ギレアデ卒業生の台湾への到着
前号の「目ざめよ!」誌では,第二次世界大戦前後の困難な時期における台湾省のエホバの証人のわざの進展状況が説明されました。厳しい迫害にもかかわらず,真理は,出井家族の住んでいた西海岸の新竹<シンチュウ>や東海岸の台東<タイツン>県の池上<ツウサン>周辺の数百人もの阿美<アミ>族の間に,しっかりと根を降ろしていました。しかし,1949年に至るまでは,反対していた地方の当局者たちがエホバの証人のことを新任の中国人官吏に偽って伝えていました。「1972年のエホバの証人の年鑑」(英文)に掲載されたその記録はさらに続きます。
1949年2月2日,ギレアデ第11回生ふたりが上海から基隆港に到着しました。彼らを出迎えたのはひとりの中国人のエホバの証人の兄弟と2,3人の阿美<アミ>族の兄弟でした。ふたりはしばらくの間,新竹<シンチュウ>の出井家に滞在したのち阿美<アミ>族の住む地域へ出かけました。彼らは何という大きな変化を経験したのでしょう。そこには浴槽もなければ電気や洋式ベッドもありませんでした。ふたりは,土間と草屋根の,そして寝る場所が一段と高くなっている家で阿美族式の生活をしました。豚小屋の片角が手洗いになっていました。ふたりは兄弟たちを助けるためにそこへ行ったのです。たいせつなのはそのことでした。
聖書の音信に関心を持つ人が300人ばかりでなく600人もいることを池上<ツウサン>で聞いたふたりは,その人たちの住む村を残らず訪問することにしました。土地の兄弟たちは数人の「使い」を走らせて各群れに通知させました。知らせが行き渡ると,300人や600人どころか,1,600人の人びとが招きに応じてやってきました。幸いにも,マックグラスおよびチャールズ両宣教者はギレアデで少し日本語を学んでいたので,聖書に関心を持つそれらの人に,日本語の聖書と辞書の助けを借りながら神の組織について話すことができました。ふたりの講演は日本語を理解できない人びとのために阿美語に訳されました。マックグラスとチャールズ兄弟は,新しく兄弟になった人びとが円熱に達するための組織的な聖書研究を必要としていることに気づきました。
ふたりは一度にひとつの事柄を教えることにし,その基礎として「神を真とすべし」と題する本を選びました。集まる兄弟たちに講義ができるようになるまでには,しんぼう強い研究と準備に5日間もかかりました。「使い」たちは集まる場所と時間を関心のある人びとに知らせました。マックグラス兄弟がひとつの方向に出かけて行けばチャールズ兄弟は別の方角に行きました。ふたりは各村で,質疑応答の形式による教えるわざに正味8時間以上費やし,夜には兄弟とくつろいだ交わりを持ちました。
土地の兄弟たちは誠実ではありましたが,聖書の音信の理解には空白のところがたくさんあり,その面の訓練を必要としていました。たとえば,多くの姉妹たちがときどき集会を休みました。そこで調べてみた結果,生理期間中の女性に関するモーセの律法上の制限が姉妹たちに適用されていたことがわかりました。エホバの証人の姉妹たちは,その期間中は集会に出席してはならないと言われていたのです。それで宣教者は,クリスチャンが「律法の下にあらず,恵みの下にある」ことをみんなが理解するように助けました。
マックグラス兄弟は,王国のわざの認可を得る目的で何度も首都に出かけました。一方,チャールズ兄弟は関山<カンシャン>で,エホバの証人が普通行なう戸別伝道をする決心をしました。そのことが知られると,他の人びとはすぐに,いっしょに伝道したいと言い出しました。投獄される恐れがあったにもかかわらず,結局140名の人が野外奉仕に参加したいと言いました。それは彼らにとって初めての奉仕でした。グループは2組に分かれて阿美<アミ>族の住む地域を囲み,池上の東の海岸で出会う計画を立てました。一行は主食の米を携行し,夜は小さな村の公会堂で寝ました。村にはいる前にはそのつど奉仕会を開いて,その村の主要な宗教の反対に会った時に処する備えをし,それから宣べ伝えるわざを開始しました。彼らは海岸沿いの地域を全部伝道しましたが,それでも別のグループに出合いませんでした。その時までにはすでに二週間も歩いていました。
しかし,その旅行最大の難所にはまだ来ていませんでした。一行は,自分たちと自分たちの家のあの谷間をへだてている山脈を越えなければなりませんでした。台湾の山は険しく,しかも悪いことに,粘土質の道が雨ですべりやすくなっていました。山を降りる道は断がいの表面をへびのように曲りくねっていました。一歩踏みはずせば200㍍近い谷底に落下します。チャールズ兄弟のゴム底の靴は危険だったので,兄弟たちは底の厚い靴を彼に貸しました。そしてお互いに手をつなぎ,何度も祈りをささげながらやっとのことで無事に下に着きました。長い徒歩旅行のあとついにもう一つのグループと出会った時,彼らはなんと喜んだことでしょう。しかし,悪い知らせがありました。そのグループの数人が逮捕されたのです。2,3日後にはさらに多くの人が逮捕されました。
そのころ,兄弟たちに干渉するのを控え,兄弟たちが音信を携えて村から村へ旅行するさいには彼らを保護することを警察に指示する手紙が台東<タイツン>の行政長官にあてて送られたことがマックグラス兄弟に伝えられました。ところが,行政長官はそのような手紙を受け取った覚えはないと言って,エホバの証人は共産主義者であるとの偽りの非難を根拠に訴訟手続きをしました。しかし,非常に不利な条件のもとにあっても,宣べ伝えるわざは継続されました。
それからは問題がやつぎばやに起きました。チャールズ兄弟は黄疽にかかりました。また,彼の身分証明書の更新の時期が来た時,警察は古い身分証明書を返すことも,新しいものを発行することも拒みました。チャールズ兄弟は英国臣民だったので危険な立場にありました。というのは,英国政府が中共の政権を承認したため,台北政府が非常に気を悪くしていたからです。チャールズ兄弟は,自分が台湾に滞在するのもそれほど長くないことを見て取り,責任を持つ兄弟たち全員を池上に呼んで集会を開きました。彼はその兄弟たちと4日間にわたってクリスチャンの組織の条件を討議しました。彼の話を聞いた兄弟たちは,それらの指示に従い,聖書を研究し,エホバに仕えていっそうの導きを求めるよう励まされました。それから,宣教者チャールズ兄弟は,彼が非常に愛するようになった人びとに別れを告げました。彼は新竹の出井姉妹の家でしばらく静養し,淡水<ダンスェイ>にある英国領事館に向いました。彼とマックグラス兄弟は小さなホテルに泊まったのですが,その時マックグラス兄弟はマラリヤにかかりました。チャールズ兄弟は台北に行って少し証言のわざをすることに決めました。そうすれば,マックグラス兄弟に必要な薬や食物が手にはいります。やがて,事態はふたりにとって,台湾から正式に追放されるのを待つよりも香港に行くほうが良いように思われました。彼らは,わざわざ基隆まで見送りに来た阿美族の兄弟たちに悲しい別れを告げました。ふたりは1年と少しの間台湾にいたことになります。