霊的な必要を認識する
イタリア人のビアギオとカンボジア人のケムは多くの点で異なってはいますが,二人に共通する非常に重要な事柄があります。二人は共に自分たちの人生はどうしたわけかむなしく,満たされないものであることに気付いていました。物質的な必要は満たされていましたが,霊的な必要は満たされていなかったのです。二人は,『世に悪があるのはなぜだろうか』とか『人生の目的は何か』などといった質問に対する答えを求めていました。
イエスはご自分の最も有名な垂訓の冒頭でこう言われました。「自分の霊的な必要を自覚している人たちは幸いです。天の王国はその人たちのものだからです」。(マタイ 5:3)ケムとビアギオの経験はこの点を如実に示しています。エホバの証人から神の王国の良いたよりを聞いた時,自分の霊的な必要がそれによって満たされることを内面のどこかで感じ取り,喜んでこたえ応じたのです。この「良いたより」に対する感謝の念に動かされ,今では他の人々にその良いたよりを伝えています。結局のところ,他の人たちが自分たちの霊的な必要を満たし,永遠の命の希望を得るよう助けること以上に満足のゆく事柄があるでしょうか。ビアギオとケムに人生の目的を与えたものは,「良いたより」に対する認識だったのです。
残念ながら,クリスチャンの親の下に生まれた若い人々が「良いたより」を知りながら,それを認識しない可能性はあります。ある十代のエホバの証人はこう語りました。「若い人が“真理”を自分のものにしなければならなくなる時が来ます。自分は本当にこれを信じているのだろうか,と自問しなければなりません」。若い人々の中には,世が富や快楽の追求を重要視するため,自らの霊的必要に対して盲目にさせられている人もいます。しかし,それは幸福へとつながりますか。この若いエホバの証人はこう言葉を続けています。「この世は恐ろしい所です。若者たちは動揺しており,この世界にどんな事が起きようとしているかも知らず,自分たちが何を望んでいるかも分かっていません。でもエホバは物事がある程度までしか進行することをお許しにならないのを私は知っています。それで,他の人たちにはない安心感を抱いていられるのです」。その安心感と目的意識は,単に“面白おかしく時を過ごす”よりも価値があるのではありませんか。ビアギオをはじめ神の王国についての真理を学んだ他の人々にとっては確かにそうでした。
真理を真剣に受け止めることには別の利点もあります。前述の若いエホバの証人はこう述べています。「私には真の友人がいます。学校に来ている人々はそうではありません。そうした人々を見るとかわいそうに思えます。パーティーの席でさえ,“麻薬で陶酔”したり酔ったりしなければ本当の意味で互いに楽しく話し合うことはできないのです」。ビアギオはエホバの証人になる前にそのような事柄を経験しました。ビアギオは自分や自分と同じようにしていた他の人々について次のように思い出を語っています。「私たちが幸福だと感じたのはある種のクラブやディスコティックへ出掛けて行ける晩だけだったように思えます。そうした場所の中に入ると,音楽と光が非現実的な雰囲気を醸し出し,退屈な気持ちや孤独感を外に追いやってくれました。とはいえ,それは一時的なものでした」。
イエスはわたしたちが住んでいるこの時代に関するご自分の預言の中で,霊的な必要がないがしろにされることについて警告し,こう言われました。「食べ過ぎや飲み過ぎまた生活上の思い煩いなどのためにあなたがたの心が押しひしがれ,その日が突然,わなのように急にあなたがたに臨むことがないよう,自分自身に注意を払いなさい。それは,全地の表に住むすべての者に臨むからです。それで,起きることが定まっているこれらのすべての事をのがれ,かつ人の子の前に立つことができるよう,常に祈願をしつつ,いつも目ざめていなさい」― ルカ 21:34-36。
老若を問わずクリスチャンはこの言葉を心に留めることが必要とされています。そして次のように自問してみるべきです。わたしは自分の霊的な必要を本当に自覚しているだろうか。それとも,この事物の体制の快楽や問題に「押しひしがれ」,気が散らされるままになっているだろうか。神の王国は自分にとって現実的なものだろうか。自分は本当に霊的な人だろうか。それとも,『ふたりの主人に仕え』ようとして,生半可な態度を示しているだろうか。自分の霊的な必要を認識し損なったために滅び失せるのは,恐ろしい,不必要な悲劇といえるでしょう。
あなたは「常に祈願をしつつ」いつも霊的に目覚めているようにとのイエスの助言に従っていますか。エホバは確かに,ケムがカンボジアのジャングルの中でささげた誠実な祈りを聞き届けてくださり,その霊的な必要を満たすよう取り計らってくださいました。神はあなたにも同じようにしてくださいます。しかし,そのためには求め続けなければならないのです。
聖書が指摘する通り,「肉はその欲望において霊に逆らい,霊は肉に逆らう(の)です」。(ガラテア 5:17)ですから肉の欲望を満たせば満たすほど,霊的な必要を認識するのが困難になります。あなたの娯楽 ― 読む雑誌,見るテレビ番組や映画 ― は,霊的な必要を認識するのを難しくしていますか。神のみ言葉聖書の少なくともわずかな部分でも時間を割いて毎日読み,それについて黙想するよう思い定めてはいかがですか。テレビを見る時間の一部を健全なキリスト教の出版物を読むことに当ててはいかがですか。ビアギオにとって助けになった,「とこしえの命に導く真理」という本は,価値ある研究計画の一端を成すものとなるでしょう。
この危機的な時代に霊的な事柄をないがしろにするクリスチャンに,一体言い訳の余地があるでしょうか。世の中を放浪するビアギオのような若者が人生の目的に対する自分の霊的な必要を認識できるのであれば,その必要を認識し損なう若いクリスチャンについてはどんなことが言えるでしょうか。そのような人の状況はイエスがルカ 12章で述べておられる事態に幾らか似てはいませんか。その章でイエスは,わたしたちの時代にご自分が戻って来ることに関するたとえ話をされ,こう言われました。「その時,自分の主人の意向を理解していながら用意せず,またはその意向にそって事を行なわなかったその奴隷は,何度も打ちたたかれるのです。……実際,だれでも多く与えられた者,その者には多くのことが要求されます」。(ルカ 12:47,48)聖書の預言および神の王国の重要性についての知識を与えられたのであれば,上記の言葉を心に留めるべきではありませんか。
イエスはこの崩壊しつつある事物の体制が救われるから「頭を上げなさい」とクリスチャンに告げられたのではありません。そのようなことを望むのは愚かなことです。むしろイエスはご自分の追随者たちが救出されるであろうと約束しました。わたしたちが知っている世は,「世のはじめから今に至るまで起きたことがなく,いいえ,二度と起きないような大患難」における滅びへと向かっていることを聖書ははっきりと述べています。―マタイ 24:21。
あなたは今日の世についてどのように思っていますか。この世がいかに改革不能で,滅びに値するものか,識別できますか。そうであれば,「救出」を受ける見込みのある側に自らを置いてはいかがですか。あなたも,預言者エゼキエルの幻の中で,現代のキリスト教世界を予表していた古代エルサレムにあって救いのために印を付けられた人々のようになることができます。それらの人々は,その不忠実な都市の中で「行なわれているすべての忌むべきことのために嘆息し,うめいて」いました。(エゼキエル 9:4,新)今日でもエホバは,周囲の“キリスト教”および非キリスト教の社会に見られる悪のゆえにうめいているそのような人々を探しておられます。そうした人々は,『神のご意志が天におけると同じように,地上においても成される』神の支配する世界においてのみ,自分たちの霊的な必要が完全に満たされることを認識するようにならなければなりません。(マタイ 6:10)そのような世界で生活したいと思われますか。ビアギオとケムはそうしたいとの希望を抱いており,現在その希望と調和した生活を送っています。あなたも同じようにできるのです!
[13ページの図版]
若い人が“真理”を自分のものにしなければならなくなる時が来ます。自分は本当にこれを信じているのだろうか,と自問しなければなりません