老いてもおそすぎることはない
一昨年のこと,スウェーデンに住む70歳のある奉仕者が,ニューヨーク市にある,ものみの塔ギレアデ聖書学校の第39回目のクラスにはいるよう招待されました。その奉仕者は,この年でとても10ヵ月の激しい奉仕訓練には耐えられない,と考えるどころか,むしろその訓練を受けることを楽しみにしていました。学校でいろいろなことを学べば,自分のいままでの物事のやりかたを変える必要があるかもしれません。それでも彼は進んだ訓練を受けることを心から望んだのです。
自分から進んで新しいことを行ない,必要があれば変更や調節をもいとわないというこの意気こそ,老人を活動的にし,その心を若々しくします。年を取っているからといって,いままでの考えかたや習慣に従わねばならない,と考える必要はありません。長い間信じてきたことが間違いであることを知らされたとき,「私は年寄だから」といって,その間違いを改める義務をのがれることは許されません。どんなに年を取っていても,生きている以上はその道を改めることができます。
神は,いつでも神のみことばである聖書と矛盾する教理に従う人を喜ばれません。そのため,自分の信仰に聖書の裏づけのないことを知らされた老人は,むずかしい決定をしなければならぬことになります。その場合どうしますか。たとえ自分の生活を大幅に変化させることになっても,その挑戦に応じますか。不幸にして多くの人は,神のことばを注意ぶかく研究するだけの,そして神のことばに示された正しい原則に生活を一致させるだけの積極性と勇気と謙遜さがありません。もちろん例外はあります。
その例外のひとりは,コスタリカのゴルフィトに住む96歳のシスタ・バスクエスさんです。彼女はカトリック教徒であったので,それまで神の言葉を学ぶことができませんでした。けれども,自分の家に来る奉仕者たちと聖書を研究してから,神のご要求を知るようになり,昨年バプテスマを受けました。バスクエスさんは目が見えず,足も不自由ですが,機会をとらえて訪問客に証言します。彼女がもし,私はこんな年寄だから新しいことはできないと考えたなら,神の御国の良いたよりを他の人に伝えるという喜びは得られなかったでしょう。
もちろん聖書が教えるように,「あなたの若い日に,あなたの造り主を」覚えるのがよいことはいうまでもありません。「悪しき日がきたり,年が寄って,『わたしにはなんの楽しみもない』というように」なってからでは,活発に神に奉仕することはずっとむずかしくなります。しかしたとえあなたがいま年を取っていて,老齢にともなう悪しき事柄のために生活に喜びを失っているとしても,考えかたをかえるのにおそすぎることはありません。それどころか,神のみこころを行なうために必要な心の変化をすることこそ,真の満足を得る唯一の道です。―伝道 12:1。
1854年8月8日,アフリカのシエラレオネで生まれた,いま110歳のスバ・セセイさんなどは,すぐにそのことを保証する人のひとりでしょう。パスバさん ― 友だちは彼をそう呼ぶ ― は活気のある生活をしていましたが,1938年に失明しました。「私は心から死を祈り求めました。私が失明したのは,猟師をしていた時75頭のひょうを殺した罰だと信じさせられていたのです」と彼は説明しました。そのような間違った教えやら失明やらで,パスバさんの生活はくらいものとなり,生きる喜びを失っていました。
しかしエホバの証者が聖書の真理を彼のところへたずさえてきて,苦しみの真の原因と,神の約束による事物の新しい制度について伝えたとき,その暗い見方もすぐに変わりました。(ペテロ後 3:13。黙示 21:4)彼は喜んでその聖書のおとずれを受け入れ,その教えに一致するように生活を改めました。「もし神が私の過去をお許し下さるならば,いくら年を取っていても変われないことはありません」といって,107歳の彼は,ポート・ロコで開かれたクリスチャンの大会でバプテスマを受けました。
その時以来パスバさんは,クリスチャンとの交わりや,神の御国の良いおとずれを他の人々に伝えることに真のしあわせと満足を見出しています。目が見えず,からだもやや不自由ですが,それでもあらゆる機会をとらえて,自分の家にくる人々に聖書の伝道をしています。またポーチに出て通りがかりの人にも証言します。このようにして彼は昨年,1ヵ月平均14時間伝道しました。しかも109歳でそれだけの伝道をしたのです。
おそらくあなたはそれほどのお年寄ではないでしょう。100歳をすぎた人が聖書の真理を学び,それにあわせて生活を改め,またその真理を他の人に伝えることができるなら,あなたにもできないことはありません。むしろそういう変化をすることは必要なのです。神のおたてになる事物の新しい制度の下で命を得るか否かは,それにかかっているからです。
また老齢であることに加えて,自分の住む土地の言葉が話せないという問題があるかもしれません。その場合,新しい言葉をならって,近所の人たちに聖書から学んだ良い事柄を話すには,もう年をとりすぎていてだめだ,と考えるべきですか。
2年まえのこと,アメリカ,ロードアイランド州プロビデンス市のイタリア語を話すある若い奉仕者は,80歳の男の人と聖書の勉強をはじめました。この人は,自分は年寄だから英語など習えないとは考えませんでした。会衆のすべての集会に出席すべきことを教えられると,最初のうちは全部は理解できませんでしたが,それでも集会に出ました。しかし定期的に集会に出席して英語を使っているうちに,効果的な聖書の話が十分できる程度に英語が話せるようになりました。いまその人は82歳ですが,定期的な戸別伝道者です。そして一年のうちのある時期には全時間奉仕に参加します。
このことから明らかなように,もし心から神のみこころを行なおうと思えば,どんなに老齢でもできないことはありません。たしかに高齢の人が,神に奉仕するために物事をいろいろ調節するのは,若い人にくらべてずっとむずかしいことでしょう。しかしできないことではありません。エホバ神ご自身があなたの変化を助けてくださるでしょう。エホバは援助を約束されています。そして聖書の中で次のように言われています。「わたしはあなたがたの年老いるまで変らず,白髪となるまで,あなたがたを持ち運ぶ」。―イザヤ 46:4。