コリント第二
注釈 12章
ある人: パウロはこの幻を与えられた人の名前を述べていないが,文脈からすると自分のことを言っていたと考えられる。「優秀な使徒たち」などの反対者による攻撃に対して使徒としての自分の資格を擁護する流れで(コ二 11:5,23),与えられた「主の幻と啓示」を証拠として挙げている。(コ二 12:1)聖書にはこのような経験をした人についてほかに述べられていないので,論理的に考えると,ここで言われているのはパウロのこと。
第三の天: 聖書の中で「天」は,物理的な天もエホバと天使たちの住まいである天も指せる。(創 11:4。イザ 63:15)しかし,この語は人間や神の治める政府のことも指す。(イザ 14:12。ダニ 4:25,26)パウロはここで,幻を通して与えられた将来に関する啓示について述べているようだ。(コ二 12:1)聖書は強調したり強さを表したりするために,3という数字を使うことや言葉を3回繰り返すことがある。(イザ 6:3。エゼ 21:27。啓 4:8)それで,パウロが見た「第三の天」とは,神のメシア王国の至上の政府のことだと思われる。その天の政府は,イエス・キリストと14万4000人の共同統治者から成る。(イザ 65:17; 66:22。ペ二 3:13。啓 14:1-5)
パラダイス: ギリシャ語パラデイソスはギリシャ語聖書に3回出ている。(ルカ 23:43,注釈を参照。コ二 12:4。啓 2:7)よく似た語がヘブライ語(パルデース,ネヘ 2:8,伝 2:5,ソロ 4:13に出ている)にもペルシャ語(パイリダエーザ)にもある。この3つの語全ては,美しい公園もしくは公園のような庭園という基本的な考えを伝えている。「パラダイス」という語はこの文脈でいろいろなものを指せる。(コ二 12:2の注釈を参照。)パウロは,(1)将来実現する文字通りの地上のパラダイス,(2)神に仕える人たちが新しい世界で楽しむ神との平和な状態,(3)天での状態のことを言っていたのかもしれない。パウロの時代,そうした事柄について話すのは許されないことだった。神がご自分の目的をどのように達成していくかについて詳細を明らかにする時はまだ来ていなかったから。
その人: もしかすると,「そのこと」。つまり,その経験。コ二 12:2の注釈を参照。
特別な: パウロは,ギリシャ語ヒュペルボレーを使って,与えられた啓示が「特別な」つまり並外れたものだと述べている。(コ二 12:2の注釈を参照。)このギリシャ語はギリシャ語聖書で8回使われていて,全てパウロが書いた手紙に出てくる。この語は文脈によってさまざまな仕方で訳されている。例えば,コ二 4:7の「普通を超えた力」や,コ二 1:8のパウロたちが受けた「ひどい圧迫」という表現で使われている。
体に1つのとげ: パウロはここで隠喩を使って,苦痛がずっと続いていることを表現している。体にとげが入り込むと,痛みがずっと続く。(「とげ」と訳されているギリシャ語は,とがった杭やとげなど「とがったもの」を意味する。)このとげが表す痛みが身体的なものだったのか感情的なものだったのか,はっきりしていない。パウロが手紙で書いたことからすると,旅行をしたり手紙を書いたり伝道を行ったりする上で不便を感じるような視力の問題に苦しんでいた可能性がある。(ガラ 4:15; 6:11。使徒 23:1-5も参照。)この文脈でパウロは,高慢な反対者たちによるしつこい攻撃について述べているので,偽りを教えるそのような人たちによって引き起こされたストレスや心配について言っていたのかもしれない。(コ二 11:5の注釈を参照。)いずれにしても,パウロはそうした痛みをサタンの使いと呼び,サタンが神に仕える人を落ち込ませるために身体的また感情的な苦痛を使おうとしていることを示している。パウロはこの試練を前向きに受け止めていて,神に喜ばれるよう思い上がらないで謙遜でいるのに「とげ」が役立っていると考えた。(マタ 23:12)
平手打ちをして: または,「打ちたたいて」。パウロがここで使っているギリシャ語動詞は,手のひらやこぶしで文字通り打つことを指す場合もある。この語は,マタ 26:67でその意味で使われていて,そこではローマ兵がイエスを「こぶしで」殴ったと記されている。コ一 4:11で,その語はもっと広い意味で使われていて,手荒に扱うという考えを伝えている。
主: パウロがここで使っているギリシャ語表現トン キュリオン(主)は,エホバを指すこともあればイエスを指すこともある。この場合,パウロが「祈りを聞く方」主エホバに心から3度懇願したと考えるのが妥当。(詩 65:2)祈りを捧げる対象としてふさわしいのはエホバだけ。(詩 145:18。フィリ 4:6)エホバはパウロへの返答で,「惜しみない親切」と自分に仕える人に豊かに与える「力」について述べている。(コ二 12:9。イザ 40:26。ルカ 24:49)一部の人は,9節でパウロが「キリストの力」についても書いていることを指摘する。しかし,パウロがその表現を使ったからといって,パウロが3度懇願したのがキリストだとは言えない。イエスには力があるが,それは神聖な力の源であるエホバから来ている。(ルカ 5:17)
無分別: コ二 11:1の注釈を参照。
不思議なこと: または,「前兆」。使徒 2:19の注釈を参照。
3度目: パウロがここで述べているのは,コリントに3回実際に行ったということではなく,3度行く用意をしたということ。行きたいと思っていたが,状況が整わなければ行くことができなかった。最初にコリントを訪れた時,会衆を設立し1年半とどまった。(使徒 18:9-11)2回目は行くつもりだったが,実現しなかった。(コ二 1:15,16,23)証拠からすると,コリント第一の手紙を書いてから第二の手紙を書くまでの間に,そのような旅行をする時間はなかった。また,「使徒の活動」には1度の滞在のことしか書かれていない。(使徒 18:1)しかし,パウロがこことコ二 13:1,2で述べている3回目の計画は実現した。パウロは西暦56年ごろにコリントに行き,そこでローマの手紙を書いた。(使徒 20:2,3。ロマ 16:1,23。コ一 1:14)
皆さんのために: この文脈でギリシャ語プシュケーは人々を指す。用語集の「プシュケー」参照。
うわさ話: このギリシャ語は,陰口つまりネガティブな情報やうわさをひそかに広めることという考えを伝えている。このギリシャ語はギリシャ語聖書の中でここだけに出てくるが,「うわさ話をし」と訳されている関連した語がロマ 1:29で悪い行いの1つとして出てくる。(注釈を参照。)また,「うわさ話をする」という意味の対応するギリシャ語動詞がセプトゥアギンタ訳のサ二 12:19と詩 41:7(40:8,LXX)で否定的な意味で使われている。
汚れ: 「汚れ」(ギリシャ語アカタルシア)は,この節で挙げられている3つの語(「汚れ」,「性的不道徳」,「恥知らずな行い」)の中で最も意味が広い。字義的には,汚くて不潔なものを指す。(マタ 23:27)比喩的な意味では,性的なこと,話すこと,行動,宗教面において,清くないこと全てを含む。(コ一 7:14,コ二 6:17,テサ一 2:3と比較。)「汚れ」はいろいろな悪い行いを指し,深刻さの程度もさまざま。(エフ 4:19)この語は,そうした悪い行いや状態が道徳的に忌まわしいことを強調している。用語集の「汚れている」参照。
性的不道徳: 聖書中の用法では,ギリシャ語ポルネイアは,神に禁じられた性的な行動を広く指す語。姦淫,結婚していない人同士の性関係,同性愛行為などの重大な性的な罪が含まれる。用語集参照。
恥知らずな行い: ギリシャ語アセルゲイアは,神の律法に対する重大な違反であり,恥知らずで厚かましい態度が表れた行為を指す。用語集参照。