わたしは世界アマチュア・レスリングのメダル保持者だった
私は高校時代から約20年にわたり,アマチュア・レスリングに親しんできました。苦しい練習をつづけ,いつも人に勝つことを考え,からだと精神をきたえて,念願の全日本選手権試合に勝利を得,また海外遠征にも参加し,世界青年平和友交スポーツ大会で世界の強豪を相手に,三位に入賞しました。
大学を卒業したあとも学校勤務のかたわら,後輩の指導をつづけ,最近まで,近づく山形インターハイのための県の選手づくりの責任者として指導にあたっていました。そんな2年半前の5月のある日,エホバの証人の伝道者が事務所に「目ざめよ!」誌をもって訪れました。「目ざめよ!」誌を通して将来の事について話し合いましたが,私は「この社会を良くする能力が人間にはなく,神にたよらねばならない」などというこの若い女性はなんといくじのない人だろうと思いました。レスリングの苦しい練習に耐えて多くの栄光を得た誇りのあった私は,そのやりぬく力によって全ての困難を克服できると考え,自分にはどのような事でもできるという思いあがった考えを持っていました。最初の訪問では納得のできない事ばかりでしたが,聖書研究の方法を知って研究に同意しました。「見よ!」を用いて研究を始めましたが,認識のない私は予習を全くしないこともしばしばでした。しかし「みことばを植える」ことに熱心な伝道者はよく私を励ましてくれました。
はじめは勤務時間中にしていた研究も,それでは時間を盗むことになるので改めました。そんな当然のことにも認識がなかったのです。研究が進むにつれて聖書も開けるようになりました。妻やレスリングの友人にも学んでいることについて話せるようになり,時々証言をこころみてみましたが,全く取り合ってもらえませんでした。伝道者は集会に出席するよう熱心にすすめました。私が日曜日の集会に出席しようとすると,妻やレスリングの友人は反対しました。血の問題,組織に対する疑問が反対のおもな理由でした。研究がはじまって6か月経過した12月になると妻の反対も少しやわらぎましたので,妻,長女,長男の4人家族で日曜日の集会に出席できるようになりました。1月にはいって,日に30本のタバコのくせを克服でき,バスで集会に出るのが大変でしたので,中古車を購入しました。2月には家族全員で5つの集会に出席できるようになりました。出席している人々を見て,この組織がエホバの愛にもとづく組織であると感じました。出席している人々は,私が交わっていたレスリングの友人たちとも,又,今までつき合っていたどの人々とも違っていたからでした。神のことばが植えられるにつれて,レスリングで人を倒すことばかり教えているのが空々しく感ぜられるようになり,レスリング関係の人々との会合にも身がはいらず,「そんなことでどうする!」と先輩から叱責を受けることもしばしばでした。
3月にはいって神権宣教学校の割り当てをもらいました。それで伝道者は熱心に伝道することをすすめます。それは私にとって大きな挑戦といえました。20年近くも続けてきたレスリングと別れることであり,今までは何くれとなく援助してくれていた先輩や友人すべてを失うことを意味するからです。そしてどのような非難が自分に押しよせるだろうか? という心配がありました。しかし,みことばが植えられ育つうちにきたるべき大かん難で私や家族を救いうるのは,レスリングやそれにたずさわっている友人ではなくエホバ神だけであることを確信できました。それで生命の道をえらぶことができました。伝道者の援助の申し出をことわり,レスリングの責任者の家にゆき,脱退させてもらえるよう願いましたが言下にことわられました。そして,今の仕事がむずかしいから宗教にたよるようになったのだろうから,もっと楽な仕事の部門へ異動してもらうように市役所の有力者に働きかけてやる,とのこの世の親切には困ってしまいました。しかし私はその親切はおことわりし,エホバ神の親切を受けることにしました。そして4月に開かれた弘前大会に家族で出席し,真理を受け入れた妻とともに伝道者になりました。その夏,横浜での地域大会で,エホバ神への献身を水のバプテスマによって表わし,20年間たずさわったレスリングを離れ,人を倒すレスリングを教えるのではなく,みことばを植えて人を建ておこす神のことばを伝える奉仕者として充実した生活を送っています。そして,その年の秋に仙台で開かれた巡回大会では最初真理に反対していた妻も献身し,休暇開拓奉仕を経験できたことは大きな喜びです。