再燃する昔ながらの不寛容な精神
モザンビクは,1972年から1975年までの三年間,隣国マラウィの三万人以上のエホバの証人にとって避難所となっていました。激しい迫害のために母国から逃げ出すことを余儀なくされたこれらマラウィの男女子供は,モザンビクの十か所の難民収容所で,ある程度の平和を得ていました。最近の報告によると,少なくともこの記事を書いている時点では,まだ相当数の人々が同地を避難所としています。このすべてに対して,全地のエホバの証人は,モザンビクの人民に感謝しています。
しかし現在,一部の政治的分子がモザンビクの現地のエホバの証人に加えている攻撃の激しさからみると,その避難所は残酷な弾圧による厳しい試練の場と化する恐れがあります。
モザンビクのラジオ放送や新聞の報道は,エホバの証人に対する虚偽の宣伝を大量に流しています。そうした報道は,エホバの証人を「ポルトガル植民地主義が残していったスパイ」,「社会秩序を覆す」ことを目的とした「かつての“パイドたち”(ポルトガル秘密警察)」と描写しています。(1975年10月9日付,ノティシアス紙)1975年10月22日付のトリブーナ紙によると,エホバの証人は,「税金を納めず,社会秩序に対する敬意を示さず,人民の動員と組織化を阻害し,無政府状態を実現するための手段として……狂信的な宗教に固執している」とされています。
これを,異なった情報源から出ている別の記述と比べてみてください。それは,暴徒がある町全体を騒動に巻き込み,一群の人々が市の役人の前に集まって,次のように叫んだ時のことに関するものです。『天下をかき回してきたこの人たちが,ここにもはいり込んでいます。この連中は,みな[法律,新英]にそむいて行動しています』。
この報道は,今から1,900年前に起きた出来事に関するものです。そして,当時その非難を受けたのは,クリスチャン使徒パウロとその仲間シラスでした。(使徒 17:6,7,口)当時語られたその言葉は,偽り,それも全くの虚偽でした。
そのような言葉は,全世界200余りの土地で,法律を守るクリスチャンとしてよく知られるエホバの証人に関して,今日語られる場合でも,やはり全くの虚偽であると言えます。今日,モザンビクでエホバの証人が受けている非難は,一世紀当時の初期クリスチャンの受けた非難と根本的には変わっていません。そして,現在,真のクリスチャンに苦しみをもたらしているのは,同じ不寛容な態度なのです。
モザンビクにおけるそうした不寛容な態度は,何も1975年に政府が交代した時に始まったものではありません。この点は,エホバの証人が何らかの仕方でポルトガル植民地主義のために仕えているとの主張が偽りであることを暴露するものです。その主張が真実とはまるで正反対であることを事実は示しています。
過去40年間,モザンビクのエホバの証人は,独裁的な不寛容によってもたらされる苦しみを味わってきました。彼らは,パイド(ポルトガル秘密警察)の手によって,幾多の残忍な仕打ちに遭いました。ここで,歴史上の事実が明らかにしている事柄をご覧になってください。
歴史の事実は語る
南アフリカの金鉱で働いていた数人のモザンビク人が,聖書の教えを説明した,エホバの証人の出版物を幾冊か受け取ったのは1925年のことでした。その中の幾人かは,同年,郷里のビーラ・ルイーザ(モザンビクの首都ロレンソマルケスの北方)に戻ると,自分の学んだ事柄を隣人に話すようになりました。
ですから,エホバの証人が全世界に携えて行く神の王国の良いたよりを同国に紹介したのは,外人宣教師やポルトガルの手先などではなく,現地のモザンビク人でした。
1935年,ポルトガルの独裁者アントニオ・サラザールの統治中,モザンビクのエホバの証人と協力して活動するために,南アフリカからフレッド・ラディックとデービッド・ノーマンという二人のエホバの証人が同国に入国しました。どんなことが起きましたか。ポルトガル警察は,間もなく二人を逮捕し,追放したのです。1938年および39年になされた同様の試みも同じ結果,すなわち即時追放に終わりました。
ところが,ポルトガル当局はそうした措置に満足せず,「ものみの塔」誌を受け取っていたモザンビク人を逮捕し始めました。逮捕された人の中には,裁判を受けるまでに二年間も勾留された人やサントメの犯罪者植民地に12年間も流刑にされた人もいます。他の人々は,モザンビク北部の労働収容所で10年間働く刑を受けました。
独裁的なサラザール政権下でのこうした厳しい反対は,モザンビクのエホバの証人の勇気や忍耐を試みるものでした。聖書を研究するため集まる時には常に逮捕される恐れがありました。長年にわたって,大勢のエホバの証人が逮捕され,殴打され,投獄され,流刑に処されました。
こうした圧迫からの解放を得ようとする試みは退けられました。1955年,エホバの証人の業が公に認可されるよう申請するため,ジョン・クックという一人のエホバの証人が,英国からモザンビクに遣わされました。結局彼は,秘密警察(PIDE)の警部の前に引き出され,長時間に及ぶ尋問を受けました。彼は,共産主義者であって秘密集会を開いていた,と非難されたのです。話し合いによって,役人はエホバの証人が共産主義者でないことを納得したものの,クックにこう告げました。「しかし,あなたがたはカトリック教会に反対している。そのカトリック教会は我々の教会であり,ポルトガル帝国を築き上げるのを助けてきたのである」。クックは,48時間以内に国外へ退去するよう命じられました。
1975年10月9日付のモザンビクの日刊紙ノティシアスは,フレリモの指導者でもあるモザンビク大統領サモラ・マシェルが(モザンビクのマシンガで)発した次のような質問を引用しています。「我々がポルトガルの植民地主義者によって縛られ,殴打されていた時に,このエホバの証人とやらはどこにいたのか」。どこにいたのでしょうか。多くのエホバの証人から返ってくる答えは,当時自分たちもその同じポルトガル当局の手で投獄されていた,というものです。
その一人はフランシスコ・ズングーザです。彼は,1956年にロレンソマルケスの刑務所に六か月間,1964年に三か月間,1965年に一年間それぞれ投獄され,さらに1969年にはマシャーバの刑務所に二年余り投獄されました。1969年には,彼の妻と他の十人のエホバの証人も一緒に逮捕されました。このすべては,その人たちがエホバの証人であるというだけの理由によるものであり,ポルトガル政府に対する公然の扇動行為によるものではありません。
1969年以降,ポルトガル秘密警察(PIDE)は,エホバの証人に対する取締りを強化しました。エホバの証人は,度々捕えられて尋問を受けました。では,ポルトガル当局および秘密警察がエホバの証人に浴びせた主な非難は何でしたか。それは,エホバの証人がフレリモに対する闘いに加わらない,というものでした。そのフレリモこそ,当時すでに活動しており,現在モザンビク政府を構成している革命政党なのです。
エホバの証人は,諸国家の政治や闘争に対する自分たちの中立の立場を明らかにしてきました。その立場は,イエス・キリストがローマの知事ポンテオ・ピラトに語った次の言葉と全く調和しています。「わたしの王国はこの世のものではありません。わたしの王国がこの世のものであったなら,わたしに付き添う者たちは,わたしをユダヤ人たちに渡さないようにと戦ったことでしょう」― ヨハネ 18:36。
その同じ年,1969年に,南部モザンビクにあるエホバの証人の会衆の長老たちは,警察署に呼び出され,エホバの証人の集会と活動が禁令下に置かれたことを聞かされました。非常な妨害に遭いながらも,彼らはどうにか業を推し進め,エルサレムの権威者が,使徒たちの活動に対する禁令に彼らを従わせようとした際,キリスト・イエスの使徒たちの取った立場と同様の立場を取りました。使徒たちは,ユダヤ人の当局者に従うか,神の命令に従うかを選択しなければなりませんでした。彼らは法律を守る人々でしたが,そのような相反する二つの命令を受けた場合,大胆にこう語りました。「わたしたちは,自分たちの支配者として人間より神に従わねばなりません」― 使徒 5:29。
1969年に問題となったのは,エホバの証人がフレリモと闘わないという点でした。しかし,1973年に秘密警察(PIDE)が相当数のエホバの証人を逮捕した時の罪状は,エホバの証人はフレリモの支持者である,というものでした。そうした罪状のゆえに,三人の子供の父である一人のエホバの証人は,1974年3月5日,マシャーバの刑務所の小さな監房に入れられました。そして,身を横たえる場所といえば床しかないような独房に二か月間閉じ込められていました。この経験は,ポルトガルがモザンビクを支配していた最後の数年間に生じた,数多くの同様の不当な扱いの一例にすぎません。
植民地主義が終わって自由の光は増大しましたか
それとも不寛容な暗やみは続行しましたか
そして1974年4月25日が来ました。ポルトガル,およびその海外の領土における政治情勢は,ほとんど一夜にして劇変しました。リスボンにおけるクーデターは48年に及ぶ独裁政治を終わらせ,ポルトガル帝国を揺るがせました。
ポルトガルおよびその海外の領土において自由が増大する見込みは大いにありました。モザンビクの人々は喜び,エホバの証人も自分たちが40年余りにわたる迫害の長くて暗いトンネルから抜け出せるのではないかと考えました。
モザンビクでは,1975年6月までに全権力をフレリモ側に引き渡す準備段階として,臨時政府が樹立されました。比較的に自由であったこの期間中,エホバの証人は公に聖書研究を行なうことができました。大規模な大会も開催され,一般の人々がそれに招待されました。
1975年の4月には,ロレンソマルケスで初めて,アフリカ人と白人が一緒に大会を開くことができました。ポルトガルの独裁政権の下では,そうした大会を開くのはとても不可能なことでした。エホバの証人たちは,人種の分け隔てなくクリスチャンの交友を持てることに喜びを感じました。
しかし政治勢力は,政治面での支持を形式的に表わすことを今や非常に重要視するようになりました。活動家の諸団体は,政治集会に出席するようすべての人に呼び掛けて歩き回りました。そうした集会で出席者たちは,“ビバ・フレリモ”(“フレリモ万歳”)と叫び,(共産主義者の敬礼と同じように)右腕を振り上げるよう求められるのです。
エホバの証人はどんな立場を取りましたか。彼らは政治に関係しないという立場を保ちました。それは,ムッソリーニ政権下のイタリアで,人々が“ファシスト党首万歳”と叫び,ファシスト式の敬礼をするよう求められた時に,エホバの証人が取ったのと同じ立場です。それは,すべての人が“ヒトラー万歳”と叫び,ナチ式の敬礼をするよう求められた時にドイツのエホバの証人が取ったのと同じ行動でした。それはまた,第二次世界大戦中日本に占領された土地で,人々が日本の天皇を崇拝するためひざまずくよう命令された時に,その地の兄弟たちが取ったのと同じ態度でした。
そうです,その立場は,英国,米国,ポルトガル,スペイン,そして全地の他のすべての国々で,エホバの証人の取ってきた立場と同じです。彼らは,政治的なスローガンを叫んだり,政治的な意味を持つ敬礼をしたりするのを拒むことが自分にどんな苦難を招こうとも,政治問題ではクリスチャンの中立を保ちました。そのために幾千人もの人々は,ドイツの強制収容所や厳しいシベリアの労働収容所で幾年間も過ごしました。
しかしエホバの証人は,世界中の他の国々と同じくモザンビクでも,ローマ 13章1節にある聖書の命令に従い,国の権威に対して十分に敬意を示し続けました。そして,脱税しようとしたりせず,忠実に税金を納め,勤勉で信頼の置ける労働者そして法律を守る市民として生活してゆくことにより,その敬意を表わしました。彼らは,神のみことば聖書に記されている神ご自身の律法に反しない限り,どんな法にも従ってきました。その結果どうなりましたか。
1975年6月25日以来施行されているモザンビク人民共和国憲法第33条はこう述べています。
「モザンビク人民共和国の全市民には,個人的な自由が国家によって保証されている。この自由は,住居の不可侵および通信の秘密を含み,法によって定められる特別な場合を除き,制限されないものとする。
「モザンビク人民共和国では,各自がその宗教を実践する自由および実践しない自由を国家が全市民に保証する」。
同国の憲法第25条はこう述べています。
「モザンビク人民共和国では,何人も法の名によらずして,逮捕され,裁判に付されることはない。国家は,被告が自らを弁護する権利を保証する」。
こうした言葉は本当に意味のあるものでしたか。モザンビクのエホバの証人に生じた事柄からすれば,それはゆゆしい問題となります。
完全な独立宣言がなされるよりも一か月ほど前の日曜日に,ジョアン・ベロの町から数㌔離れたションゲーネという所で,土地のエホバの証人の会衆は,いつものとおり聖書研究を行なうために集まっていました。そこへ,政治集会に行く途中のローマ・カトリックおよびプロテスタントの信者から成る一群の人々が入って来て集会を中断し,出席者たちがなぜ政治集会に出ないのか尋ね,証人たちを脅しながら立ち去りました。
数日後,5月23日に,警察の車がフレリモの兵士を乗せて到着し,証人たちの聖書集会に出席していた人々のうち六人を逮捕しました。指揮官は兵士たちに,その六人を殴ったり,け飛ばしたりしてから刑務所に連行するよう命じました。
これらの人々は,刑務所で毎日殴打され,“フレリモ万歳”と言うよう迫られました。そのうちの三人はまだ新しく関心を示した人々にすぎず,バプテスマを受けたエホバの証人ではありませんでした。その三人は殴打されて妥協してしまいましたが,バプテスマを受けたエホバの証人であった残りの三人は,堅く立って,自分たちのクリスチャン良心を決して曲げようとはしませんでした。すると三人は,外に連れ出され,自分が中に入って立てるほどの深い穴を掘るよう命じられました。首だけ出してその穴の中に立たされた彼らは,それでもなお政治的スローガンを唱えないなら,その場で銃殺されて葬られるであろうと告げられたのです。しかし,三人は自分の良心を曲げないとの決意を堅く守り通し,最後に刑務所に連れ戻されました。
喜ばしいことに,この処置はロレンソマルケスの国防大臣に伝えられ,驚いた大臣はその地区のフレリモの指揮官に電話をかけました。その後間もなく,証人たちは釈放されました。しかしそれは,暗い事態にあって,唯一の明るい出来事でした。
そして,1975年6月25日の独立記念日以降,新憲法は全面的に施行されました。信教の自由に対する前述のような残忍な攻撃は,今や過去のものとなるでしょうか。進歩的で啓発された態度が,狭量で不寛容な態度を制しますか。
暴力的な運動が始まる
その答えはすぐに,ほんの数日のうちに明らかになりました。国中で,エホバの証人を中傷する運動が開始されたのです。その攻撃はおもに,行政区の知事や他の政治家によるラジオ講演の形でなされました。
活動家諸団体の扇動によって,各地のエホバの証人は逮捕され,フレリモの本部に連行されて尋問を受けました。大抵の場合,殴打されましたが,その一例として,1975年9月13日に,ロレンソマルケス行政区のショウパルにあるエホバの証人の会衆に生じた事柄を考慮してみてください。
エホバの証人の訪問中の長老エリアス・マヘンイェは,その会衆の王国会館で300人余りの人々に向かって聖書の講演をしていました。その講演の終わり近くになって,土地の活動家のグループが会館に入って来て,集会を妨害しようとしました。証人たちは,集会がまだ終わっていないので待つよう毅然とした態度で,しかしあくまでも丁重に,その人々に告げました。
会衆が閉会の祈りに「アーメン」と言うや否や活動家たちは演壇に上がり,会衆全体に“フレリモ万歳”と叫ぶよう求めました。その求めは三回なされましたが,反応はありませんでした。すると活動家たちは,会館の中にとどまっているよう会衆に命じ,フレリモの兵士を呼びに行きました。
やって来た兵士たちの指揮官は,責任者のパドレ(司祭)はだれかと尋ねました。エホバの証人にはパドレのいないことが説明されましたが,マヘンイェは講演をしていたのが自分であることを明かしました。その後,兵士たちはマヘンイェと他の四人を演壇に立たせ,上半身を裸にし,“フレリモ万歳”と叫ぶよう命じました。証人たちはそれに応じなかったので,ひどく殴られ,電線で縛り上げられました。マヘンイェの腕には,電線の食い込んだ傷跡がまだ残っています。
五人は近くの兵営に連行され,マヘンイェは「打倒フレリモ」と人々に言わせようとした罪に問われました。それはねつ造された悪質なうそです。それから兵士たちは,握りこぶしやライフル銃の台じりで彼を殴打しました。さらに,その五人全員は,兵士たちのベルトでむち打たれました。その晩彼らは,不潔な便所に監禁され,午前四時ごろ,再び外に連れ出されて殴打されました。マヘンイェは,フレリモと闘うよう兵士を訓練したとの偽りの非難を受け,さらに殴打されました。後ほど,その非難には根拠のないことが認められました。
夜が明けると,フレリモの軍曹がやって来て,五人を尋問し,こう述べました。「お前たちが『フレリモ万歳』と言わないのなら,フレリモはお前たちをこの国から追い出す。フレリモが十年間闘ってきたのは,エホバのためではないし,それにその間エホバから助けを受けたこともなかったからだ。すべての人々は,『フレリモ万歳』と言うべきである。フレリモはモザンビクの神であるからだ。そして,モザンビクの二番目の神は銃である。我々は,エホバのことなど少しも聞きたくない」。
では,王国会館にいた,女や老人そして子供を含む,会衆の残りの成員はどうなりましたか。彼らは,一晩中,そして次の日までそこに閉じ込められていました。殴打され,針金で縛り上げられた人も少なくありません。そうしたことをしながら,兵士たちはこう叫びました。「お前たちのエホバとやらは,一体何者なのか。なぜやって来てお前たちを助けようとしないのか」。
24時間というもの,女や子供でさえだれ一人として,眠ることも,水を飲むことも,食べることも,手洗を使うことも許されませんでした。集会で使われていた聖書や聖書文書は焼かれました。モザンビクは中世ヨーロッパの様相を呈し,あたかも暗黒時代とカトリックの異端審問所の再来を思わせました。証人たちは,「フレリモ万歳」と言うようにならなければもっとひどい目に遭うと脅されてから,やっと解放されました。
そうした残虐行為の別の例として,ロレンソマルケスの北にあるマグーデの13人のエホバの証人を挙げることができます。彼らは逮捕され,殴打され,素手で木を掘り起こさせられました。それから手足を縛られ,ドラムかんか何かのように転がされたのです。古代ローマの時と同様,土地の住民は,クリスチャンが拷問にかけられている光景を見物するよう招かれました。
マンジャカゼの近くでは,エホバの証人の二つの小さな会衆の幾人もの成員が投獄されました。その後,ガザ行政区の知事がその地方にやって来て,逮捕されていなかった証人たちは公開集会に出席するよう求められました。証人たちはこの求めに応じました。知事は,土地の農作業について話をしてから,出席しているエホバの証人全員に前へ出るよう命じました。彼らがそうすると,知事は男女共に証人たちを逮捕するよう命じたのです。彼らはひどく殴打され,中には耳や目から血を流していた人もいたほどです。それから証人たちは刑務所へ連行されました。
その同じガザ行政区では,一群のエホバの証人が忠誠を破らせようとする拷問にかけられ,二か月間,来る日も来る日も殴打されました。
しかしこうした出来事すべては,来ようとしていた大がかりな迫害の前触れにすぎませんでした。数週間もしないうちに,全国のエホバの証人すべてを逮捕せよとの公の布告が発せられたのです。
この布告は,整然と,かつ情け容赦なく遂行されました。フレリモの支持者たちは家々を訪ね,「フレリモ万歳」と言うよう住人に求めたのです。そうしない人たちは,エホバの証人とみなされ,刑務所へ連行されました。子供を含めて,一家全員が容赦なく引きずり出されました。
これは,モザンビクで投獄されているエホバの証人の数が,今や数千人に上っていることを意味します。彼らと直接に連絡を取ることはほとんど不可能になっています。しかし,かろうじて近隣の国々へ逃げ込んだエホバの証人もいます。その報告によると,首都ロレンソマルケス付近の留置所は,今や「満員」になっています。刑務所が満員になったため,セント・ジョセ霊園の近くには,数百人のエホバの証人を入れる特別収容所が建てられました。大勢の人を収容するだけの施設がないので,大半の人々は露天で毛布も掛けずに寝なければなりません。彼らには食物が全く与えられていません。当局者は,木曜日と日曜日だけ,親族の者が食糧を持って来ることを許しています。そのような情け深い訪問者も,「フレリモ万歳」と言わなければ,逮捕される恐れがあります。
当局者はどうやら,エホバの証人の男子を,ナンプラやクエリマネのような北部の町々に送ることを計画しているようです。その地で彼らは,建設計画を遂行するために,事実上奴隷として用いられるのです。子供たちは,政治学校に入れられ,フレリモの思想を吹き込まれます。ラジオ放送によると,銀行預金を持っているエホバの証人は,その預金を没収されます。また政府は,家屋や自動車を差し押さえるでしょう。
そうです,それは昔ながらの全体主義の精神のやるせない繰り返しです。すなわち,個人の良心の自由な行使を全く許さない全体主義的な画一化や思想統制によって国家を偶像視させること,ナチの奴隷労働力政策やシベリアの労働収容所の繰り返し,党の方針を吹き込むために子供を親元から強制的に離すことなどです。
新聞やラジオの至急報は,「モザンビクはエホバの国ではない」とか,「これら狂信的な“エホバのやから”は再教育されねばならない」とか言った報道をしています。ある人々の好む「再教育」の一例は次のようなものです。政党支持者のある者は,エホバの証人に残忍な仕打ちを加えた後,単にこぶしを振り上げて「フレリモ万歳」と叫ぶよう証人たちに求めただけでなく,神をのろわせようとさえしたのです。彼らは証人たちに,こぶしを振り下ろしながら,「打倒エホバ」とも言うよう求めました。
大量検挙の始まる前,エホバの証人のシナバネ会衆の30人余りの成員は,呼び出しを受け,数時間にわたって講義を聞かされました。証人たちが,政治に関与したり,政治的スローガンを叫んだりしない理由を説明すると,フレリモの指揮官は嘲笑して,こう言いました。「お前たちのエホバとやらがこの家を破壊できるよう,五分間の猶予を与えよう」。その五分間が過ぎると,指揮官はこう述べました。「お前たちのエホバに,銃をもって立ち向かってやろうではないか。ポルトガルの兵士たちは勝利を祈り求めたが敗北を喫した。フレリモは,エホバの助けなど借りずに闘って勝利を収めた。我々はエホバを打ち破る。モザンビクの中で,その名は聞きたくもない」。
それは,高慢にも次のように述べた,古代エジプトのファラオと何とよく似ているのでしょう。「エホバがだれであるというので,わたしがその声に従ってイスラエルを去らせるべきなのか。わたしはエホバなど知らない。そして,イスラエルを去らせはしない」― 出エジプト 5:2,新。
それでは,モザンビクで本当に論争点となっているのは何ですか。
緊急に答えを要する問題
新たに独立した共和国の憲法の条項を,そのように否認することによって,国家に何らかの益がもたらされますか。信教の自由に対するそうした悪意のある攻撃によって,モザンビクの人民は何らかの益を受けるでしょうか。エホバの証人が政治活動に携わるのを拒否することは,国を効果的に治めようとする新政府の努力を実際に妨げていますか。事実は,その正反対であることを示しています。
モザンビクの新政府は,数多くの優れた理想を奨励すると宣言しています。その中には,人民のためのより高度な教育(ポルトガル植民地主義の下で,人口の九割は文盲であった),売春と泥酔の追放,抑圧からの解放を人民にもたらすことなどが含まれています。実際のところ,エホバの証人はそうした理想の実現に大いに寄与しているのです。
自問してみてください。広範にわたる文盲を克服しなければならない国で,本当の進歩をもたらすのは,あるスローガンを叫んだり,敬礼をしたりすることでしょうか。それは現実的ですか。また,そう主張するのは実際的ですか。
他方,エホバの証人の模範や活動については何と言えますか。その崇拝の方式全体は,読書能力の修得や教育に対して積極的な態度を抱かせるものです。エホバの証人は,その聖書教育活動の一環として,数多くの国々で読み書き教室を開いてきました。
エホバの証人は,過去28年間に,読み書きを学ぶよう,メキシコだけでも4万8,000人の人々を援助しました。ナイジェリアでは,過去四年間に5,000人以上の人がそうした援助を受けました。そしてモザンビクでも,これまでわずか二年間に,エホバの証人は3,930人に読み書きを教えたのです。ですからこの点に関して,エホバの証人以上に教育に関心を持つ民はいないと言えます。
人々の道徳水準を高めることについて言えば,あるスローガンやしぐさを繰り返すことが人々の道徳水準を高めるでしょうか。ナチ・ドイツやファシストのイタリアあるいは世界のどの地方であれ,そうした繰り返しが人間の道徳水準を高めたためしが人類史上一度でもありますか。事実はそうしたことが一度もなかったことを示していますし,道理からしてもそうしたことはあり得ないと言えるでしょう。
しかしエホバの証人は,聖書の原則を固守するゆえに,90年以上の期間にわたって,高い生活規準,道徳的な品行,清い生活などの点で世界的に良い評判を得てきました。エホバの証人は,性の不道徳,アルコール中毒,麻薬中毒,そのほか人を堕落させる同様の習慣を克服するよう,あらゆる土地で幾十万もの人々を助けてきました。
ナイジェリアのザ・デイリー・タイムズ紙は,エホバの証人の大会の一つについて論評し,こう述べています。「五千人以上の男女子供が四日間にわたって,祈り,歌い,寝食を共にするために集まって来ながら,盗みやけんかが一件もなかったことは賞賛に値する。しかも,秩序を保つための警官は一人もいなかった」。確かに,そうした人々はどんな国民にも益をもたらします。彼らは,犯罪や腐敗と闘うための重い負担を政府に負わせるような者ではありません。
植民地主義は,モザンビクの新政府に幾億㌦にも上る対外負債を残しました。あるスローガンやしぐさが,そのような経済問題を克服する上で相違をもたらしますか。それとも,より高い生活水準をもたらすのに役立つのは,勤勉で信頼の置ける正直な人々の労働ですか。
ある種のスローガンやしぐさによって,人々が必ず税金を納めるようになりますか。一番大声で叫ぶ人が,最も正直な納税者になると言えますか。世界各地で起きている脱税事件の示すところによると,外面的な愛国心の表われは,人が脱税をしていないことを示す信頼のおける指標とはなりません。しかしこの点でもエホバの証人は,納税の要求に良心的に従い,商取引きの面で正直で信頼の置けることを示すゆえに,あらゆる国で尊敬されています。
1975年10月22日付のトリブーナ紙や1975年10月26日付のテンポ紙などに掲載されたような虚偽の新聞宣伝の中で,執筆者たちは,「反啓もう主義」のかどでエホバの証人を非難しようとしました。反啓もう主義とは,辞書の中で,「知識の流布や進歩に反対すること。特に,非常に繁雑な言葉遣いや儀式によるもの」と定義されます。しかし,事実は何を明らかにしていますか。
アフリカ中の人々は,あらゆる種類の迷信から解放されるようすべての部族に属するアフリカ人を助けたのは,他のどんな宗教団体よりも,むしろエホバの証人であることを知っています。そうした迷信の中には,魔術,人をとりこにする儀式,伝統的な恐れ,部族のタブーなどが含まれます。証人たちは,人々が生活や生活上の問題に対して進歩的で実際的な取り組み方をするよう助け,一致した家族や責任感のある労働者そして思いやりのある平和な隣人を生み出すのに貢献してきました。確かに,それこそ,モザンビクだけでなく全世界の人々が,今日大いに必要としている種類の進歩や啓発なのです。
それとは対照的に,物事をゆがめ,エホバの証人をその本来の姿とは異なったものであるかのように思わせ,少数者に対する憎悪をかき立てる宣伝によって論争点をうやむやにしようとする人々については何が言えますか。そうした人々こそ,「反啓もう主義者」の名にふさわしい者たちです。基本的な自由を残忍な仕方で弾圧するという挙に出る人々は,不寛容や残虐行為の歴史そのものと同じほど古い手口を用います。
人間の自由を犠牲にしてでも国家の偶像化を推し進めようとする人々は,アッシリアおよびバビロニア帝国の時代まで幾千年もさかのぼる,古くからある行動様式に従っているのです。確かにそうした道は,真の進歩や知識の流布へと前進するものではなく,後退するものです。真理は確固としたものであるゆえ,そのような策略に訴える必要がありません。
あなたは,国民すべてに対して全体的な思想統制を行なう権利が政治国家に与えられるべきだと考えておられますか。それとも,良心の命ずるところに従って崇拝を行なう権利が人民に与えられるべきだと考えておられますか。
ある政治思想に順応するよう強いる全体主義的運動を非とされるなら,また,その良心的な信念を固守するゆえに苦難に遭っている人々に対する同情の念に動かされるなら,モザンビク人民共和国のフレリモ政府の高官一人かそれ以上に,訴えの電報を打つか,そうした手紙を書き送るかしたいと思われるでしょう。それらの高官の名前は,この記事と共に載せられています。
[24ページの囲み記事]
手紙を書くべき高官の氏名
Presidente de República Popular de Moçambique
Samora Moisés Machel
Lourenço Marques, Moçambique
Comissário Político Nacional
Armando Emilio Guebuza
Lourenço Marques, Moçambique
Vice-Presidente da República Popular de Moçambique
Marcelino dos Santos
Lourenço Marques, Moçambique
Primeiro Ministro da República Popular de Moçambique
Joaquim Chissano
Lourenço Marques, Moçambique
Ministro do Interior
P.O. Box 614 (Caixa Postal 614)
Lourenço Marques, Moçambique
Ministério dos Negócios Estrangeiros
Ac. Antonio Enes
No. 4
Lourenço Marques, Moçambique
Ministro da Defesa
Alberto Chipande
Lourenço Marques, Moçambique
Ministro da Informação
Jorge Rebelo
Lourenço Marques, Moçambique
Ministro do Trabalho
Mariano Matsinha
Lourenço Marques, Moçambique
Ministro da Agricultura
Joaquim de Carvalho
Lourenço Marques, Moçambique
Ministro das Obras Públicas e Habitacão
Julio Carrilho
Lourenço Marques, Moçambique
Vice-Director do Cabinete da Presidência
Luis Bernardo Honwana
Lourenço Marques, Moçambique
Members of the "Comite Central da Frelimo" (Central Committee of Frelimo)
Lourenço Marques, Moçambique
Mariano Matsinha
Deolinda Guesimane
Jonas Namashlua
Olimpio Vaz
Armando Panguene
Members of the "Comite Executivo da Frelimo" (Executive Committee of Frelimo)
Lourenço Marques, Moçambique
José Oscar Monteiro
Daniel Mbanze
Gideon Ndobe