コリント第二
注釈 5章
地上の家であるこの天幕: パウロはここで,人が作った天幕を隠喩として使い,聖なる力によって選ばれたクリスチャンの人間の体について述べている。組み立て式の天幕が比較的壊れやすい仮のものであるように,それらのクリスチャンの地上での体は,死んでいく朽ちる仮のもの。その人たちは,「神からの建物」すなわち天での永遠に続く朽ちない体になることを待ち望んでいる。(コ一 15:50-53。ペ二 1:13,14と比較。)コ二 5:4の注釈を参照。
取り壊され: または,「分解され」。パウロが人間の体を人が作った天幕に例えているこの部分で,ギリシャ語カタリュオーは,「解体され」,「壊され」とも訳せる。
家: または,「住まい」。ギリシャ語オイケーテーリオンは,ここ以外ではユダ 6にだけ出ていて,そこでは「居場所」と訳されている。
私たちのための天での家: または,「私たちの天からの住まい」。コ二 5:1の注釈を参照。
もう裸ではありません: パウロは自分を含め,聖なる力によって選ばれキリストの臨在の前に死ぬクリスチャンは,しばらく死んで「裸で」いることを知っていた。つまり,その人たちは何も身に着けていない。肉体で生きることも天での体で生きることもなく,墓で眠っていた。とはいえ,地上で生きていた時に忠実であったなら,ずっと死んで「裸」でいることはない。将来の復活が約束されていた。天での体を「身に着け」て「主のもとに住まい」を持つ。(コ二 5:1-8)コ二 5:4の注釈を参照。
別のものを身に着けたいと思っています: パウロや聖なる力によって選ばれた他のクリスチャンは,天に復活して不滅の命を得ることを「心から望んで」いた。(コ二 5:2)その人たちは天での命という神から与えられた強い希望を抱いていたが,死にたいと思っていたわけではない。パウロは地上での体のことを天幕と述べ,これを脱ぎたいわけではありませんと言った。(コ二 5:1の注釈を参照。)つまり,その人たちはただ肉体の弱さおよび宣教に関係する責任や困難を免れるために死にたいと願っていたのではない。(コ二 5:3の注釈を参照。)「別のものを身に着けたいと思っています」というパウロの言葉は,選ばれたクリスチャンが天での命に対して持つ強い気持ちの表れ。その人たちは,キリスト・イエスと共に永遠にエホバに仕えたいと願っている。(コ一 15:42-44,53,54。フィリ 1:20-24。ペ二 1:4。ヨ一 3:2,3。啓 20:6)
これから来るもののしるし: または,「手付金」,「これから来るものの保証(誓約)」。コ二 1:22の注釈を参照。
見えるものによってではなく信仰によって歩んでいる: 聖書で,「歩む」はしばしば比喩的に使われ,「生活する」,「行動する」,「ある生き方をする」ことを意味する。それで「信仰によって歩む」とは,神と神が明らかにしたものに対する信仰と信頼に基づいた生き方をすることを指す。それはここで,「見えるものによって歩む」こと,つまり見えるものや外見に導かれた生き方をすることと対比されている。この文脈でパウロは,聖なる力によって選ばれたクリスチャンのことを念頭に置いていた。その人たちは天での報いを目で見ることはできなかったが,十分な根拠に基づく信仰を持っていた。全てのクリスチャンは信仰に導かれた生き方をするべき。
キリストの裁きの座: パウロはロマ 14:10で「神の裁きの座」と述べた。しかし,エホバはご自分の子によって裁くので(ヨハ 5:22,27),それがここでは「キリストの裁きの座」と呼ばれている。初期クリスチャンの時代,裁きの座(ギリシャ語ベーマ)は,たいてい屋外にあった壇で,階段で上った。そこに座った役人は,集まった人々に話をしたり判決を告げたりした。(マタ 27:19。ヨハ 19:13。使徒 12:21; 18:12; 25:6,10)コリントの人たちは,パウロがここで使ったこの語から,コリントの堂々とした裁きの座を思い出したかもしれない。用語集の「裁きの座」とメディア・ギャラリーの「コリントにあった裁きの座」参照。
悪い: または,「ひどい」。ここで「悪い」または「ひどい」と訳されるギリシャ語はファウロス。それは文脈によっては,「道徳的に卑劣という意味で悪い」という考えを伝える。パウロが示しているように,人間の前に置かれた選択は,善いことをするか悪いことをするか,つまり神の基準に従うかそれを無視するかである。
主への畏れ: この文脈で,「主」はイエス・キリストを指すと思われる。パウロは前の節で,「私たちは皆,キリストの裁きの座の前に出なければならない」と述べている。(コ二 5:10の注釈を参照。)イザヤは,裁く方としてのイエスの役割について預言した。(イザ 11:3,4)「主への畏れ」は,イエスを裁く方として任命したエホバへの心からの愛と深い敬意から生じる。(ヨハ 5:22,27)
よく知られ: または,「明らかにされ」。パウロは,自分と仲間たちがどんな人かを神は知っているということを確信していた。パウロはここで,自分たちの動機や行いが受け入れられる良いものであることをコリントの人たちにも認識してほしいと願っている。
外見について誇る人たち: 「誇る」に当たるギリシャ語動詞(カウカオマイ)は,利己的な誇りという意味でよく使われる。パウロによるコリントの手紙で何度か使われている。聖書は,どんな人にも自分や自分の成し遂げたことを誇る根拠はないことを述べている。(エレ 9:23,24)使徒パウロは会衆に強い助言を与え,どんな人のことも誇る余地はなく,誇れるのはエホバ神とエホバ神がしてくださったことだけであることを示した。(コ一 1:28,29,31; 4:6,7。コ二 10:17)
もし私たちが正気でなかったとすれば,それは神のためでした: パウロがここで使っているギリシャ語動詞は,字義的には「自分の外に立つ」,「自分の横にいる」という意味。使徒としての資格を批判されていたパウロは,それを擁護するためにこの手紙の後の方で誇ったことを言っていただけなのかもしれない。(コ二 11:16-18,23)パウロは十分に資格があったが,誇ることに気まずさを感じていた。パウロが誇ったのは高慢だったからではない。むしろ,「それは神のため」,真理を守り,会衆を危険な影響から守るためだった。実際,パウロは正気で,自分についてバランスの取れた見方をしていた。(使徒 26:24,25,ロマ 12:3と比較。)パウロに教えられた人たちは,パウロの健全な考え方によって大いに助けられたので,パウロは,それは皆さんのためですと言うことができた。
キリストの愛: または,「キリスト愛」。ギリシャ語のフレーズは,「キリストが私たちに示す愛」と「私たちがキリストに示す愛」のどちらの意味にも理解できる。両方の意味が可能という意見の人もいる。しかし,文脈からすると,キリストが示してきた愛が強調されている。(コ二 5:15)
私たちを駆り立てる: このギリシャ語動詞は,字義的には「一緒にしておく」という意味で,「人や物を制御し続ける」,「強く勧める」,「突き動かす」という意味を伝える場合がある。キリストは,私たちのために命をなげうつことによって愛を示した。その愛は卓越していて,クリスチャンは感謝が深まるにつれて心を強く動かされる。キリストの愛はパウロにとっても原動力になった。パウロはキリストの愛ゆえに,利己的なことを避け,神や会衆内外の人に仕えることに力を注いだ。コ一 9:16の注釈と比較。
人間的な観点で見る: 直訳,「肉によって知る」。この文脈で,「肉」という語(ギリシャ語サルクス)は,思考や業績を含め人間の限界に関連した事柄を広く指す。(ロマ 3:20; 8:4の注釈を参照。)パウロが言っているのは,クリスチャンは,立場,富,人種,国籍などに基づいて兄弟姉妹を判断しないということ。キリストは全ての人のために死んだので,そのような違いは意味を持たない。仲間の信者との信仰に基づく関係こそが重要。(マタ 12:47-50)
もうそのようには見ません: 以前は人間的な観点で,または肉体を持つ方としてイエスのことを見て,イエスがユダヤ人の地上の王国を回復させるために来たと期待していたクリスチャンは,そのような見方を捨てた。(ヨハ 6:15,26)そして,イエスが自分の体を贖いとして与え,命を与える目に見えない存在になっていることを認識した。(コ一 15:45。コ二 5:15)
キリストと結ばれている: 直訳,「キリストの内にある」。聖なる力によって選ばれたクリスチャン一人一人はキリストと一つになっている。(ヨハ 17:21。コ一 12:27)この特別な関係は,エホバが一人一人をご自分の子のもとに引き寄せて聖なる力によって生み出した時に存在するようになった。(ヨハ 3:3-8; 6:44)
新しい創造物: 天に行くよう選ばれたクリスチャン一人一人は,新しい創造物。天の王国でキリストと共に奉仕する見込みを持つ,聖なる力によって生み出された神の子。(ガラ 4:6,7)創造の6日目が終わってから物質的な新しいものは創造されていないが(創 2:2,3),物質以外の新しいものは創造されてきた。
新しいものが存在するようになった: イエスは,天に行く見込みを持つ,聖なる力によって生み出された神の子として,バプテスマの時に選ばれ,神の初めての「新しい創造物」になった。さらに,イエスと,天に行くよう選ばれた共同統治者は,クリスチャン会衆という集団を構成していて,それも物質以外の新しい創造物。(ペ一 2:9)
神のおかげで,私たちは……神と和解し: 全ての人が神と和解する必要があるのは,最初の人間アダムが不従順になり,罪と不完全さが全ての子孫に受け継がれたから。(ロマ 5:12)その結果,人は神から遠く離れた状態にある。また,神と敵対関係にある。神の基準によれば,悪い行いを大目に見ることができないから。(ロマ 8:7,8)「和解させる」に当たるギリシャ語は,基本的に,「変化させる」,「交換する」という意味。この文脈では,神と敵対していた関係を友好的で調和の取れた関係に変化させることを指す。パウロがここで示しているように,まず神は,キリストを通して,つまりキリストの贖いの犠牲によって,「私たち」(パウロとその仲間や,聖なる力によって選ばれたクリスチャン全員)をご自分と和解させた。それからパウロは,神のおかげで,私たちは「和解のための奉仕をするように」なったと述べている。ロマ 5:10の注釈を参照。
和解のための奉仕: 「神の子の死によって神と和解」するよう人々を助ける奉仕のこと。(ロマ 5:10)この奉仕には緊急な知らせが関係していて,それによって,神から遠く離れた状態にある人が神との平和な関係を持ち,神の友になることができる。(コ二 5:18-20)「奉仕」(ギリシャ語ディアコニア)という語については,使徒 11:29,ロマ 11:13の注釈を参照。
世の人々は……神と和解できる: 「世の人々」つまり人類が神と和解する必要があるのは,最初の人間アダムが不従順になり,罪と不完全さが全ての子孫に受け継がれたから。(コ二 5:18の注釈を参照。)神はキリストによって,つまりイエスの贖いの犠牲を通して,この和解を実現させている。(ロマ 5:10。コ二 5:21。コロ 1:21,22)エホバは,キリストと結ばれている人たちを敵対的な世に対する「大使」として任命し,「和解のための奉仕」を行わせてきた。(コ二 5:18,20)
神のおかげでキリストによって神と和解でき: この部分を「神はキリストにあって……和解させ」と訳している聖書翻訳もある。ギリシャ語の前置詞エンは,直訳すると「の内に」だが,意味がとても広く,文脈に沿って理解しなければならない。前の節(コ二 5:18)は,「神のおかげで,私たちはキリストを通して[ギリシャ語ディア]神と和解し」とはっきり述べている。それで,エンをここで「によって」と訳すのは適切。
和解の知らせ: または,「和解の言葉」。人類への神の言葉つまり知らせは,その内容の広さ,意味,さまざまな面を表すいろいろな仕方で表現されている。ここでは「和解の知らせ」と言われている。また,「王国に関する言葉[または,「知らせ」]」(マタ 13:19),「救いの言葉」(使徒 13:26),「真理の言葉」(エフ 1:13),「正しい言葉」(ヘブ 5:13)とも呼ばれている。パウロはここで,神は「私たち[つまりパウロを含め聖なる力によって選ばれたクリスチャン全員]に和解の知らせを託してくださった」と述べ,この知らせを伝える大切な務めへの感謝を表している。
私たちは……大使であり: パウロはここで,自分と仲間のことを「キリストの代理をする大使」と言っている。聖書時代,大使やその他の使者が派遣されるのには,幾つかの理由があった。例えば,敵対関係にある間,戦争を回避できるかを確認するために,あるいは戦時下で和平を結ぶために,大使が派遣された。(イザ 30:1-4; 33:7)パウロの時代,ローマ帝国の属州,町,人々は,友好関係を強化したり援助を受けたり嘆願をしたりするために,ローマに大使を送った。「大使であり」に当たるギリシャ語動詞プレスベウオーは,ギリシャ語聖書に2回,こことエフ 6:19,20に出ている。パウロはそこで,自分のことを良い知らせのための大使と言っている。ルカ 14:32と19:14で,関連する名詞プレスベイアが「使節団」と訳されている。どちらの語も,「年長者」や「長老」を意味するプレスビュテロスという語と関連がある。(マタ 16:21。使徒 11:30)
キリストの代理をする: または,「キリストに代わる」,「キリストの名による」。キリストが天に復活した後,忠実な弟子たちはその代わりを務めるよう「キリストの代理をする大使」として任命された。まずユダヤ人,それから異国の人々,つまり至高の主権者であるエホバから遠く離れていた全ての人々のもとに遣わされた。聖なる力によって選ばれたそのクリスチャンたちは,神との平和な関係にない世の人々に対する大使として仕える。(ヨハ 14:30; 15:18,19。ヤコ 4:4)パウロは,ローマでの最初の拘禁中(西暦59-61年ごろ)に書いたエフェソスの手紙の中で,自分が「大使であり,今は鎖につながれています」と述べている。(エフ 6:20)
罪を犯したことがない方: イエスのこと。エホバは,イエスを私たちのための罪の捧げ物[直訳,「私たちのために罪」]とした。人類の罪を帳消しにするために,イエスが罪の捧げ物として死ぬようにした。(レビ 16:21,イザ 53:12,ガラ 3:13,ヘブ 9:28と比較。)使徒ヨハネはイエスについてこう言っている。「イエスは私たちの罪を償う[または,「私たちを神と和解させる」]ための犠牲です。私たちの罪だけでなく,全人類の罪のためです」。(ヨ一 2:2)イスラエル人が神に近づく手段は動物の犠牲という限定的なものだったが,クリスチャンにはイエス・キリストの犠牲という神に近づく勝った基盤がある。(ヨハ 14:6。ペ一 3:18)
その方のおかげで,私たちは神から正しいと見なしていただくことができます: イエスのおかげで,私たちは神の前での正しい立場を得ることができる,つまり神に認めていただけるということ。パウロは,エホバに仕えるメシアに関するイザヤの預言を念頭に置いていたのかもしれない。メシアは「多くの人が正しいと見なされるように」する,と書かれている。(イザ 53:11)