インドネシアの多難な国情
インドネシアの昨年はきわめて動乱の多い時期でした。通信および交通の施設が貧弱なためにジャカルタにあるエホバの証人の支部事務所にとって,散在する島々に住む奉仕者たちと連絡を保つことが大きな問題でした。しかし,巡回して奉仕する監督は伝道者たちを訪問して必要な励ましを与えてきました。エホバの証人にさまざまの障害をもたらした国情にもかかわらず,エホバの過分の恵みにより,神の奉仕者たちは信仰を強められてきました。昨年の夏ごろになって国情が好転したため,将来には自由に伝道できる明るい見込みが開かれてきました。しかし一昨年の秋には,共産党が政権を握りそうな気配が強まり,国内の各地で伝道者たちは中立の問題できわめて大きな圧力を受けていました。次に支部の責任者から送られてきた経験の幾つかをしるします。
10月初旬,最後の攻勢に出た共産主義者たちは,政権を獲得するかに見えましたが,彼らの企ては失敗しました。発見された書類によれば,彼らの全てが成功した暁には,共産主義に反対するすべての要人を殺す計画が立てられていたことが明らかにされました。そして多くの伝道者,特にほとんどすべての会衆の監督の名前は,殺されるべき要人の一覧表の中に含まれており,その大多数は一覧表の初めの方に記入されていました。また,支部事務所で働く人々の氏名は,その地域の宗教指導者の一覧表の最初にのせられていたという報告が寄せられています。
共産党による革命が失敗に終わったのちには,共産主義者に対する激しい反感が高まり,共産主義者の大量殺害がおもに宗教団体の手で行なわれました。ある地方では,エホバの証人に反対する宗教グループが,この機に乗じてエホバの証人たちを滅ぼそうと企てました。伝道者は数回にわたって暴徒から襲われ,ほかにも多くの妨害を受けました。
たとえば,スンバ島では反対者が,「これらの悪魔は我らの敵」という主題の歌を作り,伝道者がある地区で伝道しようとすると,大勢で集まって,そのあざけりの歌を歌い,また,伝道者たちのことをよく知っている人々は,仕事に行こうと道を歩いている伝道者に向かってその歌を歌い,あざけりました。ある巡回監督者が最近,一つの村から別の村に向かって数キロの道を歩いていたところ,その間中,一人の教師と生徒たちがその歌を歌ってあとをついてきたとのことです。このような仕打ちを受けても伝道者たちは落胆することなく,確固とした立場を守り,大胆に伝道をすすめているため,彼らの忍耐は人々の間でも評判になり,その地方の人々はこう言うほどになりました。「エホバの証人は釘のようなもので,たたけばたたくほど深くはいる」。
スンバ島で若い一人の男の人が真理を研究しはじめました。その父親は猛烈に反対し,彼をしたたかたたいたあげく,家から追い出しました。後日その父親は共産主義の同調者とみなされ,逮捕されました。そして今回の革命事件で捕えられた囚人たちが留置所で,多くの宗教団体の人々から受けた残忍な仕打ちのことを話し合い,全般的に宗教のことを非難していたところ,ある囚人がこう語りました。「しかし,我々を滅ぼそうという運動に加わらない宗教団体が一つある。それは,エホバの証人と呼ばれるあの新しい宗教団体だ。彼らはいつも政治問題で中立の立場をとっているが,あらゆる場所で憎まれ,迫害されている。しかし彼らは自分たちの敵,つまり彼らを迫害する者に対してさえ愛を示す唯一の宗教団体だ」。このことばを聞いたその父親は,問題をよく考え,自分がそれとは知らずにたたいて家から追い出したむすこのやっていたのがその宗教だったことにはじめて気づきました。後日,共産党の陰謀の共犯容疑が晴れて,出所し,家に帰る途中,エホバの証人であるむすこに出会いました。その時,父親はこう語りました。「おとうさんからお願いするが,エホバの証人をひとりさっそく家に案内してきてほしいのだ。お前の宗教のことをぜひ聞きたいのでね」。そして家族全員のために研究が取りきめられ,こうしてその父と子はふたたびともに生活することになりました。それから,6か月も経たぬうちに父親と家族の人々すべては伝道者になり,父親は家を会衆の集会所として提供しました。
スマトラ島からは,多くの努力を払い,片道2日間のバス旅行をして地域大会に出席した経験が一人の婦人の伝道者から寄せられました。かつては仏教徒だったこの婦人には7人の子供がいます。そして真理に反対する夫は,彼女が大会に出席するのに必要なお金を与えませんでした。彼女は,家計の中から毎月二,三ルピアを貯えては菓子の原料を買い,作った菓子を二,三か月間売って,大会の旅費を工面したのです。この婦人は,家事を手伝うように子供たちをよく訓練しているため,1週間に数回奉仕に参加し,すべての集会に出席しています。