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エホバに近づきなさい
近 第3章 26–35ページ
山々や木々に囲まれて,美しい川が流れている。

第3章

「聖せいなる方かた,聖せいなる方かた,聖せいなる方かた……エホバ」

1-2. 預よ言げん者しゃイザヤは神かみからのどんな幻まぼろしを見みましたか。その幻まぼろしからエホバがどんな方かただと分わかりますか。

イザヤは神かみからの幻まぼろしを見みて,畏い敬けいの気き持もちでいっぱいになりました。その幻まぼろしの光こう景けいがあまりにリアルだったので,後のちにイザヤは,高たかい所ところにある王おう座ざに座すわっている「エホバを見みた」と書かいています。エホバの長ながい衣ころもの裾すそが,エルサレムの大おおきな神しん殿でんいっぱいに広ひろがっていました。(イザヤ 6:1,2)

2 聞きこえてきた歌うた声ごえも,イザヤに大おおきなインパクトを与あたえました。神しん殿でんが土ど台だいから揺ゆり動うごかされるほど力ちから強づよい歌うた声ごえで,高こう位いの天てん使しであるセラフたちが歌うたっていました。鳴なり響ひびいていたのは,シンプルながらも厳おごそかな次つぎの言こと葉ばです。「聖せいなる方かた,聖せいなる方かた,聖せいなる方かた,大たい軍ぐんを率ひきいるエホバ。全ぜん世せ界かいにその方かたの栄えい光こうが満みちている」。(イザヤ 6:3,4)「聖せいなる方かた」という表ひょう現げんが際きわ立だつように3回かいも使つかわれているのは適てき切せつと言いえます。エホバは誰だれよりも聖せいなる方かただからです。(啓けい示じ 4:8)エホバの神しん聖せいさは聖せい書しょの中なかで繰くり返かえし強きょう調ちょうされていて,「エホバ」という名な前まえと「聖せいなる」や「神しん聖せい」という言こと葉ばが一いっ緒しょに出でてくる聖せい句くがたくさんあります。

3. 多おおくの人ひとが聖せいなる神かみから遠とおざかってしまうのはどうしてですか。

3 神しん聖せいさはエホバの大だい事じな一いち面めんであり,エホバがそのことを私わたしたちに理り解かいしてほしいと思おもっていることがよく分わかります。しかし多おおくの人ひとは,神しん聖せいさという言こと葉ばにあまり良よいイメージを持もっていません。聖せい人じんぶった偉えらそうな聖せい職しょく者しゃを連れん想そうする人ひともいます。自じ分ぶんに自じ信しんが持もてず,聖せいなる神かみにはとても近ちかづけないと感かんじる人ひともいます。こうした理り由ゆうで聖せいなる神かみから遠とおざかる人ひとが大おお勢ぜいいますが,それは残ざん念ねんなことです。神かみの神しん聖せいさについて思おもい巡めぐらすと,本ほん来らいは神かみに近ちかづきたいと思おもうはずだからです。どうしてそう言いえるのでしょうか。そのことを考かんがえる前まえに,まず神しん聖せいさとは何なにかを調しらべましょう。

神しん聖せいさとは何なにか

4-5. (ア)「聖せいなる」とはどういう意い味みですか。どういうことではありませんか。(イ)エホバはどんな2つの意い味みで「分わけられた」方かたですか。

4 聖せいなる神かみは,独どく善ぜん的てきでも傲ごう慢まんでもなく,人ひとを見み下くだしたりはしません。それどころか,そういう思おもいやりのない態たい度どを憎にくんでいます。(格かく言げん 16:5。ヤコブ 4:6)では,「聖せいなる」とはどういう意い味みなのでしょうか。聖せい書しょのヘブライ語ごでその言こと葉ばは,「分わけられた」という意い味みの語ごから来きています。ですから,崇すう拝はいに関かん連れんして使つかわれる「聖せいなる」という言こと葉ばは,神かみのために取とり分わけられたものを指さします。さらに神しん聖せいさは,汚けがれのない清きよい状じょう態たいを表あらわします。では,「聖せいなる」方かたであるエホバは,不ふ完かん全ぜんな人にん間げんから「分わけられた」,遠とおくて近ちか寄より難がたい存そん在ざいだということでしょうか。

5 決けっしてそうではありません。エホバは「イスラエルの聖せいなる方かた」として,罪つみ深ぶかい民たみの「ただ中なかにいる」と言いいました。(イザヤ 12:6。ホセア 11:9)ですから,聖せいなる方かただから遠とおい存そん在ざいだということはありません。では,どういう意い味みで「分わけられた」方かたなのでしょうか。2つの点てんでそう言いえます。1つ目めに,エホバは至し高こう者しゃなので,全すべての創そう造ぞう物ぶつから分わけられています。最さい高こうに清きよく,並ならぶものがない方かたです。(詩し編へん 40:5; 83:18)2つ目めに,エホバはあらゆる罪つみから完かん全ぜんに分わけられています。そのことを考かんがえると安あん心しんできます。どうしてでしょうか。

6. エホバが罪つみから完かん全ぜんに分わけられていることを考かんがえると,安あん心しんできるのはどうしてですか。

6 今いまの世よの中なかには,本ほん当とうの意い味みで神しん聖せいなものはほとんどありません。大たい半はんの人ひとが神かみから遠とおく離はなれているので,人にん間げん社しゃ会かいは罪つみと不ふ完かん全ぜんさによっていわば汚お染せんされています。私わたしたちは皆みな,自じ分ぶんの内うちにある罪つみと闘たたかわなければならず,注ちゅう意いしていないと悪わるい傾けい向こうに負まけてしまいかねません。(ローマ 7:15-25。コリント第だい一いち 10:12)でも,エホバはそのようなことはありません。全まったく罪つみのない方かたで,ほんのわずかでも悪あくを行おこなうことは決けっしてありません。完かん全ぜんに信しん頼らいできるので,まさに理り想そうのお父とうさんです。罪つみ深ぶかい人にん間げんの父ちち親おやとは違ちがって,堕だ落らくしたり家か族ぞくを虐ぎゃく待たいしたりはしません。聖せいなる方かたなので,そのようなことは絶ぜっ対たいにしないのです。エホバの神しん聖せいさは100%信しん用ようできるため,エホバは自じ分ぶんの神しん聖せいさに懸かけて誓ちかったことさえあります。(アモス 4:2)そのことを考かんがえると,安あん心しんできるのではないでしょうか。

7. 神しん聖せいさはエホバの本ほん質しつだと言いえるのはどうしてですか。

7 神しん聖せいさは,エホバの本ほん質しつだと言いえます。どういうことでしょうか。例たとえば,「人にん間げん」と「不ふ完かん全ぜん」という言こと葉ばについて考かんがえてください。その2つの言こと葉ばは切きっても切きれない関かん係けいにあります。人にん間げんのやることなすこと全すべてに不ふ完かん全ぜんさが付つきまとうからです。同おなじように,「エホバ」と「神しん聖せい」という言こと葉ばも,切きっても切きれない関かん係けいにあります。エホバは神しん聖せいさを体たい現げんしていて,全すべての面めんで清きよく正ただしい方かただからです。この「神しん聖せい」という奥おく深ぶかい言こと葉ばの意い味みを理り解かいしない限かぎり,エホバがどんな方かたかを十じゅう分ぶんに知しることはできません。

「神しん聖せいさはエホバのもの」

8-9. 不ふ完かん全ぜんな人にん間げんでもエホバに助たすけてもらえばある程てい度ど聖せいなる人ひとになれると,どうして分わかりますか。

8 エホバは神しん聖せいさを体たい現げんしている神かみなので,全すべての神しん聖せいさの源みなもとだと言いえます。自じ分ぶんだけが神しん聖せいであればいいと考かんがえるのではなく,他たのものに惜おしみなく神しん聖せいさを付ふ与よします。エホバが燃もえるいばらの木きの所ところで天てん使しを通とおしてモーセに話はなした時とき,辺あたりの地じ面めんまでもが聖せいなる場ば所しょになりました。(出しゅつエジプト記き 3:5)

9 不ふ完かん全ぜんな人にん間げんでも聖せいなる人ひとになれるのでしょうか。エホバに助たすけてもらえば,ある程てい度どなれます。エホバは自じ分ぶんの民たみであるイスラエル人じんが「聖せいなる国こく民みん」になれると言いいました。(出しゅつエジプト記き 19:6)そして,イスラエル人じんを祝しゅく福ふくし,神しん聖せいで清きよい崇すう拝はいを行おこなえるようにしました。神しん聖せいさはモーセの律りっ法ぽうの中なかで繰くり返かえし強きょう調ちょうされています。大だい祭さい司しのターバンの前ぜん面めんに付つけられた金きんの板いたには,「神しん聖せいさはエホバのもの」という言こと葉ばが彫ほられていて,輝かがやくその板いたを皆みなが見みることができました。(出しゅつエジプト記き 28:36)ですから,イスラエル人じんは周しゅう囲いの国こく民みんとは違ちがい,エホバの高たかい基き準じゅんに沿そって清きよい崇すう拝はいや清きよい生いき方かたをすることになっていました。エホバは彼かれらにこう言いいました。「あなたたちは聖せいなる人ひとであるべきである。あなたたちの神かみである私わたしエホバは聖せいなる者ものだからである」。(レビ記き 19:2)イスラエル人じんは最さい善ぜんを尽つくして神かみに従したがうなら,不ふ完かん全ぜんではあっても神かみから見みて聖せいなる人ひとになることができたのです。

10. イスラエル人じんと周しゅう囲いの国こく民みんの間あいだには,どんな大おおきな違ちがいがありましたか。

10 イスラエルの周しゅう囲いの国くに々ぐにで行おこなわれていた崇すう拝はいは,イスラエル人じんが行おこなっていた非ひ常じょうに神しん聖せいな崇すう拝はいとは懸かけ離はなれていました。異い教きょうの国くに々ぐにで崇すう拝はいされていた神かみ々がみは,そもそも偽にせ物もので実じっ際さいには存そん在ざいしていませんでしたが,暴ぼう力りょく的てきで貪どん欲よくで不ふ道どう徳とくな神かみ々がみだと考かんがえられていました。全まったく聖せいなる神かみではありません。そのような神かみ々がみを崇すう拝はいしていた人ひとたちも,神しん聖せいとは程ほど遠とおい状じょう態たいでした。それでエホバは自じ分ぶんの民たみに,異い教きょうの人ひと々びとや彼かれらの汚けがれた宗しゅう教きょうから離はなれているようにと警けい告こくしました。(レビ記き 18:24-28。列れつ王おう第だい一いち 11:1,2)

11. (ア)天てん使したち,(イ)セラフ,(ウ)イエスから,エホバの組そ織しきの天てんにある部ぶ分ぶんの神しん聖せいさがどのように分わかりますか。

11 このように,エホバに選えらばれた古こ代だいイスラエル人じんは聖せいなる国こく民みんでしたが,神かみの組そ織しきの天てんにある部ぶ分ぶんの神しん聖せいさはそれよりもはるかに勝まさっています。神かみに忠ちゅう実じつに仕つかえている大おお勢ぜいの天てん使したちは,「無む数すうの聖せいなる者もの」と呼よばれています。(申しん命めい記き 33:2。ユダ 14)聖せいなる神かみの輝かがやかしい神しん聖せいさに完かん璧ぺきに倣ならっているからです。イザヤが見みた幻まぼろしに出でてきたセラフのことも思おもい出だしてください。セラフの歌うたの内ない容ようからして,その力ちから強づよい天てん使したちはエホバの神しん聖せいさを宇う宙ちゅう全ぜん体たいに知しらせるという重じゅう要ような役やく割わりを果はたしているようです。そして全すべての天てん使しの上うえに,神かみの独ひとり子ごイエスがいます。イエスは神かみの神しん聖せいさに倣ならう点てんで際きわ立だっているので,「神かみの聖せいなる方かた」と呼よばれています。(ヨハネ 6:68,69)

聖せいなる名な前まえ,聖せいなる力ちから

12-13. (ア)神かみの名な前まえが「聖せいなる名な」と言いわれているのは,どうして適てき切せつなことですか。(イ)神かみの名な前まえが神しん聖せいなものとされる必ひつ要ようがあるのはどうしてですか。

12 神かみの名な前まえは神しん聖せいさとどう関かん係けいがあるのでしょうか。第だい1章しょうで考かんがえたように,その名な前まえは単たんなる称しょう号ごうなどではありません。さまざまな素す晴ばらしい面めんを持もつエホバ神かみを表あらわす名な前まえなので,聖せい書しょの中なかで「聖せいなる名な」と言いわれています。(イザヤ 57:15)モーセの律りっ法ぽうでは,神かみの名なを冒ぼう瀆とくする人ひとは死し刑けいにされることになっていました。(レビ記き 24:16)神かみへの祈いのりに含ふくめるべき重じゅう要ようなこととしてイエスが最さい初しょに述のべた言こと葉ばにも注ちゅう目もくしましょう。「天てんにおられる私わたしたちの父ちちよ,お名な前まえが神しん聖せいなものとされますように」。(マタイ 6:9)神しん聖せいなものとするとは,聖せいなるものとして取とり分わけて大たい切せつにするということです。では,神かみの名な前まえはもともと聖せいなるものなのに,どうして神しん聖せいなものとする必ひつ要ようがあるのでしょうか。

13 神かみの聖せいなる名なは,うそや中ちゅう傷しょうによって汚けがされてきました。エデンでサタンはエホバについてうそをつき,公こう正せいな主しゅ権けん者しゃではないとほのめかしました。(創そう世せい記き 3:1-5)それ以い来らいサタンは,この汚けがれた世せ界かいの支し配はい者しゃとして,神かみについてのうそが広ひろまるように仕し向むけてきました。(ヨハネ 8:44; 12:31。啓けい示じ 12:9)例たとえばいろいろな宗しゅう教きょうが,神かみは気きまぐれで,人にん間げんのことを気きに掛かけておらず,残ざん酷こくだと教おしえてきました。また,血ちなまぐさい戦せん争そうを神かみが後あと押おししていると主しゅ張ちょうしています。さらに科か学がく者しゃたちは,地ち球きゅうの動どう植しょく物ぶつは神かみが創そう造ぞうしたのではなく,進しん化かによって偶ぐう然ぜんに生しょうじたと説せつ明めいしています。このように,神かみの評ひょう判ばんはひどく傷きずつけられてきたので,名めい誉よが回かい復ふくされる必ひつ要ようがあります。そういう意い味みで神かみの名な前まえが神しん聖せいなものとされる時ときを,私わたしたちは待まち望のぞんでいます。神かみは自じ分ぶんの名なに浴あびせられてきたあらゆる非ひ難なんが間ま違ちがっていることを,イエスが治おさめる王おう国こくによって明あきらかにします。その王おう国こくについての良よい知しらせを広ひろめる仕し事ごとが私わたしたちに与あたえられているのは,本ほん当とうにうれしいことです。

14. 神かみの力ちからが聖せいなる力ちからと呼よばれているのは,なぜ適てき切せつなことだと言いえますか。聖せいなる力ちからを冒ぼう瀆とくすることは,どれほど重じゅう大だいなことですか。

14 名な前まえ以い外がいに,エホバのもので「聖せいなる」と呼よばれているものがもう1つあります。それは,エホバが送おくり出だす聖せいなる力ちからです。(創そう世せい記き 1:2)エホバはその圧あっ倒とう的てきな力ちからを使つかって自じ分ぶんの望のぞむことを行おこないます。神かみが行おこなうあらゆることは神しん聖せいで清きよいので,そのために使つかう力ちからが聖せいなる力ちからと呼よばれているのは適てき切せつなことです。(ルカ 11:13。ローマ 1:4)エホバの意い志しに故こ意いに逆さからって聖せいなる力ちからを冒ぼう瀆とくすることは,許ゆるされない罪つみです。(マルコ 3:29)

エホバの神しん聖せいさについて考かんがえるとエホバに引ひき付つけられる

15. 神かみを畏おそれるとはどういうことですか。神しん聖せいな神かみを畏おそれるのが正ただしいのはどうしてですか。

15 聖せい書しょの中なかで人にん間げんに対たいし,神しん聖せいな神かみを畏おそれるようにと言いわれているのも,もっともなことです。例たとえばイザヤ 8章しょう13節せつにはこう書かかれています。「大たい軍ぐんを率ひきいるエホバだけを神しん聖せいなものとし,この神かみだけを畏おそれ……るべきである」。神かみを畏おそれるとは,心こころから敬うやまうということです。そのように敬うやまうのは正ただしいことです。神かみは私わたしたちよりはるかに聖せいなる方かた,栄えい光こうに輝かがやく方かただからです。でも,神かみの神しん聖せいさは,私わたしたちを寄よせ付つけないようなものではありません。神かみの神しん聖せいさについて正ただしく理り解かいすると,神かみに引ひき付つけられます。そう言いえるのはどうしてでしょうか。

16. (ア)神しん聖せいさが美うつくしさと結むすび付つけられているどんな例れいがありますか。(イ)聖せい書しょによると,聖せいなる神かみはどれほど美うつくしい方かたですか。

16 聖せい書しょの中なかで,神しん聖せいさは美うつくしさと結むすび付つけられています。一いち例れいとしてイザヤ 63章しょう15節せつによると,神かみの「高こう大だいな住すまい」である天てんは「神しん聖せいさと栄えい光こう[または,「美うつくしさ」,脚きゃく注ちゅう]に満みち」ています。美うつくしいものは私わたしたちを引ひき付つけます。例たとえば,33ページの写しゃ真しんを見みてください。心こころを引ひかれる光こう景けいではないでしょうか。空そらが青あおく,日ひの光ひかりが明あかるく辺あたりを照てらし,きれいな水みずが流ながれていて,空くう気きも澄すみ切きっているようです。では,もし川かわがごみでいっぱいで,木きや岩いわが落らく書がきだらけで,空くう気きがスモッグで汚よごれていたら,どうでしょうか。目めを背そむけたくなるに違ちがいありません。私わたしたちが美うつくしいと感かんじるのは,きれいで,清きよく,光ひかりにあふれているものです。エホバの神しん聖せいさにも同おなじことが当あてはまるので,私わたしたちはエホバについて聖せい書しょに書かかれていることに魅み了りょうされます。聖せいなる神かみは,明あかるく輝かがやき,火ひのように光ひかりを放はなち,金きんや宝ほう石せきのようにきらめく,極きわめて美うつくしい方かたなのです。(エゼキエル 1:25-28。啓けい示じ 4:2,3)

美うつくしいものと同おなじように神しん聖せいさも人ひとを引ひき付つける

17-18. (ア)イザヤはセラフたちの歌うたを聞きいた時とき,どのように感かんじましたか。(イ)エホバはセラフによってどのようにイザヤを元げん気きづけましたか。セラフの行こう動どうにはどんな意い味みがありましたか。

17 では,神かみの神しん聖せいさに圧あっ倒とうされるように感かんじる場ば合あい,どう考かんがえたらいいでしょうか。もちろん,神かみと比くらべると自じ分ぶんはちっぽけな存そん在ざいだと感かんじるのも無む理りはないことですが,だからといって神かみにはとても近ちかづけないと思おもう必ひつ要ようはありません。イザヤの例れいを考かんがえてみましょう。イザヤはセラフたちがエホバの神しん聖せいさについて歌うたうのを聞きいた時とき,こう言いいました。「災わざわいだ! 私わたしは死しんだも同どう然ぜんだから。私わたしは唇くちびるが汚けがれている者もので,唇くちびるが汚けがれている民たみの中なかに住すんでいるのに,大たい軍ぐんを率ひきいる王おうエホバを見みてしまった!」(イザヤ 6:5)エホバの圧あっ倒とう的てきな神しん聖せいさを目めの前まえにしたイザヤは,自じ分ぶんの罪つみ深ぶかさや不ふ完かん全ぜんさを痛つう感かんし,打うちのめされてしまいました。でもエホバはそんなイザヤを放ほうっておきませんでした。

18 エホバはイザヤを元げん気きづけるために,すぐに1人ひとりのセラフを送おくりました。セラフは,祭さい壇だんから取とってきた熱あつい炭すみをイザヤの唇くちびるに触ふれさせました。痛いたそうに思おもえますが,どうしてこれが元げん気きづけることになるのでしょうか。これは幻まぼろしの中なかの出で来き事ごとで,セラフの行こう動どうには象しょう徴ちょう的てきな意い味みがありました。忠ちゅう実じつなユダヤ人じんだったイザヤは,贖しょく罪ざいのために神しん殿でんの祭さい壇だんで毎まい日にち犠ぎ牲せいが捧ささげられていることをよく知しっていました。セラフはイザヤに,不ふ完かん全ぜんで「唇くちびるが汚けがれている」罪つみ深ぶかい人にん間げんでも,罪つみが贖あがなわれてエホバから聖せいなる人ひとと見みてもらえる,ということを優やさしく思おもい起おこさせていたのです。a (イザヤ 6:6,7)

19. エホバが不ふ完かん全ぜんな私わたしたちを聖せいなる人ひとと見みなしてくれるのはどうしてですか。

19 現げん代だいでも,エホバは不ふ完かん全ぜんな人にん間げんを聖せいなる人ひとと見みなしてくれます。エルサレムにある祭さい壇だんで捧ささげられていた犠ぎ牲せいよりもはるかに優すぐれた犠ぎ牲せいが,西せい暦れき33年ねんに捧ささげられました。イエス・キリストが自じ分ぶんの命いのちを完かん全ぜんな犠ぎ牲せいとして捧ささげたのです。(ヘブライ 9:11-14)それで私わたしたちは,罪つみを本ほん当とうに悔くい改あらため,間ま違ちがった生いき方かたを正ただし,イエスの犠ぎ牲せいに信しん仰こうを抱いだくなら,許ゆるしていただけます。(ヨハネ第だい一いち 2:2)だからこそ使し徒とペテロは,エホバの次つぎの言こと葉ばを私わたしたちに思おもい起おこさせています。「あなたたちは聖せいなる人ひとでなければならない。私わたしは聖せいなる者ものだからである」。(ペテロ第だい一いち 1:16)このように述のべたエホバは,私わたしたちに自じ分ぶんと同おなじレベルの神しん聖せいさを求もとめているわけではありません。無む理りなことを要よう求きゅうしたりはしません。(詩し編へん 103:13,14)エホバが言いっているのは,聖せいなる者ものである自じ分ぶんに倣ならってほしい,ということです。私わたしたちは「子こ供どもとして神かみに愛あいされているので」,不ふ完かん全ぜんなりにできる限かぎり神かみに倣ならいたいと思おもいます。(エフェソス 5:1)ですから,聖せいなる人ひとになれるように努ど力りょくを続つづける必ひつ要ようがあります。クリスチャンとして成せい長ちょうし,「神しん聖せいさを完かん成せいさせていきましょう」。(コリント第だい二に 7:1)

20. (ア)聖せいなる神かみから見みて清きよい人ひとになれることを理り解かいするのは,なぜ重じゅう要ようですか。(イ)イザヤは,自じ分ぶんの罪つみが贖あがなわれたことを理り解かいした時とき,見み方かたがどう変かわりましたか。

20 エホバは清きよく正ただしいことを愛あいし,罪つみを憎にくむ方かたです。(ハバクク 1:13)しかし,私わたしたちを憎にくむことは決けっしてしません。私わたしたちがエホバと同おなじように悪あくを憎にくんで善ぜんを愛あいし,キリスト・イエスの完かん全ぜんな手て本ほんに倣ならうよう努ど力りょくするなら,エホバは私わたしたちの罪つみを許ゆるしてくれます。(アモス 5:15。ペテロ第だい一いち 2:21)聖せいなる神かみから見みて清きよい人ひとになれるということが分わかると,私わたしたちの見み方かたや考かんがえ方かたに大おおきな影えい響きょうがあります。すでに考かんがえたように,イザヤは当とう初しょエホバの神しん聖せいさに圧あっ倒とうされて,自じ分ぶんが清きよくないことを痛つう感かんし,「災わざわいだ!」と叫さけびました。でも,自じ分ぶんの罪つみが贖あがなわれたことを理り解かいすると,前まえ向むきな見み方かたになりました。エホバがある仕し事ごとのために誰だれかを遣つかわしたいと思おもった時とき,イザヤはそれがどんな仕し事ごとかも分わからなかったのに,すぐに「ここに私わたしがおります! 私わたしを遣つかわしてください!」と言いいました。(イザヤ 6:5-8)

21. 私わたしたちも聖せいなる人ひとになれる,と確かく信しんできるのはどうしてですか。

21 私わたしたちは聖せいなる神かみに似にた者ものとして造つくられたので,神かみのいろいろな良よいところに倣ならうことができ,神かみとの友ゆう情じょうを育はぐくめます。(創そう世せい記き 1:26)誰だれでも聖せいなる人ひとになれるのです。そのために努ど力りょくし続つづけるなら,エホバは喜よろこんで助たすけてくれます。結けっ果かとして,聖せいなる神かみとの絆きずなを強つよめることができます。さらに,この本ほんの続つづきを学まなんでエホバの幾いくつもの魅み力りょく的てきな面めんについてじっくり考かんがえると,一いっ層そうエホバに近ちかづきたいという気き持もちになることでしょう。

a 唇くちびるは聖せい書しょの中なかでよく,言こと葉ばや話はなすことを表あらわしています。不ふ完かん全ぜんな人にん間げんは話はなす内ない容ようや話はなし方かたによって罪つみを犯おかすことが多おおいので,「唇くちびるが汚けがれている」という表ひょう現げんは適てき切せつと言いえます。(格かく言げん 10:32。ヤコブ 3:2,6)

じっくり考かんがえたいこと

  • レビ記き 19:1-18 聖せいなる人ひとになるには,どんな原げん則そくに従したがう必ひつ要ようがありますか。

  • 申しん命めい記き 23:9-14 聖せいなる人ひとでいるために,体からだの清きよさを保たもつのが重じゅう要ようなのはどうしてですか。私わたしたちの身みだしなみや住すまいはどんな状じょう態たいであるべきですか。

  • ローマ 6:12-23; 12:1-3 罪つみや世よの影えい響きょうを受うけないように,どんな努ど力りょくを払はらう必ひつ要ようがありますか。

  • ヘブライ 12:12-17 どうすれば,神しん聖せいなものとされるように努つとめていることになりますか。

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