台湾のエホバの証人 ― 初期の反対
前号の『目ざめよ!』誌は,1928年から1938年までの台湾における初期の王国伝道のわざを取り上げました。忠実な全時間奉仕者たち,とりわけ大江,香坂両兄弟は,タイチュング郡,クアン・シャンに住んでいた代書屋のツー・チン・テングおよびアミ族数人,そして西海岸の嘉義に住んでいた出井姉妹とそのご主人にバプテスマを施し,信者たちの小さなグループをいくつか作りました。「1972年度エホバの証人の年鑑」(英文)から抜粋される話はそこから続けられます。
クアン・シャンの町には,ツー・チン・テングというエホバの証人の兄弟のほかに,リン・チエン・ティングという名の代書人がいました。新しく関心を持った人々はその代書人よりもツー兄弟をひいきにするようになりました。そのことと,他の事情もあって,リン・チエン・ティングは代書人をやめなければならなくなり,警察関係の仕事につきました。彼は仕事の面で安定するやいなや証人たちを脅迫する運動を開始し,腹いせに,証人たちは,天皇を軽視し,神社での崇拝に関するいろいろな要求に従おうとしないとして訴えました。また,証人たちは裸でバプテスマを受ける行事を行ない,姦淫を犯しているとも非難しました。そのために証人たちの男女が数名逮捕されました。しかしながら,そうした事情を聞いたエホバの証人の大江兄弟はただちにクワン・シヤンに駆けつけて,それらの証人たちを釈放してもらいました。
そうこうするうちに,国家主義や宗教的不寛容の風潮が高まり,台北の小さな倉庫を閉鎖して,約50キロ南にある,こじんまりしたシンチュ市に移るほうが得策だと考えられるようになりました。1939年4月,そうした移転をするかしないうちに大江,香坂両兄弟は逮捕されました。エホバの証人を台湾から排除する運動が始まったのです。同年6月21日の真夜中,出井兄弟姉妹も逮捕されました。出井兄弟はもうひとりの証人と同年10月まで留置所に拘留されました。出井姉妹は,特に彼女が教師であるという理由で一晩拘留されたのち釈放されました。しかし,出井姉妹は他に生計を立てる手段がなかったにもかかわらず,教師の職をやめました。神道の神話その他,国家主義的な主張を教えるようにとの要求をクリスチャンとして果たすことができなかったからです。
出井兄弟はついに釈放され,ふたりはエホバの崇拝をもっと自由に行なえるかもしれないと考えて台北に移りました。もちろん,ふたりはなおも大江,香坂両兄弟のことを案じていました。そして,いろいろ考慮したすえ,大江兄弟と同郷の出井姉妹が,衣類やくだもの,その他の慰問品を持って刑務所を尋ね,大江兄弟になんとかして会ってみることにしました。出井姉妹は,面会はゆるされませんでしたが,携えて行った品物は兄弟たちに渡してやると言われました。出井姉妹と係官がじめじめした廊下を歩いていくと,姉妹の下駄の音が前後にこだましました。各独房の入口の後ろにはコンクリートの壁があったので,独房の内部は入口からは見えませんでした。係官といっしょに大江兄弟の独房付近に近づいた時,その壁と入口の間に人影が見えました。それは片手にほうきを持ち,他方の手にちり取りを持った大江兄弟でした。出井姉妹は走り寄って鉄の格子越しに彼の手を握りました。面会は許されなかったにもかかわらず,エホバはふたりを会わせてくださったのです。
1940年の秋,大江,香坂両兄弟はフシンチュ少年刑務所へ移されました。そこでは相当の自由が許されたので,出井姉妹は何度かふたりを訪問しました。1941年10月,彼らは台北刑務所に移されました。それは,ふたりが当分釈放されないことを意味するものでした。出井姉妹は引き続き彼らのためにつくしました。彼女は台北においてさえ,見通しは良くありませんでしたが,なんとかしてふたりに会おうと決意しました。驚いたことに役人たちは協力的で,出井姉妹はほどなくして金網のついた窓越しに香坂兄弟と話すことができました。香坂兄弟は重い結核にかかっていることが一目でわかりました。出井姉妹のことばによれば,その顔色は「紙のように白く,唇はいちごのように赤く感じた」とのことです。
次は大江兄弟の番です。出井姉妹は次のように伝えています。「大江兄弟はほほえみを浮べながら,しっかりした声でこう言いました。『ここは上等の刑務所です。南豆虫ものみもいません。お金さえ出せば,座ぶとんとかうどんや良い食物,それに別荘まであてがってもらえます』。見守っていた看守は無遠慮に笑いました。その時のことは忘れることができません。なぜなら,大江兄弟は決して負けることなく,自分を逮捕した人たちのうわ手を取っていることがわかったからです。わたしが大江兄弟に会ったのはそれが最後でした」。10日後の11月30日の夜,出井兄弟姉妹も逮捕されました。2か月ほどの後,出井姉妹は囚人のひとりが結核で死んだと聞かされました。それが香坂兄弟であったことは明らかです。戦争が終り,囚人がみな釈放された時,出井姉妹は大江兄弟の消息を知ろうとして,いくつかの刑務所に手紙を出しましたが,返事はありませんでした。その後の調査では,大江兄弟は殺されたものと考えられています。彼は,わずか17歳の時に日本で神の王国について学んでから確かにりっぱな戦いをし,1945年ごろその生涯を閉じました。
1942年8月に釈放されてから,第二次世界大戦後に台湾が中華民国に帰属するまでの間,出井姉妹はエホバの民と連絡を取ることも,協会の出版物を手にすることもできませんでした。では,どのようにして強い信仰を保ったのでしょうか。姉妹は次のように語っています。「聖書がいつも手もとにありました。釈放されるとすぐ,わたしは古本屋で聖書を見つけました。なんという祝福だったのでしょう。使徒たちの記録や,彼らが獄につながれて苦労したことに関する励みの多い記録から,わたしはほんとうに力を得ました。また,エホバは常にわたしたちとともにいて,わたしたちを支えてくださいました。
一方,台湾の東部では悪らつなリン・チエン・ティングによって引き起こされた問題は終わってはいませんでした。1939年に日本と台北で王国のわざが禁じられた結果,反対はいっそうひどくなりました。兄弟たちは警察と政府のために厳しい労働をしいられました。ある時,チィー・シャン郡のタ・ピ村で宴会が設けられました。一番のごちそうには,ひとりのエホバの証人から徴発された水牛が使われました。その飼主にとって,水牛を失うのは西欧の農夫がトラックを失うことに匹敵しました。ある兄弟たちは衣服をはぎ取られ,竹の棒で容赦なく打ちたたかれました。少なくともふたりの姉妹ははだかにされて地面に倒され,警官は鋭い竹の棒を使ってふたりの陰部を突き刺しました。そうしたひどい仕打ちを受けた人たちのうちひとりは今なお健在で,エホバの忠実な崇拝者として現在も奉仕しています。
チィー・シャン郡のある村には,洗脳と宣伝を行なうための中心施設となるキャンプが置かれました。その地域の青年たちの思想を変えるのがねらいでした。一度に500名の人が,神道の軍国主義的な儀式を含む課程を強制的に受けさせられました。非常に強い証人たちを除いて他の人はみなそうした方法に屈しました。ところがその間,証人たちの中の重だった人の何人かが妥協したといううわさが広まったため,大きな混乱が生じました。
1945年,台湾は日本の統治下から中華民国の統治下にはいったので,証人たちは事態が緩和されるものと期待しました。つまり,中華民国は国際連合の創設国の一つでしたから,当時の証人たちは真の崇拝を再び押し進めるよう努力を払いました。ところが,転換期で情勢が不安定だったため,地方の役人にいっそう大きな権限が与えられ,それら役人のほとんどは相変わらず証人たちを不当に扱っていました。証人たちは,遠くの渓谷に行って,ひそかに集まりました。早朝に,くわをかついで畑に出かけるふりをして家を出,同じ様子で帰宅しました。そうした集会は,だれかが近づくと,それを知らせる見張りを立てて,ほとんどまる一日行なわれました。
一方,反対者のリン・チエン・ティングは証人たちの活動を再び禁止させるよう画策していました。中国人の役人にもエホバの崇拝者に対する反対行動を取らせるため,日本の警察がまとめた同じ書類が利用されました。郵便物は途中で差し押えられたので,日本の支部の以前の住所を用いたり,アメリカの本部の住所を用いたりして,ものみの塔協会と連絡を取ろうと再三試みられましたが,何の返事もきませんでした。1946年10月初旬,チィー・シャンにおいて,エホバの証人の活動をやめさせる目的で特別の集会が開かれました。約300人のエホバの証人のほかに9人の警察官と他の役人が出席しました。神の民に対して浴びせられたひどい非難に答える機会は一度も与えられませんでした。しかし,その夜おそく,証人たちの中の重だった人たち数人が当局者に事実を述べることができ,その結果事情は多少緩和されました。
国民政府は,腐敗した不正な役人に対する訴えを審理する取り決めを設けました。その機会を待ち望んでいた兄弟たちは,警察官リン・チエン・ティングを告発しました。1947年1月,彼はフアリアン裁判所で有罪判決を受けました。しかし,執行猶予もあまり長い期間にわたるものではありませんでした。というのは,彼は大赦を受けて釈放され,警察内で昇進したのです。今や彼は以前にもまして激しくエホバの証人に反対しました。
エホバの証人に対する偽りの非難に答えるとともに,当局に働きかけて禁令を解除してもらうよう引き続き努力が払われました。1947年,タイツングのある地方裁判所の判事は,エホバの証人に崇拝の自由を与えるべきであるとの判断を示しましたが,問題の決定を首都台北の当局に委ねました。それで依然として苦しい事態が続き,拘留されては裁判もされずに釈放されました。また,アミ族の大勢の人々に「良いたより」を広めるよう努力が払われたのもそのころのことでした。最初,何人かの兄弟たちからなるグループが「神の立琴」と題する本を用いて指導を受け,それから他の人々を指導するために,ふたり一組で派遣されました。