台湾の王国のわざを法的に確立する
台湾省で王国を宣べ伝えるわざを確立する初期の努力は最初は日本政府のもとで,後には中華民国の統治下で生じた迫害のために妨げられました。ギレアデを卒業した二人の宣教者が阿美<アミ>族の人たちの間で1年余働き,同時にエホバの証人のわざの正しい姿を政府に理解してもらうよう努力しました。しかしながら,1950年の初頭,それら二人の宣教者は国外退去をしいられました。ここで再び,「1972年のエホバの証人の年鑑」(英文)に報告されている,台湾省における現代のエホバの証人の活動にかんする記録を取り上げることにいたします。
事態を考慮したものみの塔協会は,台湾省をふたたび日本支部の管轄下に置くことに決めました。それで1951年4月3日,日本で奉仕していた宣教者桃原兄弟は,ものみの塔協会のノア会長の訪問に備えるため台湾省に来ました。ノア兄弟とヘンシェル兄弟は,ホテルの部屋で,阿美<アミ>族のグループと新竹<シンチュウ>のグループを代表する兄弟たちとの会合を持ちました。ノア兄弟はそれから日本へ行きましたが,ヘンシェル兄弟は,政府当局者と会うため桃原兄弟とともにとどまりました。そして,台湾省のエホバの証人が不道徳な行為に関係しており,また破壊活動についても教えているという非難の真偽を調査するため協会の代表者を派遣する取り決めが,台湾省警務処外事室の当局者との間で設けられました。戦争が行なわれていた韓国から日本に引き揚げていた宣教者,ドナルド・スチールはその調査を行なう指示を受けましたが,中国政府当局はスチールの査証の申請をきっぱりと拒否しました。
台湾省の政府の機構は,協会のわざを登録する仕事をたいへん煩雑なものにしていました。中央政府は台湾省全体を総轄していると考えられていましたが,民事上の管理行政は省政府の手に委ねられ,県の自治体に委ねられた事柄すらありました。したがって,手続はあちこちの役所にたらいまわしにされ,多くの場合満足のゆく結果はもたらされませんでした。
1952年,協会はロイド・バリー兄弟を台湾省に派遣しました。バリー兄弟は台湾省の各地を訪れました。同兄弟は日本語を話せたので,土地の兄弟たちと直接話し合うことができました。そして,新竹<シンチュウ>の出井家族や,ずっと南の屏東県に住む,聖書に関心を持つある夫婦を訪問したり東海岸から来た兄弟たちに会って彼らを大いに励ましたりしました。バリー兄弟はその滞在中さらに万国聖書研究生協会を台湾省の法人団体とする登録申請書を提出する準備をしました。ニューヨーク,ブルックリンの協会の本部から必要な書類が届くのを待っているあいだに,バリー兄弟は非常に有力な人物と会う機会を得ました。同兄弟自身のことばを次にしるします。
「ある朝,台北のグランド・ホテルで朝食を取っていると,年配のアメリカ人の紳士が,わたしのテーブルに同席してもよいかどうかとていねいに尋ねました。やがてその紳士は,『どんな用事で台湾にいらしたのですか』と尋ねました。わたしは率直に自分がエホバの証人であることを述べると,彼は立ち上がるなり,テーブル越しに手を伸ばし,わたしの手を強く握りました。そして,『わたしは自分の本の中でエホバの証人に関する章を書き終えたばかりのところです』と言いました」。その人は,アメリカのノースウエスタン大学で東洋の宗教の教授をしていたC・ブライデン博士でした。エホバの証人のことを研究した結果,同博士はエホバの証人とその教えにたいへん敬意をいだいているようでした。博士は,バリー兄弟が面会したいと考えていたほかならぬ呉省主席の個人的な客として台湾省にいたことがわかりました。その結果,主席と30分間面会する取り決めが設けられました。それは実際に目に見える成果を何ももたらしませんでしたが,エホバの証人に対する虐待は多少緩和しました。
後日,その主席自身がエホバの民に対してなされた多くの不正行為に相当関係していたことがわかりました。その証拠に,1971年6月5日付のチャイナ・ポスト紙の一記事は,故ホリンワース・K・トング博士著「台湾のキリスト教」からの抜粋を次のように掲げました。「元台湾知事,K・C・呉博士はエホバの証人の性格や目的に関し,信頼すべき教会の指導者たちに問い合わせた。彼は,この宗派がアメリカとカナダ両国でかなりの問題を引き起こしたことや,同派の20人の宣教者がソ連政府の転覆を唱道したかどでソ連から追放されたということを聞かされた」。このように,台湾省のキリスト教世界の宗教指導者たちは,エホバの証人の兄弟たちが受けた残虐な行為の扇動者として告発されています。
1952年には,干ばつのために兄弟たちは悲惨な状態に陥りました。兄弟たちのほとんどがほんのわずかの衣類しか持っていませんでした。ニューヨークの兄弟たちはただちに,救援物資を送る手配をしました。その贈り物が兄弟たちに配られたことは土地の当局者に対して大きな証言となり,また兄弟たちにとっては,海外の兄弟たちが寄せている深い愛を実証するものとなりました。ついで1955年,バリー兄弟は「躍進する新しい世の社会」という協会の映画を携えて来ました。そして幸い,その後3年間台湾省のどこでもその映画を上映できる許可を得ました。花蓮<フアリエン>は,電気のある町として阿美<アミ>族の地域に最も近い都市でした。そこで,バリー兄弟は警官に教えてもらった学校の講堂で,4日間にわたって毎晩違うグループの人々に映画を見せました。映画を楽しんだエホバの証人の兄弟たちと聖書に関心のある人々は全部で2,865人でした。その多くは生まれて初めて映画を見ました。出席した人すべてがはっきり理解できるよう,解説は阿美<アミ>語で行なわれました。
日本に帰るとすぐ,バリー兄弟は,エホバの証人の活動に対する長年の禁令が解かれたという知らせを受けて喜びました。万国聖書研究生協会に法的な認可がおりたのです。今や1,782名の兄弟たちが自由に集会を開き,公に宣べ伝える道が開かれました。ただ,集会は届け出た場所で開かなければならないということが条件の一つになっていたので,兄弟たちはまもなく王国会館を建てはじめました。また,集会では日本語を使うことは禁じられ,中国語を使わなければならなかったので,兄弟たちが中国語を学ぶためのクラスがただちに設けられました。
その間に,中国語を話す人びとの中でわざを行なうことに関して,物事が進みはじめました。1949年に家族とともに中国大陸から香港へ逃亡していた梁マリオンという女性は,1951年に初めてエホバの証人の大会に出席し,そこで「国中に自由をふれ示しなさい」と題するノア兄弟の講演を聞きました。彼女は国立台湾大学で学ぶために香港から台湾省に移りましたが,そこではひとりのエホバの証人にも会いませんでした。それでも,彼女は聖書を学び続けて進歩しました。1952年には休暇で香港に帰った時にバプテスマを受けて台湾省へ戻りました。こうして,ふたりの新しい宣教者,ハルブルック夫妻がニューヨークから基隆<チーロン>に着いたとき,台湾全土で北京語を話すただひとりの証人が同夫妻を出迎えたのです。バリー兄弟も新しい宣教者に同行していました。小さな宣教者の家が台北の中山北路二段に設けられました。その新しい宣教者は,到着した次の日,バリー兄弟と梁姉妹といっしょにさっそく戸別訪問の活動に出かけましたが,ふたりにとってそれは非常に印象的な経験でした。一行は中国語の小冊子を携えて行きましたが,すぐいくつかの家庭聖書研究を始められるように,最初は英語の話せる人を見いだすことに努めました。梁姉妹は,それらの宣教者が中国語で聖書の話をしたり家庭聖書研究を司会したりするのを助けるために毎週3日間,1日2時間を費やすことにしました。
中国語に取り組んでいたのはハルブルック夫妻だけではありませんでした。台北に住む阿美<アミ>族の兄弟たちは,かつて日本政府の援助の下で教育を受けたので,今度は中国語を勉強して政府の要求に従って集会を開けるようになりたいとの切実な願いを持っていました。宣教者の家では中国語による聖書研究の集まりを開く取り決めが設けられ,若い阿美<アミ>族の伝道者や聖書に関心を持つ他の人々が大勢やって来ました。その中のある若い阿美<アミ>族の兄弟は,やがて進歩して,たいへん有能な巡回監督奉仕者また翻訳者になりました。
ふたりの宣教者が到着して3か月後,この島の王国のわざの歴史上非常に画期的なでき事が起こりました。阿美<アミ>族の兄弟姉妹のために大会を開くという約束を果たすため,ノア兄弟が再び訪れたのです。協会の会長はバリー兄弟とアダムス兄弟のふたりとともに台北に着くと,早朝の飛行機で花蓮<フアリエン>に行く手配をし,花蓮から富源<フユアン>の村まで65㌔ほどを汽車で旅行しました。なんと驚くべき事が一行を待ち受けていたのでしょう。兄弟たちは協会の映画の細かな点によく注意を払っていたので,大会の必要な部門をすべて組織していたのです。バプテスマのための水槽は,地面に穴を掘って石で内張りをした,幅4.5㍍,長さ9㍍のものでした。そして,小川の水をその水槽まで引いて,その水で123名の人がバプテスマを受けました。その中にはブヌンその他山岳地に住む部族の人々も混っていました。大会の話は,バリー兄弟が日本語に訳し,次にそれを梁姉妹が中国語に訳し,ついでそれが阿美<アミ>語に通訳されました。公開講演に1,808名もの人が出席したのはなんという喜びだったのでしょう。