王国のわざの拡大のために心をこめて働く
50年あるいはそれ以上の昔にエホバからの召しの声を聞いて答え応じた人たちの何人かは今でも私たちの中にいて,彼らがなお「若くて丈夫だった」時分の活動について熱心に話してくれます。彼らは物質的には貧しい生活をしましたが,しかし霊的には富んでいました。
キール出身のミナ・ブラントは,王国の音信を宣べ伝えるために相当の距離のところをよく歩き,当日中に帰ることができなくなると,畑に積んである干し草の山の中で夜を過ごしたころのことを話してくれます。後日,彼女はヒッチハイクをして,しばしばトラックに乗せてもらってはシュレスウィヒ・ホルシュタイン州の北辺の大きな町々にまで出かけて行きました。当時,兄弟たちは大きな拡声器を用意して持って行き,午前中は村々で宣べ伝えるわざを行ない,午後は市場や他の適当な場所でその拡声器を用いて公開講演を行なったものです。
エルンスト・ヴィースナー(彼は後に巡回の仕事に携わった)や他の人たちはブレスラウから自転車で90ないし100キロもの距離を旅行しては音信を宣べ伝えました。エリヒ・フロストやリヒャルト・ブリュンメルが奉仕したライプチヒの兄弟たちは,王国の音信に人々の注意を向けさせる試みをする点で非常に独創的でした。彼らは一時,兄弟たちで成る小グループの音楽隊を組織して用いました。その音楽隊は音楽を演奏しながら各地の街路を行進し,一行のあとに従う人たちは,道路沿いの家々で簡単な証言を行ない,次いで,行進する音楽隊のもとに遅れないよう急いで戻りました。
1923年には,「一千人の開拓者を求めます」という緊急な呼びかけが行なわれるとともに,全時間の宣べ伝えるわざが注目の的となりました。これは当時の神の民の間にかなりの興奮を引き起こしました。というのは,当時報告を出していた「働き人」3,642人中ほとんど4人に1人が開拓者になるよう求められることになったからです。その呼びかけは,顧みられぬままには終わりませんでした。
例えば,ウイリー・オングローベは自分が求められていることに気づき,彼は,当人の言葉を借りれば,「単に1,2年ではなく,エホバが私をそうした資格で用いてくださるかぎりいつまでも働く覚悟で」開拓奉仕に入りました。彼はドイツの各地で働き,後日マクデブルクのベテルでも何年間か働きました。次いで,1932年,彼は外国の土地で開拓奉仕を行なうようにとの呼びかけに答え応じました。そして,まず最初,フランスに派遣され,次いでアルジェリア,コルシカ,次は南フランスに送られ,後日またアルジェリアに戻り,さらにスペインに派遣されました。そして,スペインからシンガポール,次いでマレーシア,さらにジャワへ行き,1937年にはタイに赴き,1961年にドイツに帰るまでタイに留まりました。25歳で開拓者への召しの声に答え応じた彼は,今では77歳になろうとしていますが,今もなお,大変熱心に喜んで働き,大変良い成果を収めている開拓者の隊伍に加わっています。―「エホバの証人の1975年の年鑑」より。