読者からの質問
■ 近年,「ものみの塔」誌で,元カトリック司祭,ヨハネス・グレベールの翻訳が使われなくなったのはなぜですか。
この翻訳は,マタイ 27章52節と53節およびヨハネ 1章1節に関する「新世界訳」および他の権威ある聖書翻訳の訳文を支持するために時折用いられていました。しかし,ヨハネス・グレベール訳の「新約聖書」の1980年版の序文に示唆されているとおり,この翻訳者は難しいくだりをどのように訳すべきかをはっきりさせるため,「神の霊界」に頼りました。そこにはこう書かれています。「彼の妻は神の霊界の媒介として,しばしば神の使者からグレベール牧師に正しい答えを伝える器となった」。「ものみの塔」誌は,心霊術とそのように緊密な関係を持つ翻訳を利用するのはふさわしくないと見ています。(申命記 18:10-12)「新世界訳」の中の前述の聖句の翻訳の基盤をなしている,古典に関する学識は確かなものであり,その理由でグレベールの翻訳をよりどころにしなければならない理由はありません。ですから,グレベールの「新約聖書」を用いなくなったことにより失われたものは何一つありません。
■ 神が「ご自分の使いたちを霊とし,自分の公僕たちを火の炎とする」と述べているヘブライ 1章7節の言葉は何を意味していますか。
使徒パウロは神のみ子をみ使いたちと対比して,ヘブライ 1章7節でこの言葉を述べています。パウロは詩編 104編4節の言葉を引用していました。
み使いたちはすべて霊の被造物で,肉の体を有していませんから,神が「ご自分の使いたちを霊と(する)」と述べるこの節は,み使いたちの生体の種類に言及しているのではないと思われます。むしろ,この理解は「霊」という言葉の根本にある意味と関係しています。「霊」と訳出されている原語の言葉(ヘブライ語,ルーアハ。ギリシャ語,プニューマ)には,「息をする,あるいは吹き込む」という基本的な意味があります。文脈によって,それは「風」とか「活動力」と訳出されることがあります。ですから,ヘブライ 1章7節と詩編 104編4節の論点は,神が,目に見えないみ使いたちを,ご自分の奉仕のための霊的な勢力あるいは力強い勢力としておられるということのようです。神はまた,ご自分の火のような裁きを執行するためにみ使いたちを用いる際に,彼らを「火の炎」あるいは「むさぼり食う火」として用いることもおできになります。