聖書の高い道徳規準は家族に祝福となる
道徳の低下と親子の断絶が憂慮されるこの時代にあって,聖書の高い道徳規準に従うことは家族に大きな祝福となります。この夏,新潟市で開かれたエホバの証人の「神の支配権」地域大会で話された次の経験はそのことを示しています。「わたしの両親は小学校の教師で,わたしは長男でしたから,とくに道徳についてきびしく育てられました。わたしは両親に恥をかかせないようにいつも正直な,良い行ないをするよう努めました。しかし,第二次大戦とそのあとの混乱を子どもの目で見てきたわたしは,強い者が勝ち,正直な者は損をするという事実が非常に多いことを知りました。そして親が教えてくれた道徳は,ある一つの見方,考え方であって,時代が変われば道徳も変化するものだと思うようになりました。わたしもおとなになり,会社に就職し,家庭を持ちました。世の中は年々悪くなって,当然守るべき公衆道徳でさえ守らない人びとが増えました。
わたしたち自身も周囲の影響を受けて,限られた人生を大いに楽しまなければ何のために生まれてきたかわからないと思うようになりました。それで会社以外に,コーラス,柔道,野球などいろいろなクラブ活動を行なって若い女性とも接してきました。また毎日,マージャンをやり,家に帰るのはいつも遅いので,子どもたちと食事をいっしょにとるのはまれでした。その上,土曜日と日曜日は競馬のことで頭がいっぱいでした。ギャンブルの魅力にとりつかれ,こんなおもしろいことを知らないまじめな人を気の毒だと思いました。
「こんな生活をしていた1969年の1月のある晩,思いがけなくエホバの証人の訪問を受けました。それより少し前からエホバの証人と聖書を学び始めていた妻が,男性の奉仕者に頼んで来てもらったようでした。わたしは初めて聖書を見ました。わたしは両親から儒教の教えを教えられていたので,聖書には縁がありませんでした。わたしがまず感じたことは,聖書がわかりやすい字で書かれていて読みやすいものだという点です。家庭聖書研究の取り決めは別にしませんでしたが,いつの間にか「見よ! わたしはすべてのものを新しくする」と題する小冊子を通して研究に入っていたようです。わたしは聖書のマタイ伝 5章から7章に書かれているイエスの山上の垂訓に心をひかれました。これほど簡潔な美しいことばで高い道徳を説いたものは今までに見たことがありませんでした。とくにマタイ伝 7章12節の「何事でも人々からしてほしいと望むことは,人々にもそのとおりにせよ」という積極的な教えに感銘しました。ある日曜日に,わたしはエホバの証人の集会に出席し,イエスが教えた山上の垂訓についての講演を聞き,その意味を理解することができました。わたしはその集会に出席している人びとの柔和な態度に驚きました。それは,わざとらしさのない自然なものでした。それから火曜日と木曜日の夜の集会にも出席して,楽しい雰囲気の中で,聖書の高い道徳規準を学んできました。わたしは男と女の地位について,また結婚についてはっきりと理解することができました。家庭生活における夫と妻の正しいあり方,親と子どものとるべき道などについて知ったことはわたしにとって本当に幸いでした。わたしは自分の家庭を初めてまっすぐに見ることができました。わたしには妻と3人の女の子がいますが,子どもを正しく育てることは母親だけの責任ではなく,おもに父親の責任であることを心にきざみました。そして妻に負担をかけすぎていたことをすまなく思いました。わたしは会社の中で1,2番の腕といわれたマージャンを捨て,競馬もやめました。そして1969年6月から王国の良いたよりを公に宣べ伝えるわざにも参加し,喜びを味わうことができました。そして,聖書に書かれている神の喜ばれることと憎まれることについて正しく学んできました。
「わたしは健康と修養のためにやっていた柔道もやめ,1970年6月にバプテスマを受け,エホバ神への献身を公に表わしました。聖書に示されている高い道徳の規準は,わたしたちが安心して従うことができるものです。何年たっても,自分の思うとおりにできず,恥ずかしくなることもありますが,エホバ神の大きな愛とお目的を知り,困難な状況のもとにあっても忠実に歩んでおられる全世界の仲間のクリスチャンたちの行ないを知るとき,大きな励ましを受け,イエス・キリストに従う者としてわきいずる喜びのうちに,家族そろって学び,創造者エホバ神に奉仕できることを心から感謝しています」。