費用を計算しましたか
「何ですって。こんないい話を断わる気なの?」上司は自分の耳を疑いました。手腕と立派な行状のゆえに尊敬されている部下の女性が,費用は会社持ちで2年間外国で研修を受けられるという話を辞退したからです。その理由は何だったのでしょうか。
その話を受け入れると,夫や二人の子供と2年間離れて暮らすことになると,この女性は言います。家族と別れ別れになるのはとても寂しいことでしょう。さらに重要な点として,神から与えられた妻また母親としての任務をおろそかにすることになります。感情的また霊的な代償はあまりに高くついてしまいます。こうして,費用を計算した結果,その話を断わることにしたのです。
もしあなたが彼女の立場にいたら,どうしていたと思いますか。すべての人がこのクリスチャン女性の決定にうなずくわけではないことは明らかです。彼女の仲間の従業員が感じたように,昇進する絶好の機会をみすみす無駄にしていると感じる人もいるかもしれません。家族の将来を考えていないと言って非難する人もいるでしょう。結局のところ,2年間などすぐに経過してしまうからです。しかし,彼女は衝動的になって決定したのでもなければ,感情的になって決定したのでもありません。その決定は,健全な推論と将来を見通す原則とに基づいていました。それは一体何でしょうか。
単なる常識ではない
これまで地上を歩んだ人の中で最も賢い人物だったイエス・キリストは,一つのたとえ話の中で指針を示されました。「あなた方のうちのだれが,塔を建てようと思う場合,まず座って費用を計算し,自分がそれを完成するだけのものを持っているかどうかを調べないでしょうか」とイエスはお尋ねになりました。「そうしないなら,その人は土台を据えてもそれを仕上げることができないかもしれず,それを見ている人たちはみな彼をあざけって,『この人は建て始めはしたものの,仕上げることができなかった』と言い始めるかもしれません」。―ルカ 14:28-30。
だれもが認めることですが,何か重要なことをしようとする前に必ず費用を計算するのは道理にかなっています。例えば,家を建てたいと思う場合,費用を調べたり,支払いを完了するだけの経済的な能力があるかどうかを確認したりしないで急いで契約書にサインする人がいるでしょうか。そのようなことをすれば,大変な愚か者と思われるでしょう。確かに,何かに取りかかる前に費用を計算するのは常識をわきまえた行為です。
では,先ほどのイエスのたとえ話の要点は何だったのでしょうか。イエスはそのたとえ話のすぐ前で,「だれでも,自分の苦しみの杭を運びながらわたしのあとに付いて来ない者は,わたしの弟子になることができないのです」と言われました。(ルカ 14:27)ですから文脈によれば,イエスは単に何か日常の普通の仕事に関する常識的な助言を述べておられたのではありませんでした。むしろ,ご自分の弟子になることに関係した費用の計算について語っておられたのです。
イエスはたとえ話を用いて,弟子になるには変化して犠牲を払う必要があるという点を指摘されました。なぜでしょうか。現在の事物の体制は物質主義的で,利己心によって動いているからです。大半の人は主に自分の肉体の欲望を満たすことに関心を払い,自分の霊的な必要や神との関係にはほとんど,あるいは全く注意を払わないからです。(テモテ第二 3:1-4)しかしこうした態度,つまり霊は,イエス・キリストが示されたものとは全く対照的です。イエスは,『人の子は,仕えてもらうためではなく,むしろ仕え,自分の魂を,多くの人と引き換える贖いとして与えるために来た』と言われました。イエスは物質的な事柄ではなく,霊的な事柄を最重要視して,「命を与えるものは霊です。肉は少しも役に立ちません」と言われました。―マタイ 20:28。ヨハネ 6:63。
したがってイエスは,弟子になりたいと思っている人々に費用を計算するよう助言されたとき,物質的な価値観ではなく,霊的な価値観について主に語っておられたのです。彼らは,世から得られる物質的な利益と,弟子になることに伴う益のどちらを重要視するでしょうか。イエスがこのたとえ話とそれに関連したたとえ話を話された後に次のような結論を述べられたのはそのためです。「このように,確かにあなた方は,自分の持ち物すべてに別れを告げないかぎり,だれもわたしの弟子になることができません」。(ルカ 14:33)追随者になることを志願している人は,そのような犠牲を喜んで,また進んで払うでしょうか。それとも,それは大き過ぎて払いきれないほどの犠牲でしょうか。
平衡の取れた見方
物質的な事柄の益のほうが即座に得られ,また目立っているように見えますが,霊的な事柄を追い求めて得られる益のほうがはるかに長続きし,満足をもたらします。イエスはこのように論じられました。「あなた方は自分のために地上に宝を蓄えるのをやめなさい。そこでは蛾やさびが食い尽くし,また盗人が押し入って盗みます。むしろ,自分のために天に宝を蓄えなさい。そこでは蛾もさびも食わず,盗人が押し入って盗むこともありません」。(マタイ 6:19,20)現在,インフレや株価の下落や銀行の倒産などにより,物質的な富だけを頼りにしてきた多くの人は破産を経験しています。しかし使徒パウロはわたしたちに,「見えるものではなく,見えないものに目を留め」るよう勧めています。「見えるものは一時的ですが,見えないものは永遠だからです」。(コリント第二 4:18)では,どうすればそのような見方を培うことができるでしょうか。
わたしたちの手本また模範であるイエス・キリストに見倣うことによってそうすることができます。地上におられたイエスは決して禁欲主義者ではありませんでした。それは,イエスが時々婚宴や祝宴に参加されたことから分かります。しかし明らかに,イエスは霊的な事柄を優先されました。み父のご意志を成し遂げるためであれば,イエスは必要とされるものでさえ控えることをいとわれませんでした。ある時イエスは,「きつねには穴があり,天の鳥にはねぐらがあります。しかし人の子には頭を横たえる所がありません」と述べられました。(ルカ 9:58)イエスはみ父のご意志を行なうことを非常に肝要で楽しい事柄とみなしておられたので,心から誠実にこう言われました。「わたしの食物とは,わたしを遣わした方のご意志を行ない,そのみ業をなし終えることです」― ヨハネ 4:34。
イエスはサタンからの誘惑を退けた方法によって,ご自分の価値観を示されました。悪魔はイエスに,神から与えられた力を自分の益のため,自分の身体的な必要を満たすため,世の中で名声や人気を得るために用いさせようとしました。イエスは,そのような疑わしい益を得れば非常に高い代償を必ず払わされる,つまり神からの是認を失うということを十分に知っておられました。イエスはその代償を払うつもりはありませんでした。み父との良い関係を他のどんなものよりも大切にしておられたからです。イエスが何のためらいもなくサタンの申し出をきっぱりと断わられたのはそのためです。―マタイ 4:1-10。
キリストの追随者として,わたしたちは主人と同様の価値観を持っていたいと確かに願います。サタンの支配のもとにある現在の事物の体制では,すばらしい益が期待できるように思えても,実際には神とわたしたちとの関係を損ないかねない事柄が数多くあります。出世街道を進んだり,高い地位に就くために高等教育を追求したり,不信者と交際したり,疑わしい事業に参加したりすれば,容易に信仰を失い,最後にはエホバからの恵みを失うことになりかねません。そのような誘惑に直面したとき,わたしたちは注意深く費用を計算しなければなりません。
真の知恵は身の守り
数年前,極東の大都市に住んでいたクリスチャンの若い男性に,外国でさらに学ぶ機会が開かれました。この人はすでに十分な世俗の教育を受け,給料のよい仕事に就いていましたが,それで十分だとは思いませんでした。生活状態をもっと良くしたかったのです。先ほど考慮したような聖書の考え方に沿って仲間のクリスチャンが説得にあたりましたが,男性は譲ろうとせず,計画を進めました。最初のうちは信仰を保ち続けようとしましたが,徐々に聖書の真理に対する認識を失い,疑いを抱くようになりました。わずか1年ほどで,男性は完全に信仰を失い,不可知論を唱えるようになりました。確かに,この男性は世俗の高等教育によってもっと高い地位を得て,ある程度の満足を得ました。しかし,一時的な栄光を得るために,信仰の破船ととこしえの命を失う危険を冒すという非常に大きな代償を払うことになりました。―テモテ第一 1:19。
一方,神との関係を台なしにする事柄を一切拒絶する人々は,エホバからの豊かな祝福を刈り取ってきました。
その適切な例として,先ほど述べた同じ都市で室内装飾業を営んでいた若い男性がいます。エホバの証人と聖書研究を始めてわずか数か月後,3万㌦(約390万円)の改修工事という魅力的な仕事を持ちかけられました。しかしその仕事をするには,違法建築物を規制する法律その他の建築法規の目をくぐる必要がありました。この男性はクリスチャンが法を守らなければならないことを学んでいたので,その仕事を引き受ければ神の恵みを失うことになるという点を理解していました。(ローマ 13:1,2)問題を注意深く考慮した後,その仕事を断わりました。どんな結果になったでしょうか。信仰に基づいたこの行動は霊的な進歩の転機となりました。その年のうちに,この男性は献身してバプテスマを受けるまでに進歩しました。事業を売って,霊的な活動に打ち込む時間をもっと多く取れる仕事を始めました。現在,喜びを抱いて熱心にエホバに仕えています。
この二人の若い男性はどちらも費用を計算しました。それらの選択の違いを生み出したものは何だったのでしょうか。敬虔な知恵です。なぜでしょうか。知恵とは,長続きする益を大抵もたらすような方法で知識を用いる能力であり,敬虔な知恵とは,わたしたちに対する神の目的に沿って知識を用いることを意味するからです。二人の若い男性はどちらも聖書の知識をいくらか持っていましたが,その適用によって違いが生まれました。箴言にはこう書かれています。「知恵があなたの心に入り,知識があなたの魂に快いものとなるとき,思考力があなたを守り,識別力があなたを保護するであろう。それは,悪い道から……あなたを救い出すためである」― 箴言 2:10-12,14。
神の言葉 聖書は,重要な決定をしなければならない時に,わたしたちが導きを求めて常に頼ることのできる真の知恵の源です。自分自身の目から見て賢い者となるのではなく,次の助言に従いましょう。「心をつくしてエホバに依り頼め。自分の理解に頼ってはならない。あなたのすべての道において神を認めよ。そうすれば,神ご自身があなたの道筋をまっすぐにしてくださる」。(箴言 3:5,6)わたしたちは謙遜さを示し,進んで教えを受け,今の世の中にはびこっている,強情で独立的な霊を避けなければなりません。
わたしたちは自分がまくものを刈り取らないわけにはゆきませんし,自分の決定や選択の結果の責任を自分で負うのは,まさに公平また公正なことです。(ガラテア 6:7,8)ですから,何かに取りかかる前にいつも費用を計算しましょう。見た目の利益によって霊性やエホバ神との関係を奪われることのないようにしてください。正しい決定ができるよう,知恵と良い判断力を祈り求めましょう。今あなたの下す決定が命か死かを,永遠に左右するかもしれないからです。―申命記 30:19,20と比較してください。
[28ページの図版]
この人は生活の中で霊的な活動と世俗の職業のどちらを第一にするだろうか