覚えていますか
「ものみの塔」誌の最近号を感謝してお読みになりましたか。では,以下の質問に答えられるかどうか確かめてみましょう。
□ 初期クリスチャンは,なぜイエスの誕生日を祝わなかったのですか。
ワールドブック百科事典によれば,「初期クリスチャンはいかなる人の誕生日を祝うことをも異教の習慣とみなしたので,[イエスの]降誕を祝わなかった」と述べられています。―12月15日号,4ページ。
□ 祈りはイエスに直接ささげられるべきですか。
いいえ,そうすべきではありません。祈りは全能の神にのみ属する崇拝の一様式だからです。わたしたちは祈りをすべてエホバ神にささげることによって,「天におられるわたしたちの父よ」と祈るようにというイエスの指示を心に留めていることを表わします。(マタイ 6:9)―12月15日号,25ページ。
□ アナニアとサッピラの罪に比べると重大であったダビデ王の罪に,異なった審判が下されたのはなぜでしょうか。(サムエル第二 11:2-24; 12:1-14。使徒 5:1-11)
ダビデ王の罪は,肉の弱さに起因していました。ダビデは自分のしたことを指摘された時,悔い改めたので,エホバはお許しになりました。もっとも,ダビデは,罪がもたらす結果を甘受しなければなりませんでした。アナニアとサッピラは,偽善的にうそをつき,クリスチャン会衆を欺こうとして『聖霊と神に対して虚偽の振る舞いをする』という罪をおかしました。(使徒 5:3,4)それは邪悪な心を抱いていた証拠となり,二人はより厳しい裁きを受けたのです。―1月1日号,27,28ページ。
□ 喜びに満ちた心をもってエホバに仕えるのに何が助けになりますか。
わたしたちの受けている祝福や神から与えられた奉仕の特権に関して,感謝の念にあふれた積極的な見方を培うべきです。また,神の言葉に従うことによって,神を喜ばせていることを決して忘れるべきではありません。―1月15日号,16,17ページ。
□ 効果的に励ましを与えるために,どんな二つの点を心に留めているべきですか。
第一に,励ましが具体的なものとなるよう,何を言うかを考えることです。第二に,ほめ言葉をかけるに値する人や築き上げられることを必要としている人に近づく機会を探すことです。―1月15日号,23ページ。
□ なぜ「大群衆」の『手には,やしの枝がある』のでしょうか。(啓示 7:9)
やしの枝を振っているということは,「大群衆」がエホバの王国とその油そそがれた王,イエス・キリストを喜びにあふれて迎えていることを示唆しています。(レビ記 23:39,40をご覧ください。)―2月1日号,17ページ。
□ ヨブ記から,どんな貴重な教訓が得られますか。
ヨブ記には問題の扱い方が示されています。試練に直面している人にどのように助言すべきか ― また,助言すべきでないか ― についての際立った例が示されています。さらに,ヨブ自身の経験は,わたしたちが逆境にもまれている時に平衡の取れた反応を示す助けになります。―2月15日号,27ページ。
□ イエスの奇跡はわたしたちに何を教えていますか。
イエスの奇跡は神の栄光をたたえるものであり,神の栄光をたたえるためにクリスチャンが倣うべき型となりました。(ローマ 15:6)それらの奇跡は,善を行なうこと,寛大さを示すこと,同情を表わすことを奨励するものでした。―3月1日号,8ページ。
□ 長老たちが新たに献身した人と準備された質問を復習することによって,どんな目的が達成されますか。
各々のバプテスマ希望者が聖書の基本的な教えを十分理解し,エホバの証人になることに何が関係しているかを十分心得ていることを確認できます。―3月1日号,13ページ。
□ どうすれば聖書中の祈りから益を得られますか。
聖書に記されている祈りを注意深く調べれば,自分の場合と同様の状況のもとでささげられた祈りを見定めることができます。そのような祈りの例を見つけ,その箇所を読み,黙想するなら,エホバと意思の交流を図る自分の祈りの質を向上させるのに役立つでしょう。―3月15日号,3,4ページ。
□ 敬虔な恐れとはどのような恐れですか。
敬虔な恐れとは,エホバに対する畏敬の念,深い崇敬の念であり,エホバの不興を買うことを恐れる健全な怖れが伴います。(詩編 89:7)―3月15日号,10ページ。
□ 聖書はどんな三つの方法でわたしたちが神の目に貴重なものであることを示していますか。
聖書は,わたしたち各々が神の目に価値があることを教えています。(ルカ 12:6,7)聖書はエホバがわたしたちの内にある何を評価されるのかを明らかにしています。(マラキ 3:16)また,エホバがご自分の愛をわたしたちに表明するために行なわれた事柄を述べています。(ヨハネ 3:16)―4月1日号,11,12,14ページ。
□ ヘブライ 10章24,25節はなぜ,クリスチャンは共に集まり合うようにという単なる命令以上のものと言えますか。
パウロのその言葉は,神の霊感によって示された,クリスチャンのすべての集会のための規準を定めています。実際,それはクリスチャンが一緒に交わるどんな機会にも当てはまる規準です。―4月1日号,16ページ。