広く知らせる使者として活動することが関係していた。ヨハネはメシアと神の王国が近づいたことを自分のもとに来たユダヤ人たちに告げるだけでなく,罪の悔い改めを勧めることもした。(マタ 3:1-3,11,12。マル 1:1-4。ルカ 3:7-9)バプテストのヨハネは預言者,(弟子のいる)教師,福音伝道者として仕えた。(ルカ 1:76,77; 3:18; 11:1。ヨハ 1:35)
ヨハネ: バプテストのヨハネのこと。この福音書の筆者である使徒ヨハネは,バプテストのヨハネの名前を原語では19回述べているが,他の福音書筆者とは違い,「バプテスト」や「バプテスマを施す人」という呼び方は一度も使っていない。(マタ 3:1,マル 1:4の注釈を参照。)使徒ヨハネは3人のマリアについては区別している。(ヨハ 11:1,2; 19:25; 20:1)しかし,バプテストのヨハネについてそのような区別をする必要はなかった。自分のことは一度も名前で呼んでおらず,どのヨハネのことか誤解はないと思えたからである。この点も,使徒ヨハネがこの福音書を書いた証拠と言える。「ヨハネの紹介」とヨハ 書名の注釈を参照。
証人として: または,「証言のために」。「証言」に当たるギリシャ語名詞(マルテュリア)がヨハネの福音書に出てくる回数は,他の3つの福音書を合わせた数の2倍以上になる。証言すると訳される関連する動詞(マルテュレオー)は,他の福音書の中で2回(マタ 23:31。ルカ 4:22)なのに対し,ヨハネの福音書に39回出てくる。このギリシャ語動詞はバプテストのヨハネに関してよく使われているので,「証言者ヨハネ」とも呼べる,と言う人もいる。(ヨハ 1:8,15,32,34; 3:26; 5:33。ヨハ 1:19の注釈を参照。)ヨハネの福音書で,この動詞はイエスの宣教に関しても頻繁に使われている。イエスが「証言し」たことが何度か述べられている。(ヨハ 8:14,17,18)特に注目できるのはポンテオ・ピラトに対するイエスの言葉。「真理について証言すること,このために私は生まれ,このために私は世に来ました」。(ヨハ 18:37,脚注)「ヨハネへの啓示」の中で,イエスは「忠実な証人」,「忠実で真実な証人」と言われている。(啓 1:5; 3:14)
世: ギリシャ語コスモスはここで,人類という世を指す。この文脈で,世に来るという表現は,イエスが人間として誕生することではなく,バプテスマを受けて人々の中に来ることをおもに指すようだ。イエスはバプテスマの後,与えられた務めを遂行し,人類という世に光を掲げる者となった。(ヨハ 3:17,19; 6:14; 9:39; 10:36; 11:27; 12:46,ヨ一 4:9と比較。)
世は彼を通して存在するようになった: ここでギリシャ語コスモス(「世」)は人類という世を指す。そのことは,節の後半に,世の人々は彼を知らなかったとあることから明らか。このギリシャ語は世俗の文書で宇宙や創造物全般を指して使われることもあった。使徒パウロもギリシャ人に話した時,その意味で使ったのかもしれない。(使徒 17:24)とはいえ,ギリシャ語聖書ではたいてい,人類という世あるいはその一部を指す。確かにイエスは天地とそこにある全てのものを含め,全てのものを生み出すことに携わったが,この節は人類を存在させる上でのイエスの役割に注意を向けている。(創 1:26。ヨハ 1:3。コロ 1:15-17)
人間: 直訳,「肉」。ここでギリシャ語サルクスは,物質的存在,肉体を持つ生きた存在という意味で使われている。イエスは人間として生まれた時,もはや天での目に見えない体ではなかった。かつて天使がしたように単に肉体を着けていたのではない。(創 18:1-3; 19:1。ヨシ 5:13-15)それで,イエスが自分を「人の子」と呼ぶのは適切だった。(ヨハ 1:51; 3:14)マタ 8:20の注釈を参照。
言葉は人間となって: イエスは生まれてから死ぬまでまさしく人間だった。イエスは自分が肉体になった目的をこう説明した。「私が与えるパンとは私の肉であり,人類が生きるためのものです」。(ヨハ 6:51)さらに,イエスは全く人間だったからこそ,血肉の人間が経験する事柄を経験して同情心のある大祭司になることができた。(ヘブ 4:15)イエスは人間であると同時に神であることはできなかった。聖書はイエスが「天使たちより少し劣る者とされた」と述べている。(ヘブ 2:9。詩 8:4,5。この節の人間に関する注釈を参照。)しかし,イエスが肉体で来たことに全ての人が同意したわけではない。例えば,グノーシス派は,知識(ギリシャ語グノーシス)は神秘的な方法によって得られると信じ,背教したキリスト教の教えにギリシャ哲学と東洋の神秘主義を混ぜ合わせた。目に見える物質は全て悪であると考えたため,イエスは肉体で来たのではなく,人間の体を着けているかに見えただけだと教えた。西暦1世紀の終わりにはグノーシス主義の初期の形態が広がっていたようだ。それでヨハネは,「言葉は人間となって」という点を明確に述べたのだろう。手紙の中でも,イエスが「人間として」来たのではないという偽りの教えに関して警告している。(ヨ一 4:2,3。ヨ二 7)
住み: 直訳,「天幕を張り」。「言葉」が「私たちの間に住み」つまり「天幕を張り」という表現をイエスが本当の人間ではなく受肉していたという意味に取る人がいる。しかし,ペテロは「幕屋」あるいは「天幕」と訳される関連する名詞を使って,人間としての自分の肉体について述べた。(ペ二 1:13,脚注)ペテロは,自分の死が近いことや肉体ではなく天での体で復活することを知っていたが,自分が受肉していると言っていたのではない。(ペ二 1:13-15。コ一 15:35-38,42-44,ヨ一 3:2も参照。)
私たちは彼の栄光……を目にした: イエスの生涯と宣教の間に,ヨハネや他の使徒たちは,エホバの性質を完璧に反映する者だけが表せる栄光,光輝や荘厳さを目にした。さらに,使徒ヨハネはヤコブやペテロと共に,イエスの姿が変わるのを目撃した。(マタ 17:1-9。マル 9:1-9。ルカ 9:28-36)それでヨハネは,イエスが神の性質を反映していたことだけでなく,60年以上前の変貌の幻にも暗に言及していたのかもしれない。この出来事は使徒ペテロにも忘れ難い印象を残した。ペテロはヨハネが福音書を書く30年ほど前に手紙を書いた。そして,変貌が「預言の言葉」の見事な確証となっていることをはっきり述べた。(ペ二 1:17-19)
独り子: 「ただ一人生まれた」とも訳されるギリシャ語モノゲネースは,「その種の中で唯一の」,「唯一無二の」,「特異な」と定義されている。聖書でこの語は,息子または娘と親との関係を表すのに使われる。(ルカ 7:12; 8:42; 9:38の注釈を参照。)使徒ヨハネが書いた書で,この語はイエスについてのみ使われているが(ヨハ 3:16,18。ヨ一 4:9),イエスが人間として誕生し存在したことに関しては一度も使われていない。この語はロゴスつまり「言葉」として人間となる以前に存在していたイエスを描写するために使われていて,イエスは「人類が誕生する前」でさえ「初めに神と共にいた」方と述べられている。(ヨハ 1:1,2; 17:5,24)イエスはエホバの初子で神が直接創造したただ独りの方なので,「独り子」。他の天使も「真の神の子たち」や「神の子たち」(創 6:2,4。ヨブ 1:6; 2:1; 38:4-7)と呼ばれているが,その子たちは皆,初子を通してエホバによって創造された。(コロ 1:15,16)まとめると,モノゲネースという語は,イエスが「無類の」,「特異な」,「比類のない」存在であることと,神がただひとりで直接生み出した唯一の子であることを表す。(ヨ一 5:18)
神の恵み: または,「惜しみない親切」。ギリシャ語カリスはギリシャ語聖書に150回以上出ていて,文脈によってさまざまな意味合いを伝える。神が人間に示す惜しみない親切を指す場合,神がお返しを期待せずに気前よく与える無償の贈り物を表す。受ける側がそれに値することや見合うことを何もしていないのに,神が豊かに与えることや,惜しみなく愛や親切を示すことを表している。ひとえに与える側の気前の良さによるもの。(ロマ 4:4; 11:6)この語は必ずしも,受ける側が親切を受けるに値しないことを示してはいない。それで,イエスも神からこうした恵みや親切を受けることができる。イエスに関わる文脈で,この語は,この節のように「神の恵み」あるいは「好意」と訳すことができる。(ルカ 2:40,52)別の文脈では,「恵み」,「好意」,「親切な贈り物」と訳されている。(ルカ 1:30。使徒 2:47; 7:46。コ一 16:3。コ二 8:19)
神の恵みと真理が満ちていた: 「言葉」であるイエス・キリストは神の恵みを受け,いつも真理を語った。しかし,文脈からすると,この語句にはそれ以上の意味がある。エホバは特に独り子を選んで,父の惜しみない親切と真理を満ちあふれるほどに説明し実証させた。(ヨハ 1:16,17)神のそのような特色はイエスを通して十分に明らかにされたので,イエスは「私を見た人は,父をも見た」と言うことができた。(ヨハ 14:9)イエスは,喜んで受け入れる人全てに惜しみない親切と真理を差し伸べるための神の手段だった。
私の後から来る方: バプテストのヨハネはイエスより6カ月ほど前に生まれ,イエスより先に宣教を始めた。その意味で,イエスはヨハネの「後から」来た。(ルカ 1:24,26; 3:1-20)しかし,イエスはヨハネよりはるかに大きなことを行ったので,ヨハネよりあらゆる点で前を進んでいた,つまり優れていたと言える。バプテストのヨハネは,その方は私より先に存在したと述べて,イエスの人間となる前の存在も認めていた。
惜しみない親切を繰り返し: 「惜しみない親切」に当たるギリシャ語はカリスで,この文脈では,神が豊かに与えることや,惜しみなく愛や親切を示すことを表している。この親切は労せずに与えられる過分の贈り物で,ひとえに与える側の気前の良さによるもの。(用語集参照。)ギリシャ語では,カリスという語が繰り返されて,前置詞アンティ(「上に」と訳せる)で結ばれており,惜しみない親切が豊かで継続的で途切れないことを示している。これは,「途切れない[または,「絶え間ない」]惜しみない親切」とも表現できる。
律法……惜しみない親切と真理: ギリシャ語聖書で,モーセを通して与えられた律法は「惜しみない親切」としばしば対比されている。(ロマ 3:21-24; 5:20,21; 6:14。ガラ 2:21; 5:4。ヘブ 10:28,29)モーセの律法は「キリストに導く保護者」の役目を果たし,キリストに実現した影つまり預言的描写を含んでいた。(ガラ 3:23-25。コロ 2:16,17。ヘブ 10:1)何よりも,律法は人間に「罪についての正確な知識」を与えた。(ロマ 3:20)この正確な知識によって,「罪の代償は死」であり,「全ての違反と不従順な行いが公正に処罰された」ことが理解できた。(ロマ 6:23。ヘブ 2:2)ここでヨハネは,「律法」と,イエス・キリストを通して実現した「惜しみない親切と真理」とを対比している。イエスは,許しや贖罪のための犠牲を含め律法が予示していた事柄を実現させた。(レビ 4:20,26)また,神が罪を贖う犠牲としてご自分の子を与えることによって,罪深い人類にご自分の「惜しみない親切」を示す,あるいはギリシャ語カリスの別の訳で言えば「親切な贈り物」を与える,ということも明らかにした。(コロ 1:14。ヨ一 4:10。ロマ 6:23の注釈と用語集の「惜しみない親切」を参照。)イエスは,この犠牲によって人間が罪と死から自由になるという新しい「真理」を明らかにした。(ヨハ 8:32)ヨハ 1:14の注釈を参照。
天の父のそばに: 直訳,「父の懐に」。この表現は,特別な好意と親密な関係を表す位置を指している。この比喩表現は,食事の時に,客が寝椅子に横になって親友の懐もしくは胸元に反り返ったりした習慣に由来している。(ヨハ 13:23-25)それで,イエスがエホバの最も親しい友,神のことを誰よりも詳しくはっきり説明できる方として描かれている。(マタ 11:27)
神のような独り子: 直訳,「独り子の神」。ヨハネはここで,少し前で「神」と呼んだ「言葉」,「イエス・キリスト」について述べている。(ヨハ 1:1,17)ヨハネによれば,イエスは神の独り子。(ヨハ 1:14; 3:16)この節でヨハネがイエスを指して使った「独り子の神」という表現は,神の取り決めの中でのイエスの特異な立場を強調している。聖書中の「神」という語の使い方からすれば,イエスを「神」と呼ぶことができる。「神」という語は力強い者という基本的な考えを伝えていて,聖書中で人間についても使われている。(詩 82:6。ヨハ 1:1; 10:34の注釈を参照。)イエスが「神」つまり力強い者と言えるのは,全能の神である父から力と権威を与えられているから。(マタ 28:18。コ一 8:6。ヘブ 1:2)イエスは神が直接創造したただ独りの方で,ただイエスを通してのみ全てのものが「存在するようになった」(ヨハ 1:3)ので,イエスを「独り子の神」と呼ぶのは適切。この表現は,イエスが神の天にいる全ての子たちの中で,栄光ある卓越した特異な地位を占めていることを示す。単に「独り子」となっている写本も幾つかあり,そのように訳している聖書翻訳もある。しかし,最初期の最も権威ある幾つかの写本では,「独り子の神」(ギリシャ語で定冠詞がある場合とない場合がある)となっている。
ヨハネの証言: ヨハ 1:7で,バプテストのヨハネは,「証人」(ギリシャ語マルテュリア,ここでも使われている),つまり光について証言するために来た人,と述べられている。ここの同じギリシャ語は,バプテストのヨハネがすぐ後でイエスについて明確に述べている事柄を指している。
エリヤ: マタ 11:14の注釈を参照。
例の預言者: モーセが予告した待望の預言者のこと。(申 18:18,19。ヨハ 1:25-27; 6:14; 7:40。使徒 3:19-26)
エホバ: ここで引用されているイザ 40:3では,元のヘブライ語本文に,ヘブライ語の4つの子音字(YHWHと翻字される)で表される神の名前が出ている。(付録A5と付録C参照。)福音書筆者のマタイ,マルコ,ルカはこの預言をバプテストのヨハネに当てはめていて,ヨハネの福音書のこの部分では,バプテストのヨハネがこの預言を自分自身に当てはめている。ヨハネは,天の父の代理として父の名によって来るイエスの前を行くという意味で,エホバの道を真っすぐにすることになっていた。(ヨハ 5:43; 8:29)
バプテスマを施します: または,「浸礼を施します」,「浸します」。ギリシャ語バプティゾーは,「浸す」,「漬ける」という意味。聖書の他の箇所からすると,バプテスマは完全に浸すこと。ある時,ヨハネはサリムに近いヨルダン渓谷でバプテスマを施していた。「そこに水がたくさんあったから」とある。(ヨハ 3:23)フィリポがエチオピアの高官にバプテスマを施した時,2人は「水の中に下りて」いった。(使徒 8:38)同じギリシャ語がセプトゥアギンタ訳の王二 5:14で,ナアマンが「ヨルダン川に7回体を浸した」ことについて使われている。
サンダル: 人のサンダルのひもをほどいたりサンダルを脱がせたり運んだりすること(マタ 3:11。マル 1:7。ルカ 3:16)は,奴隷のような立場の低い人の仕事と見なされていた。
ベタニヤ: 一部の写本では,「ベタニヤ」ではなく「ベタバラ」となっていて,そのように訳している聖書翻訳もある。とはいえ,最も信頼できる幾つかの写本では,「ベタニヤ」となっている。
ヨルダン川の向こうのベタニヤ: ヨルダン川の東ということ。このベタニヤはギリシャ語聖書に1回だけ出ていて,エルサレムの近くのベタニヤではない。(マタ 21:17。マル 11:1。ルカ 19:29。ヨハ 11:1)ヨルダン川の東のベタニヤがどこにあったかは知られていない。一部の人は,イエスがバプテスマを受けた所と言い伝えられている,ヨルダン川を挟んでエリコの対岸としている。しかし,ヨハ 1:29,35,43; 2:1の記録からすると,エリコの近くではなくガリラヤのカナに近い場所のようだ。それで,その場所はガリラヤ湖のやや南と思われるが,はっきり同定することはできない。付録B10参照。
人類: 直訳,「世」。このギリシャ語コスモスは,一般のギリシャ文学で人類と密接に関連付けられていて,聖書では特にそうなっている。この文脈とヨハ 3:16のコスモスは,アダムから受け継いだ罪を負っているものとしてここで描写されている人類という世全体を指す。
神の子羊: イエスがバプテスマを受け,悪魔に誘惑された荒野から戻った後,バプテストのヨハネはイエスを「神の子羊」と紹介した。この表現は,こことヨハ 1:36にだけ出ている。(付録A7参照。)イエスを子羊に例えるのは適切なこと。聖書全体を通じて,羊は,罪を認めて神に近づくために捧げられた。これは,イエスが完全な人間の命を人類のために差し出して犠牲となることを予示していた。「神の子羊」という表現は聖書の幾つもの節と関連付けられる。バプテストのヨハネがヘブライ語聖書に通じていたことを考えると,彼の言葉は次のものに暗に言及していたのかもしれない。アブラハムが息子イサクの代わりに捧げた雄羊(創 22:13),奴隷状態にあったイスラエル人を救出するためにエジプトでほふられた過ぎ越しの羊(出 12:1-13),もしくは毎日の朝と夕方にエルサレムの神の祭壇で捧げられた雄羊(出 29:38-42)。またヨハネは,エホバが「私に仕える者」と呼ぶ人が「羊のように,殺されるために連れてこられ」る,というイザヤの預言を念頭に置いていたのかもしれない。(イザ 52:13; 53:5,7,11)使徒パウロは,コリントのクリスチャンへの最初の手紙を書いた時,イエスのことを「私たちの過ぎ越しの子羊」と述べた。(コ一 5:7)使徒ペテロは,キリストの「傷も汚点もない子羊の血のような貴重な血」について語った。(ペ一 1:19)また「啓示」の書では25回以上,栄光を受けたイエスが「子羊」として比喩的に述べられている。(例えば,啓 5:8; 6:1; 7:9; 12:11; 13:8; 14:1; 15:3; 17:14; 19:7; 21:9; 22:1。)
ハトのように: ハトは神聖な目的で用いられ,象徴的な意味もあった。犠牲として捧げられ(マル 11:15。ヨハ 2:14-16),潔白や清浄の象徴だった。(マタ 10:16)ノアの放ったハトがオリーブの葉をくわえて箱船に戻ったことは,洪水の水が引いたこと(創 8:11),休息と平和の時が近いこと(創 5:29)を示していた。それで,イエスのバプテスマの時,エホバはハトを使って,イエスのメシアとしての役割に注意を引いていたと思われる。清浄で罪のない神の子が人類のために命を犠牲にして,王として治める休息と平和の時期の基礎を据えるのである。神の聖なる力つまり神の送り出す力がバプテスマを受けたイエスの上に下る様子は,ハトが止まり木に舞い降りる時のようだったのかもしれない。
神の子: この表現は聖書でイエスを指してよく使われている。(ヨハ 1:49; 3:16-18; 5:25; 10:36; 11:4)神は文字通りの妻を持たず,人間とは本質的に異なるので,これは比喩に違いない。明らかに,イエスと神との関係が人間の子供と父親のような関係であることを読者に理解させるためのもの。さらに,イエスがエホバによって創造され,エホバから命を与えられたことを強調している。同じように最初の人間アダムも「神の子」と呼ばれている。ルカ 3:38の注釈を参照。
ヨハネは弟子2人と: バプテストのヨハネの2人の弟子のうち1人は,「シモン・ペテロの兄弟アンデレ」。ヨハ 1:40の注釈を参照。
弟子2人は……イエスに付いていった: この記述から,イエスの最初の弟子たちはそれまでヨハネの弟子だったことが分かる。ヨハ 1:35,40の注釈を参照。
午後4時ごろ: 直訳,「第10時ごろ」。マタ 20:3の注釈を参照。
2人のうちの1人: この2人はヨハ 1:35に出ていた弟子2人。名前の挙げられていない方の弟子は,ゼベダイの子でこの福音書の筆者である使徒ヨハネと思われる。(マタ 4:21。マル 1:19。ルカ 5:10)そう言えるのは,筆者が自分の名前を一度も出さず,使徒ヨハネという呼び名も使っておらず,バプテストのヨハネをいつも「ヨハネ」と呼んでいるから。
メシア: または,「油を注がれた者」,「選ばれた者」。ギリシャ語メッシアス(ヘブライ語マーシーアハの翻字)はギリシャ語聖書に2回だけ出ている。(ヨハ 4:25を参照。)マーシーアハという称号の元になったヘブライ語動詞マーシャハは,「(液体を)塗る」,「油を注ぐ」という意味。(出 29:2,7)聖書時代には,祭司,統治者,預言者として選ばれた人に油を注ぐ儀式が行われた。(レビ 4:3。サ一 16:3,12,13。王一 19:16)このヨハ 1:41では,「メシア」という称号の後に,「キリスト」という意味という説明が続いている。「キリスト」(ギリシャ語クリストス)という称号はギリシャ語聖書に500回以上出ていて,「メシア」という称号に相当し,どちらも「油を注がれた者」という意味。マタ 1:1の注釈を参照。
シモン: 聖書中でペテロには5つの呼び名がある。(マタ 4:18; 10:2の注釈を参照。)イエスはシモンに初めて会ったと思われるこの時に,セム語系のケファ(ギリシャ語ケーファース)という名前を与えた。この名前は,ヨブ 30:6とエレ 4:29にあるヘブライ語ケーフィーム(「岩」の複数形)と関係があるかもしれない。ここで福音書筆者ヨハネは「ペテロ」と訳されるという説明も加えている。ギリシャ語名ペテロには「小岩」という類似の意味がある。聖書で,このセム語系の名前とこのギリシャ語名を持っているのはこのシモンだけ。イエスは,ナタナエルが「心に偽りがない人」であると見抜けたように(ヨハ 1:47; 2:25),ペテロの気質も見抜けただろう。特にイエスの死と復活の後,ペテロは岩のような性質を示し,会衆を強化し安定させる力になった。(ルカ 22:32。使徒 1:15,16; 15:6-11)
ヨハネ: 使徒ペテロの父親をここでヨハネとしている古代写本もあり,ヨナとしている古代写本もある。マタ 16:17で,イエスはペテロを「ヨナの子シモン」と呼んでいる。(マタ 16:17の注釈を参照。)一部の学者によれば,ヨハネとヨナという名前は,同じヘブライ語名をギリシャ語にした時のつづりの違い。
ナタナエル: 「神は与えた」という意味のヘブライ語の名前。イエスの12使徒の1人バルトロマイの別名と思われる。(マタ 10:3)バルトロマイは「トルマイの子」という意味の父称(つまり父親の名前に由来する名称)。ナタナエルがバルトロマイつまりトルマイの子と呼ばれたのは,ある男性が単にバルテマイつまりテマイの子と呼ばれたのと同様,珍しいことではなかった。(マル 10:46)マタイ,マルコ,ルカはバルトロマイについて述べるとき,フィリポと一緒に挙げている。ヨハネもナタナエルについて述べるとき,フィリポと結び付けており,バルトロマイとナタナエルが同一人物である証拠の1つとなっている。(マタ 10:3。マル 3:18。ルカ 6:14。ヨハ 1:45,46)2つ以上の名前で呼ばれるのはよくあることだった。(ヨハ 1:42)
モーセの律法と預言者の書: この言い回しは,多少の違いはあるが福音書で何度か使われている「律法と預言者」という表現とよく似ている。(マタ 5:17; 7:12; 11:13; 22:40。ルカ 16:16)ここで「律法」は聖書の創世記から申命記までの書,「預言者」はヘブライ語聖書の預言書を指す。これらの語が一緒に使われる時,それはヘブライ語聖書全体を意味する場合がある。ここに出てくる弟子たちは明らかにヘブライ語聖書を真剣に研究していて,フィリポは幾つかの聖句を念頭に置いていたのかもしれない。例えば,創 3:15; 22:18; 49:10,申 18:18,イザ 9:6,7; 11:1,エレ 33:15,エゼ 34:23,ミカ 5:2,ゼカ 6:12,マラ 3:1。幾つもの聖句は,ヘブライ語聖書全体がイエスについて証言していることを示している。(ルカ 24:27,44。ヨハ 5:39,40。使徒 10:43。啓 19:10)
何か良いものがナザレから出るだろうか: ナタナエルの発言は,ナザレが取るに足りない村でガリラヤの人々からも見下されていたことを示していた,と一般に理解されている。(ヨハ 21:2)ヨシ 19:12とヨセフスは近くの町ヤフィア(ナザレから南西に3キロ以内)について述べているが,ヘブライ語聖書もヨセフスもナザレについては特に述べていない。とはいえ,ヘブライ語聖書もヨセフスもガリラヤの全ての町を挙げているわけではない。福音書でナザレが常に,一般に村より大きな居住地域を指す語である「町」(ギリシャ語ポリス)と呼ばれていることも注目に値する。(マタ 2:23。ルカ 1:26; 2:4,39; 4:29)ナザレは,エスドラエロン(エズレル)の平原を見下ろす丘に囲まれた盆地にあった。その地域は人口が多く,近くには多くの町があった。重要な通商路に近かったので,住民は当時の社会,宗教,政治などの活動に関する情報を得られただろう。(ルカ 4:23と比較。)ナザレには会堂もあった。(ルカ 4:16)それで,ナザレは取るに足りない村ではなかったと思われる。そのような訳で,ナタナエルは,ガリラヤのナザレという近くの町の出身者が約束のメシアだというフィリポの考えに驚きを言い表しただけなのかもしれない。というのは,聖書はメシアがユダのベツレヘムから出ると予告していたから。(ミカ 5:2。ヨハ 7:42,52)
まさにイスラエル人,心に偽りがない人: ヤコブの子孫は皆イスラエル人だが,イエスは単に家系のことを言っていたのではない。イスラエルという名前は「神と闘う(神に対して粘り強い)者」を意味し,ヤコブが祝福を得るために天使と取っ組み合いをした後,ヤコブに与えられた。ヤコブは兄のエサウとは違い,神聖な物事の価値を認識し,神の恵みを得ようと精力的に励んだ。(創 32:22-28。ヘブ 12:16)イエスの言葉は,ナタナエルがイスラエル人として生まれただけでなく,父祖ヤコブと同じ種類の信仰と神の意志にしっかり従う態度を表していたということを言っていた。またイエスの言葉(詩 32:2に基づくのかもしれない)は,ナタナエルが偽善的でなく人を欺いたりしなかったことを示している。
あなたはもっと驚くようなことを目にします: ナタナエルは間もなく,この言葉が実現するのを見るようになる。自分の故郷,ガリラヤのカナで開かれた結婚の披露宴で,ナタナエルは,水を上等のぶどう酒に変えるというイエスの最初の奇跡を目撃した。(ヨハ 2:1-11; 21:2)また,後に使徒として任命された他の11人と共に,イエスが病人を癒やし,邪悪な天使を追い出し,死人を生き返らせることさえしたのを見た。ナタナエルと他の使徒たち自身も力を与えられ,奇跡を行ったり「天の王国は近づいた」という音信を広めたりした。(マタ 10:1-8)
はっきり言っておきますが: または,「真実に,真実に言いますが」。ここに2回含まれているギリシャ語アメーンは,ヘブライ語のアーメーンを翻字したもので,「そうなりますように」もしくは「確かに」という意味。イエスは発言や約束や預言の前置きとして頻繁にアメーンという語を使って,絶対的な真実性と信頼性を強調した。イエスのこの語の用い方は,宗教的文書で他に例がないとされている。(マタ 5:18。マル 3:28。ルカ 4:24)ヨハネの福音書だけは,この語が出てくる25カ所全てで2度続けて(アメーン,アメーン)使っている。アメーンの繰り返しは,「極めて真実に」,「とても真実に」,「確かに」などと訳せる。「はっきり言っておきますが」は,「断言しますが」,「真実を言いますが」とも訳せる。
天: ここで使われているギリシャ語は,物理的な天つまり空も,神の住まいである天も指せる。
天使: または,「使者」。ギリシャ語アンゲロスとそれに対応するヘブライ語マルアークは,聖書に400回近く出ている。どちらの語にも「使者」という基本的な意味がある。天から来た使者の場合,「天使」と訳されるが,人間を指すことがはっきりしている場合,「使者」と訳される。人間の使者か天使かは普通文脈から明らかだが,どちらの意味もあり得る場合,たいてい脚注にもう一方の訳が出ている。(創 16:7; 32:3。ヨブ 4:18,脚注; 33:23,脚注。伝 5:6,脚注。イザ 63:9,脚注。マタ 1:20。ヤコ 2:25。啓 22:8)用語集参照。
人の子: マタ 8:20の注釈を参照。
人の子のもとに: または,「人の子に奉仕して」。イエスは,天使たちが……下っては天に上ると語った時,天使たちが階段もしくははしごを上り下りするというヤコブの見た幻を念頭に置いていたのかもしれない。(創 28:12)その幻は,エホバとエホバに認められている人たちとの間で天使が重要な奉仕をしていることを示していた。イエスの言葉も,イエスと共に歩む人は,神の天使たちがイエスに仕え,イエスが特別な仕方で父の世話と導きを受けていることをはっきり知るということを示している。