ヨハネ
注釈 2章
カナ: 恐らく,「葦」という意味のヘブライ語カーネに由来。よって,「葦の場所」。ヨハネだけがこの町のことを述べていて,アシェル族の領地のカナ(ヘブライ語,カーナー)と区別するためと思われるが(ヨシ 19:24,28),いつもガリラヤのカナと呼んでいる。(ヨハ 2:11; 4:46; 21:2)多くの学者が支持している場所は,ナザレの北13キロほどの所にあるキルベト・カーナで,そこにはベト・ネトファの谷(エル・バットゥーフ平原)の北側の丘に古代の村の廃虚がある。そこは,アラビア語で,ガリラヤのカナという意味のカーナ・エル・ジェリルとして今でも知られている。近くの湿原には葦が繁茂しており,カナという名称がよく当てはまる。その廃虚には幾つもの古代の水ための跡や,会堂の遺跡と思われるもの(西暦1世紀の後半か2世紀のもの)がある。西暦1世紀のものと考えられる陶片(土器のかけら)や硬貨もそこで発見された。教会伝承が支持している場所は,ナザレの北東6.5キロにあるカフル・カンナ。ナザレから巡礼者が容易に立ち寄れる場所だからかもしれない。とはいえ,この場所の名前は,聖書に出ているガリラヤのカナと言語上のつながりはないようだ。
それは: または,「女性よ,それは」。イエスが自分の母親に「女性よ」と呼び掛けたのは他の女性への呼び掛けと同じで,多くの場面で丁寧な表現と考えられたようだ。無礼,不親切,不敬とは見なされなかった。天使および復活したイエスは,イエスの墓で泣き悲しんでいるマリア・マグダレネに話し掛けるような時にもこの表現を使ったので,きつくて不敬なものだったはずはない。(ヨハ 20:13,15,脚注)イエスは苦しみの杭に掛けられた時,深い気遣いに動かされて同じ表現で母親に呼び掛け,愛する使徒ヨハネに母親の世話を委ねた。(ヨハ 19:26,脚注)イエスがこのように計らったのは,父と母を敬うようにという聖書的な務めのためだった。(出 20:12。申 5:16。マタ 15:4)幾つかの参考文献によると,「女性よ」という呼び掛けは敬意と愛情を表せる。
それは私たちが心配することですか: マリアは,イエスに「ぶどう酒がありません」(ヨハ 2:3)と言った時,何かしてあげたらどうかとイエスに提案していたに違いない。イエスはこの時までに奇跡を行ったことがなかったので,これは注目に値する。イエスのこの返答はセム語系の慣用句で,直訳すると「私とあなたとには何が」。これは基本的に異議を示すものだが,文脈に沿って理解しなければならない。敵意や拒絶の表れの場合もあるが(マタ 8:29。マル 1:24; 5:7。ルカ 4:34; 8:28),ここでは穏やかな反論のようだ。(この慣用句のそのような穏やかな使い方の例がサ二 16:9,10と王一 17:18などヘブライ語聖書にもある。)イエスがすぐに応じなかった理由は,その後に述べた私の時はまだ来ていませんという言葉に示されている。とはいえ,マリアの提案に対するイエスの反応は,5節のマリアの反応から分かるように,手助けに反対ではないことを示していたのだろう。
五,六十リットル: 直訳,「2,3メトレテス」。多くの学者は,ここのギリシャ語メトレーテースはヘブライ語のバトという単位に等しいと見ている。古代ヘブライ文字で「バト」という表示の付いたつぼのかけらに基づいて,1バトはおよそ22リットルと考える学者がいる。(王一 7:26。エズ 7:22。エゼ 45:14)そうであれば,水がめ1つの容量は44から66リットルで,6つ合わせて260から390リットル入る。一方,ここではバトより大きいギリシャの計量単位(最大40リットル)を指しているのではないかと考える学者もいる。付録B14参照。
最初の奇跡として: 水を上等のぶどう酒に変えたのはイエスが行った最初の奇跡またはしるしだった。この出来事を記しているのはヨハネだけ。
過ぎ越しの祭り: イエスは西暦29年秋のバプテスマの後,伝道活動を開始した。それで,ここで述べられている宣教初期の過ぎ越しは西暦30年春に行われたものだったに違いない。(ルカ 3:1の注釈と付録A7を参照。)4つの福音書を比較することで,イエスの地上での宣教期間中に過ぎ越しが4回あったことが示され,宣教が3年半続いたという結論になる。マタイ,マルコ,ルカの福音書(しばしば共観福音書と呼ばれる)は,イエスが死んだ時の4回目の過ぎ越し以外は述べていない。ヨハネは3つの過ぎ越しについてはっきり述べている。(ヨハ 2:13; 6:4; 11:55)そして,もう1つはヨハ 5:1の「ユダヤ人の祭り」という表現で言及されていると思われる。これは,イエスの生涯をより詳しく理解するために福音書の記述を比較することの価値をよく示す1例。ヨハ 5:1; 6:4; 11:55の注釈を参照。
神殿: 神殿域の,異国人の庭として知られる部分を指すと思われる。付録B11参照。
牛や羊やハトを売る人たち: 神の律法によれば,イスラエル人は神殿で犠牲を捧げなければならなかった。また,神殿を訪れる人はエルサレム滞在中に食料が必要だった。エルサレムまで長旅をしなければならないイスラエル人もいたので,律法では,農作物や動物を売って,お金をエルサレムに持っていき,牛,羊,ヤギ,ハトなどの捧げ物やエルサレム滞在に必要な物を買うことができた。(申 14:23-26)やがて,商人たちが神殿の境内で犠牲用の動物や鳥を売る事業を始めた。(この節の神殿に関する注釈を参照。)人々をだましてひどく高い値段で売る商人もいたと思われる。
縄でむちを: 「縄」に当たるギリシャ語(スコイニオン)はアシやイグサなどでできた縄を指すのだろう。イエスが縄のむちで「羊や牛[を]神殿から」追い出した時,それらの動物を売っていた人たちも後に付いて神殿域から出ていっただろう。次の節で,イエスはハトを売る人たちを言葉で追い立てているが,むちのことは述べられていないので,その人たちに対してむちは使わなかったことが分かる。それでも,真の崇拝を営利目的で利用していた人たちは神殿の敷地を出ていかざるを得なかった。
羊や牛と一緒にその人たちを皆神殿から追い出し: イエスは地上にいた間に,エルサレムの神殿を商業主義の汚れから2度清めた。ここに記されているのは1度目の清めで,イエスが選ばれた神の子としてエルサレムを初めて訪れた西暦30年の過ぎ越しに関連してのことだった。(付録A7参照。)イエスが2度目に神殿を清めたのは,西暦33年のニサン10日。その時のことは,マタイ(21:12,13),マルコ(11:15-18),ルカ(19:45,46)の福音書に記されている。付録A7参照。
両替屋: マタ 21:12の注釈を参照。
商売の家: または,「市場」,「店」。「商売の家」と訳されているギリシャ語オイコン エムポリウーは,「商売が営まれている場所」,「市場」という意味。ギリシャ語聖書でここだけに出ている。神殿の境内での犠牲動物の販売は,裕福で力のあった祭司長アンナスの家の主な収入源の1つだった。
あなたの家に対する熱い思い: この文脈で,「熱い思い」と訳されているギリシャ語(ゼーロス)は,献身の自覚から来る熱烈で積極的で燃えるような関心を意味する。弟子たちが思い出した聖句は詩 69:9にある。そこには,対応するヘブライ語の名詞(キンアー)があり,「熱い思い」と訳されている。その語は,「全くの専心を求めること」,「対抗するものを許さないこと」といった意味もある。イエスが神殿域でのあらゆる商業活動を見て憤ったのも当然で,熱い思いに動かされて行動した。
この神殿を壊してみなさい。3日で建て直します: ヨハネだけがイエスのこの言葉を記録している。ユダヤ人は,イエスがヘロデの神殿のことを話していると考えた。イエスの裁判の時,反対者たちはこの言葉を引用したが,取り違えていた。(マタ 26:61; 27:40。マル 14:58)ヨハ 2:21から分かるように,イエスは後に自分が死んで復活させられることについて比喩的に語り,神殿が壊されて建て直されることに例えていた。イエスは「建て直します」と言ったが,聖書がはっきり示しているように,イエスを復活させたのは神。(使徒 10:40。ロマ 8:11。ヘブ 13:20)イエスは殺されて3日目に復活させられた後(マタ 16:21。ルカ 24:7,21,46),別の体を与えられた。それはエルサレムの神殿のような人手によるものではなく,父による天での体だった。(使徒 2:24。ペ一 3:18)聖書で,神殿が比喩的に使われて人を指すのは珍しいことではない。メシアは「主要な隅石」になることが予告されていて(詩 118:22。イザ 28:16,17。使徒 4:10,11),パウロとペテロもイエスと弟子たちに関して,コ一 3:16,17; 6:19,エフ 2:20,ペ一 2:6,7で同様の例えを使った。
この神殿は46年かけて建てられた: ユダヤ人は,ヘロデ王による神殿の再建工事のことを言っていた。エルサレムの最初の神殿はソロモンによって建てられ,紀元前607年にバビロニア人によって破壊された。それは,バビロン捕囚後ゼルバベルの指導の下で再建された。(エズ 6:13-15。ハガ 2:2-4)ヨセフス(「ユダヤ古代誌」,XV,380 [xi,1])によれば,ヘロデは治世の第18年に再建工事を始めた。王の在位年に関するユダヤ人の見方で数えれば,それは紀元前18年から17年にかけてのこと。実際には,神殿が西暦70年に破壊される6年前まで増築工事が続いていた。
神殿とは自分の体のこと: 使徒ヨハネのこの記述から分かるように,イエスは後に自分が死んで復活させられることについて比喩的に語り,建物が壊されて建て直されることに例えていた。
人間の心に何があるかを知っていた: イエスは人の考え,推論,動機を悟ることができた。預言者イザヤはそのことを予告し,メシアについて「その者の上にエホバの聖なる力がとどまる」と述べていて,イエスの判断は「見える事柄だけ」に基づいているのではない。(イザ 11:2,3。マタ 9:4)マル 2:8の注釈を参照。