コリント第二
注釈 1章
コリントのクリスチャンへの第二の手紙: このような書名は原文にはなかったと思われる。古代写本からすると,後に書名が付け加えられたのは,各書を識別しやすくするためだっただろう。コ一 書名の注釈を参照。
使徒: ロマ 1:1の注釈を参照。
パウロと,私たちの兄弟テモテから: コリントのクリスチャンへのこの手紙の筆者はパウロだが,パウロは最初のあいさつでテモテを含めている。この手紙が西暦55年ごろに書かれた時,テモテはパウロと共にマケドニアにいたようだ。(使徒 19:22)パウロは,テモテのことを「私たちの兄弟」と呼んで,信者同士の関係を述べている。
アカイア: 使徒 18:12の注釈を参照。
聖なる人たち: ロマ 1:7の注釈を参照。
皆さんに惜しみない親切が示され,平和が与えられますように: パウロは11通の手紙でこのあいさつを使った。(ロマ 1:7。コ一 1:3。ガラ 1:3。エフ 1:2。フィリ 1:2。コロ 1:2。テサ一 1:1。テサ二 1:2。テト 1:4。フィレ 3)テモテへの手紙でもよく似たあいさつを使っているが,「憐れみ」という性質を加えている。(テモ一 1:2。テモ二 1:2)学者たちが注目しているように,パウロは「あいさつを送ります」に当たる一般的な語(カイレイン)の代わりに,似た音のギリシャ語(カリス)をしばしば使い,会衆が「惜しみない親切」や「恵み」を十分に受けてほしいという願いを言い表した。(使徒 15:23の注釈を参照。)「平和」について述べているのは,ヘブライ語の一般的なあいさつシャーロームの影響。(マル 5:34の注釈を参照。)パウロは「惜しみない親切」と「平和」という語を使い,クリスチャンが贖罪によって再び持てるようになったエホバ神との関係を強調していると思われる。パウロは,惜しみない親切と平和がどこから来ているかについて,主イエス・キリストと別に私たちの父である神を挙げた。
温かな憐れみの父: 「温かな憐れみ」と訳されているギリシャ語名詞(オイクティルモス)はここで,他の人を思いやり,かわいそうに思う気持ちを指して使われている。神が温かな憐れみの父つまり源と呼ばれているのは,思いやりが神から出ていて神の性質の一部だから。神はそのような温かな気持ちに動かされて,ご自分に忠実に仕える人が苦難に遭っているとき,憐れみ深く行動してくださる。
あらゆる慰めの神: ここで「慰め」と訳されているギリシャ語名詞パラクレーシスは字義的には,「自分のそばに呼び寄せること」という意味。試練に遭っている人や悲しんでいる人の隣に立って,助けたり励ましたりするという考えを伝えている。(ロマ 12:8の注釈を参照。)パウロが神からの慰めを強調したことはイザ 40:1と共通するものがあると感じる人もいる。その聖句で預言者は,「あなたたちの神はこう言う。『慰めよ,私の民を慰めよ』」と書いている。(イザ 51:12も参照。)さらに,ヨハ 14:26で「援助者」と訳されている関連するギリシャ語(パラクレートス)はエホバの聖なる力を指す。神はご自分が送り出す強力な力を使って,人間の観点では絶望的と思える状況のときに慰めや援助を与える。(使徒 9:31。エフ 3:16)
試練: または,「困難」,「苦難」。ここで使われているギリシャ語は基本的に,さまざまな状況での圧力から来る苦痛,苦悩,苦しみを意味している。しばしば,迫害に伴う苦悩に関して使われている。(マタ 24:9。使徒 11:19; 20:23。コ二 1:8。ヘブ 10:33。啓 1:9)苦難には,忠誠ゆえに経験する投獄や死が含まれることもある。(啓 2:10)しかし,飢饉(使徒 7:11),貧困,孤児ややもめがよく経験する逆境(ヤコ 1:27),さらには家庭生活や結婚によっても,程度の差はあれ「苦難」が生じることがある。(コ一 7:28)
慰めて: または,「励まして」。コ二 1:3の注釈を参照。
試練: または,「苦難」。コ二 1:4の注釈を参照。
アジア州で私たちが経験した苦難: 聖書は,パウロがここでどの出来事のことを言っていたかをはっきりと示してはいない。使徒 19:23-41に記されているエフェソスでの暴動のことだった可能性がある。あるいはコ一 15:32に述べられている「エフェソスで野獣と」戦ったことかもしれない。(注釈を参照。)どちらの場合も,パウロは命を落とす危険があった。(コ二 1:9)
私たちのために祈願をすることによって: または,「私たちのために真剣な祈りをすることによって」。「祈願」と訳されているギリシャ語名詞デエーシスは,「謙遜で真剣な願い」と定義されている。ギリシャ語聖書でこの名詞は,神に語り掛けることに関してのみ使われている。個人でもグループでも,仲間の信者のために祈ることには価値があるということを聖書は何度も強調している。(ヤコ 5:14-20。創 20:7,17,テサ二 3:1,2,ヘブ 13:18,19と比較。)エホバはご自分の意志に沿った誠実で心のこもった祈りを聞いてそれに答えてくださる。(詩 10:17。イザ 30:19。ヨハ 9:31。ヨ一 5:14,15)祈願によって,神が何をするか,それをいつするかが変わることがある。使徒 4:31の注釈を参照。
多くの人の祈りのおかげで: または,「祈っている多くの顔のゆえに」。ここのギリシャ語は字義通りには「多くの顔から」と訳せる。この文脈で,神に向かって顔を上げて祈っている様子のことを言っているのかもしれない。パウロは自分のために捧げられる祈りに神が答えてくださる時,多くのクリスチャンが神に感謝するよう動かされるだろうとも述べている。パウロは,自分のためになることよりもエホバが栄光を受けることの方に関心があった。
人間の知恵: この世の知恵のこと。(コ一 3:19と比較。)
読んで理解できる事柄: もしかすると,「すでによく知って理解している事柄」。「読む」に当たるギリシャ語アナギノースコーは,より字義的に「よく知っている」という意味にも理解できる。とはいえ,書かれた物に関して使われる場合,「認識する」という意味で,たいてい「読む」あるいは「朗読する」と訳される。聖書を個人で読むことにも人前で読むことにも使われる。(マタ 12:3。ルカ 4:16。使徒 8:28; 13:27)
十分に: 直訳,「終わりまで」。この文脈で,このギリシャ語の慣用句は,「十分に」,「完全に」という意味のようだ。しかし一部の人は,この直訳を時間的な意味に取って,パウロは人々が「終わりまで」理解し続けてほしいと願っていたと理解する。
皆さんに再び喜んでいただきたい: パウロは2回目の宣教旅行中に初めてコリントを訪れた。時は西暦50年。そこで会衆を設立し,1年6カ月滞在した。(使徒 18:9-11)パウロは3回目の宣教旅行中にエフェソスにいた時,再びコリントを訪れるつもりだった。しかし,その計画は実現しなかった。(コ一 16:5。コ二 1:16,23)「再び喜んで」というのは,パウロがしようと思っていたこの2回目の訪問のことを言っているのかもしれない。あるいは,パウロは次の節で述べているように,2度立ち寄りたいと思っていたことを言っていたのかもしれない。コ二 1:16の注釈を参照。
喜んで: この節で幾つものギリシャ語写本は「喜び」に当たるギリシャ語(カラ)の代わりに,「惜しみない親切」,「恵み」,「利益」という意味のカリスという語を使っている。それで「皆さんに再び喜んでいただきたい」という部分は,「2度皆さんの役に立ちたい」とも訳せる。このような考えを伝えている聖書翻訳もある。
マケドニアに行く途中で皆さんの所に立ち寄り: 西暦55年,パウロは3回目の宣教旅行中にエフェソスにいた時,エーゲ海を渡ってコリントに行き,そこからさらにマケドニアに旅をするつもりだった。それからエルサレムに戻る途中で再びコリント会衆を訪問するつもりだった。それはパウロが以前に書いたように,エルサレムの兄弟たちへの贈り物を集めるためだったと思われる。(コ一 16:3)これがパウロの意向だったが,計画を変更したことにはもっともな理由があった。コ二 1:17の注釈を参照。
私は軽く考えていたのでしょうか: パウロは,コリント第一の手紙より前に書いた手紙の中で,コリントのクリスチャンに,マケドニアに行く途中で訪ねる計画を伝えていたようだ。(コ一 5:9の注釈を参照。)その後,聖なる力に導かれて書いたコリント第一の手紙の中で,旅程を変更し,マケドニアに行ってからコリントを訪れることを伝えた。(コ一 16:5,6)その結果,一部の人,もしかしたらその会衆の「優秀な使徒たち」は(コ二 11:5),パウロが約束を守らないと非難したようだ。パウロは弁明して,「軽く考えていた」のではないと述べた。「軽く」と訳されているギリシャ語には,気まぐれという意味がある。それは,無責任に考えを変える信頼できない人を表す。しかしパウロは,気まぐれだったのでも,利己的な考えで,つまり不完全な人間の考えや動機で計画したのでもない。もっともな理由があって訪問を延期した。コ二 1:23で,「皆さんのためを思って」当初の計画を変更したと述べた。パウロは,いっそう励みのある訪問ができるよう,書き送った助言を当てはめる時間を与えたいと思った。
「はい」でありながら「いいえ」である: または,「はい,であると同時に,いいえ,である」。直訳,「はい,そして,いいえ」。コ二 1:17の注釈を参照。
シルワノ: この人は,パウロがテサ一 1:1とテサ二 1:1で,ペテロがペ一 5:12で一緒に働いた仲間として名前を挙げている。「使徒の活動」では,シラスと呼ばれている。ルカの記述から分かるように,シルワノは1世紀のエルサレムのクリスチャン会衆で大きな責任を担っていた人,預言者,パウロの2回目の宣教旅行の同行者。シルワノはローマ市民だったようで,そのためローマ名がここで使われているのかもしれない。(使徒 15:22,27,32,40; 16:19,37; 17:14; 18:5)
キリストによって「はい」となった: 神の約束がイエスによって,真実さが示され,果たされ,実現したということ。ヘブライ語聖書に記されている全ての約束はイエスによって,つまりイエスが教えたことと行ったこと全てによって実現した。イエスが地上で完璧な忠誠を貫くことによって,エホバの約束を疑うべき理由は全くないことが示された。
キリストを通して神に「アーメン」と言い: 「アーメン」と訳されている語は,「そうなりますように」もしくは「確かに」という意味のヘブライ語アーメーンを翻字したもの。啓 3:14で,イエスは自分のことを「アーメンである者」と言っている。なぜなら,イエスは地上にいた時に自分について預言されていたこと全てを実現したから。また,忠実に歩んで犠牲として死ぬことにより,イエスご自身が,神の語ったこと全てが実現するという保証となり,「アーメン」となった。この保証によって,キリストを通して神に捧げる祈りの最後に言う「アーメン」は,一層深い意味を持つ。コ一 14:16の注釈を参照。
証印: 聖書時代,証印は,所有権,信頼性,合意を証明する一種の署名として使われた。神は聖なる力によって選ばれたクリスチャンに,聖なる力で比喩的に証印を押し,ご自分の所有物であることと天での命を受ける者であることを示す。(エフ 1:13,14)
これから来るもののしるし: または,「手付金」,「これから来るものの保証(誓約)」。ギリシャ語聖書に3回出ているアッラボーンというギリシャ語はどの場合も,神が聖なる力つまり神の送り出す力によってクリスチャンを選ぶことについて使われている。(コ二 5:5。エフ 1:13,14)聖なる力のこの特別な働きは,これから来るものの手付金のようなものになる。聖なる力によって選ばれたクリスチャンは,このしるしを受けているので自分たちの希望を確信できる。全額の支払いつまり報いを受けることには,天での朽ちない体を身に着けることが含まれる。(コ二 5:1-5)この報いには,不滅性を受けることも含まれる。(コ一 15:48-54)
命: ギリシャ語,プシュケー。用語集の「プシュケー」参照。
私たちは皆さんの信仰の主人ではありません: パウロは,兄弟たちが忠実なクリスチャンとして正しいことをしたいと願っていると確信していた。兄弟たちがしっかり立てたのは,信仰があったからであって,パウロや他の人たちがそうさせたからではなかった。「主人で」あると訳されているギリシャ語動詞(キュリエウオー)は,横暴な,あるいは高圧的なというニュアンスを含む場合がある。実際,ペテロは関連する語を使って長老たちに,「神の財産である人たちに対して威張ったり」してはなりませんと述べた。(ペ一 5:2,3)パウロは,自分が使徒としての権威を持っているからといって,横暴になってもよいというわけではないことを理解していた。さらに,私たちは皆さんの喜びのために働く仲間ですと言って,自分や同行者たちが他の人より上ではなく,むしろ仕える者であって,コリントのクリスチャンが喜んでエホバを崇拝できるよう何でも行う者である,と見ていたことを示した。