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エホバに近づきなさい
近 第30章 300–309ページ
兄弟姉妹たちが王国会館で楽しそうに会話している。

第30章

「愛あいを抱いだいて歩あゆんでいきましょう」

1-3. エホバの手て本ほんに倣ならって愛あいを示しめすと,どんな良よいことがありますか。

「受うけるより与あたえる方ほうが幸こう福ふくである」。(使し徒と 20:35)このイエスの言こと葉ばから,利り他た的てきな愛あいは報むくわれるという重じゅう要ような真しん理りを学まなべます。愛あいを受うけるのももちろん幸しあわせなことですが,人ひとに愛あいを与あたえる,つまり示しめすと,さらに幸しあわせになります。

2 そのことを一いち番ばんよく知しっているのは,天てんの父ちちです。このセクションでこれまで学まなんできたように,エホバは愛あいの究きゅう極きょくの手て本ほんです。誰だれよりも大おおきな愛あいを,誰だれよりも長ながく示しめしてきました。だからこそ,エホバは「幸こう福ふくな神かみ」と呼よばれているのです。(テモテ第だい一いち 1:11)

3 愛あい情じょう深ぶかい神かみは私わたしたちに,自じ分ぶんに倣ならって愛あいを示しめしてほしいと思おもっています。エフェソス 5章しょう1,2節せつにはこう書かかれています。「皆みなさんは子こ供どもとして神かみに愛あいされているのですから,神かみに倣ならってください。愛あいを抱いだいて歩あゆんでいきましょう」。エホバの手て本ほんに倣ならって愛あいを示しめすと,大おおきな幸しあわせを味あじわえます。また,「愛あいし合あう」ようにと勧すすめているエホバに喜よろこばれているという満まん足ぞく感かんも味あじわえます。(ローマ 13:8)ほかにも,私わたしたちが「愛あいを抱いだいて歩あゆんでい[く]」べきどんな理り由ゆうがあるでしょうか。

愛あいが重じゅう要ようなのはなぜか

年長の兄弟が笑顔で若い兄弟の肩に手を置いている。

仲なか間まを愛あいしている人ひとは,信しん頼らいしていることを伝つたえる

4-5. 仲なか間まのクリスチャンに自じ己こ犠ぎ牲せい的てきな愛あいを示しめすことが大だい事じなのはどうしてですか。

4 仲なか間まのクリスチャンに愛あいを示しめすことが大だい事じなのはどうしてでしょうか。簡かん単たんに言いうと,愛あいはキリスト教きょうの本ほん質しつだからです。愛あいがなければ,兄きょう弟だい姉し妹まいとの強つよい絆きずなを育はぐくめませんし,さらに悪わるいことにエホバから見みて価か値ちがない者ものになってしまいます。そうした点てんが聖せい書しょの中なかでどのように強きょう調ちょうされているか,考かんがえてみましょう。

5 イエスは,地ち上じょうで過すごした最さい後ごの晩ばんに,弟で子したちにこう言いいました。「私わたしはあなたたちに新あたらしいおきてを与あたえます。それは,互たがいに愛あいし合あうことです。私わたしがあなたたちを愛あいした通とおりに,あなたたちも互たがいを愛あいしなさい。あなたたちの間あいだに愛あいがあれば,全すべての人ひとは,あなたたちが私わたしの弟で子しであることを知しります」。(ヨハネ 13:34,35)「私わたしがあなたたちを愛あいした通とおりに」とありますから,私わたしたちはイエスと同おなじように愛あいを示しめすことが期き待たいされています。第だい29章しょうで考かんがえたように,イエスは自じ分ぶんのことを後あと回まわしにして人ひとのためになることをし,自じ己こ犠ぎ牲せい的てきな愛あいの素す晴ばらしい手て本ほんを残のこしました。私わたしたちも利り他た的てきな愛あいを表あらわす必ひつ要ようがあります。クリスチャン会かい衆しゅう外がいの人ひとたちが見みても,私わたしたちが愛あいし合あっていることがはっきり分わかるようでなければなりません。自じ己こ犠ぎ牲せい的てきな兄きょう弟だい愛あいは,私わたしたちが本ほん当とうにキリストの弟で子しであることを示しめす証しょう拠こなのです。

6-7. (ア)私わたしたちが愛あいを示しめすことがエホバにとって大だい事じだとどうして分わかりますか。(イ)コリント第だい一いち 13章しょう4-8節せつでパウロは主おもにどんな愛あいのことを言いっていますか。

6 愛あいが欠かけるとどうなるかについて,使し徒とパウロはこう言いっています。「たとえ私わたしが人にん間げんや天てん使しのさまざまな言げん語ごを話はなしても,愛あいがなければ,うるさく鳴なるどらや,やかましく響ひびくシンバルのようです」。(コリント第だい一いち 13:1)ぴったりの例たとえです。愛あいがない人ひとは,不ふ快かいな騒そう音おんを出だす楽がっ器きのように,人ひとを引ひき付つけるどころか遠とおざけてしまいます。人ひとと良よい関かん係けいを築きずくことはできません。パウロは,「たとえ山やまを動うごかすほどの強つよい信しん仰こうを持もっていても,愛あいがなければ無む価か値ちです」とも言いっています。(コリント第だい一いち 13:2)愛あいがない人ひとは,どんなに良よいことを行おこなったとしても,「役やく立たたずの無む用よう者もの」なのです。(「アンプリファイド・バイブル」[英えい語ご])私わたしたちが愛あいを示しめすことがエホバにとってどれほど大だい事じかがよく分わかるのではないでしょうか。

7 では,どのように愛あいを示しめしたらいいのでしょうか。コリント第だい一いち 13章しょう4-8節せつでパウロが何なんと言いっているか調しらべてみましょう。そこで主おもに言いわれているのは,神かみが示しめしてくれる愛あいのことでも,私わたしたちが神かみに示しめす愛あいのことでもなく,私わたしたちが互たがいに示しめすべき愛あいのことです。パウロは,愛あいとはどういうもので,どういうものではないかを説せつ明めいしています。

愛あいとはどういうものか

8. 辛しん抱ぼう強づよさは仲なか間まとの関かん係けいにどう役やく立だちますか。

8 「愛あいは辛しん抱ぼう強づよ[い]」。愛あいがある人ひとは辛しん抱ぼう強づよいので,人ひとのことを我が慢まんできます。(コロサイ 3:13)そういう人ひとになりたいと思おもいませんか。不ふ完かん全ぜんな人にん間げん同どう士しが肩かたを並ならべて神かみに仕つかえているので,兄きょう弟だい姉し妹まいにいらいらさせられたり,逆ぎゃくに仲なか間まをいら立だたせてしまったりすることが時とき々どきあるでしょう。でも,辛しん抱ぼう強づよさがあれば,少すこし腹はらが立たつようなことがあっても相あい手ての落おち度どを見み過すごせます。皆みながそのようにすると,会かい衆しゅうの平へい和わが守まもられます。

9. 例たとえばどのように親しん切せつを示しめせますか。

9 「愛あいは……親しん切せつです」。人ひとを助たすけたり,思おもいやりのある言こと葉ばを掛かけたりすることによって,親しん切せつを示しめせます。愛あいがある人ひとは,人ひとのために何なにかできないかいつも考かんがえます。特とくに,大たい変へんそうな人ひとたちに目めざとく親しん切せつを示しめします。例たとえばどんな人ひとがいるでしょうか。年ねん配ぱいの兄きょう弟だいや姉し妹まいが寂さびしく感かんじていて,誰だれかに元げん気きづけてほしいと思おもっているかもしれません。シングルマザーの姉し妹まいや,夫おっとがエホバの証しょう人にんではない姉し妹まいが,何なにか助たすけを必ひつ要ようとしていることもあります。病びょう気きの人ひとや,つらい状じょう況きょうにある人ひとは,友とも達だちから温あたたかい言こと葉ばを掛かけてもらいたいことでしょう。(格かく言げん 12:25; 17:17)いろいろな人ひとに親しん切せつを示しめすよう努ど力りょくする人ひとは,本ほん当とうに純じゅん粋すいな愛あいがあると言いえます。(コリント第だい二に 8:8)

10. 真しん実じつを語かたって正ただしいことを行おこなうのが簡かん単たんでない場ば合あいもありますが,愛あいがある人ひとはどうしますか。

10 「愛あいは……真しん実じつを喜よろこびます」。愛あいがあると,真しん実じつを曲まげたりせずに正ただしいことを行おこない,「真しん実じつを語かたり合あい」たいという気き持もちになります。(ゼカリヤ 8:16)例たとえば,親したしい人ひとが重じゅう大だいな罪つみを犯おかしてしまった場ば合あい,その人ひとやエホバを愛あいしているなら,神かみから見みて正ただしいことをしたいと思おもうはずです。その罪つみを隠かくしたり,正せい当とう化かしたり,何なにもなかったとうそをついたりはしません。事じ実じつを受うけ入いれるのはつらいことですが,本ほん当とうにその人ひとのためを思おもっているので,その人ひとが神かみの愛あい情じょう深ぶかい矯きょう正せいを受うけ入いれて生いき方かたを正ただすことを願ねがいます。(格かく言げん 3:11,12)私わたしたちは愛あいを抱いだくクリスチャンとして,「何なに事ごとにおいても正しょう直じきに行こう動どうしたい」ものです。(ヘブライ 13:18)

11. 「愛あいは全すべてのことに耐たえ」るので,私わたしたちは仲なか間まに欠けっ点てんがあってもどうすべきですか。

11 「愛あいは全すべてのことに耐たえ」ます。この表ひょう現げんを直ちょく訳やくすると,「すべてのことをそれは覆おおっている」となります。(「王おう国こく行ぎょう間かん逐ちく語ご訳やく」[英えい語ご])ペテロ第だい一いち 4章しょう8節せつには,「愛あいは多おおくの罪つみを覆おおう」と書かかれています。愛あいを大たい切せつにしているクリスチャンは,兄きょう弟だい姉し妹まいの欠けっ点てんや失しっ敗ぱいばかりに注ちゅう目もくして感かん情じょうを害がいしたり,それについて言いい触ふらしたりはしません。多おおくの場ば合あい,仲なか間まの落おち度どはささいなもので,愛あいで覆おおうことができます。(格かく言げん 10:12; 17:9,脚きゃく注ちゅう)

12. パウロはフィレモンを信しん頼らいしていることをどのように伝つたえましたか。パウロの手て本ほんからどんなことを学まなべますか。

12 「愛あいは……全すべてのことを信しんじ」ます。愛あいがあれば,すぐに不ふ信しん感かんを抱いだいたり,兄きょう弟だい姉し妹まいの善ぜん意いを疑うたがったりしません。仲なか間まを信しん頼らいするように努つとめます。a その点てんでパウロがどんな手て本ほんを示しめしているか,フィレモンに宛あてた手て紙がみに注ちゅう目もくしてみましょう。パウロがその手て紙がみを書かいたのは,クリスチャンになった逃とう亡ぼう奴ど隷れいのオネシモを優やさしく迎むかえるようフィレモンに勧すすめるためでした。手て紙がみの中なかでパウロは,フィレモンに圧あつ力りょくをかけるのではなく,愛あい情じょうを込こめてお願ねがいしました。そして,フィレモンが正ただしいことをするに違ちがいないと信しんじていることを次つぎのように伝つたえました。「私わたしはあなたが応おうじてくれることを確かく信しんして書かいています。あなたは私わたしが言いう以い上じょうのことをしてくれるに違ちがいありません」。(21節せつ)私わたしたちも仲なか間まを信しん頼らいしていることを愛あい情じょうを込こめて伝つたえるなら,相あい手ての良よいところを最さい大だい限げんに引ひき出だすことができます。

13. 愛あいがある人ひとは仲なか間まについてどんなことを願ねがいますか。

13 「愛あいは……全すべてのことを希き望ぼうし」ます。愛あいがある人ひとは,仲なか間まを信しん頼らいするだけでなく,仲なか間まに良よいことがあるように願ねがいます。兄きょう弟だいが「気き付づかず」に「道みちを踏ふみ外はずした」場ば合あいには,優やさしく正ただそうとする長ちょう老ろうたちのアドバイスをその人ひとが受うけ入いれることを願ねがいます。(ガラテア 6:1)信しん仰こうが弱よわくなっている人ひとがいたら,その人ひとが再ふたたび強つよい信しん仰こうを持もてるようになることを願ねがい,できる限かぎりのことをして辛しん抱ぼう強づよく助たすけます。(ローマ 15:1。テサロニケ第だい一いち 5:14)家か族ぞくや友ゆう人じんがエホバから離はなれていったとしても,その人ひとがいつの日ひかイエスの例たとえ話ばなしの放ほう蕩とう息子むすこのように本ほん心しんに立たち返かえり,エホバのもとに帰かえってくるという希き望ぼうを捨すてません。(ルカ 15:17,18)

14. 会かい衆しゅう内ないでどのように忍にん耐たいが試ためされることがありますか。愛あいがある人ひとはどうしますか。

14 「愛あいは……全すべてのことを忍にん耐たいします」。忍にん耐たい力りょくがあれば,がっかりするようなことやつらいことがあってもエホバへの信しん仰こうをしっかりと持もっていられます。試し練れんは会かい衆しゅうの外そとから来くるとは限かぎりません。会かい衆しゅうの中なかで試し練れんとなる状じょう況きょうが生しょうじることもあります。みんな不ふ完かん全ぜんなので,兄きょう弟だい姉し妹まいに期き待たいを裏うら切ぎられることもあるでしょう。心こころない言こと葉ばに傷きずつくこともあるかもしれません。(格かく言げん 12:18)長ちょう老ろうたちの判はん断だんや決けっ定ていが,自じ分ぶんが思おもっていたのと違ちがうということもあり得えます。尊そん敬けいされている兄きょう弟だいの行こう動どうが気きに障さわり,「クリスチャンなのにどうしてあんなことをするんだろう」と考かんがえてしまうこともあるかもしれません。そういうことがあったら,会かい衆しゅうから離はなれてエホバに仕つかえるのをやめてしまいますか。愛あいがあれば,そんなことはしないでしょう。愛あいがある人ひとは,兄きょう弟だい姉し妹まいの短たん所しょばかりを見みて,その人ひとや会かい衆しゅう全ぜん体たいの良よいところが見みえなくなってしまう,ということはありません。不ふ完かん全ぜんな仲なか間またちの言げん動どうがどうであれ,会かい衆しゅうの中なかで忠ちゅう実じつに神かみに仕つかえ続つづけます。(詩し編へん 119:165)

愛あいはどういうものではないか

15. 嫉しっ妬ととはどういうものですか。そのネガティブな感かん情じょうを持もたないために愛あいが大たい切せつなのはどうしてですか。

15 「愛あいは嫉しっ妬としません」。嫉しっ妬とする人ひとは,他たの人ひとの持もち物ものや能のう力りょくや受うけている祝しゅく福ふくをねたましく思おもいます。それは自じ己こ中ちゅう心しん的てきな感かん情じょうで,自じ分ぶん自じ身しんや他たの人ひとを傷きずつけ,そのままにしておくと会かい衆しゅうの平へい和わを乱みだしかねません。どうすれば人ひとをねたまずにいられるでしょうか。(ヤコブ 4:5)大たい切せつなのは,愛あいです。愛あいがあれば,自じ分ぶんより恵めぐまれているように見みえる人ひとたちと一いっ緒しょに喜よろこぶことができます。(ローマ 12:15)誰だれかが何なにかのことで注ちゅう目もくされたり褒ほめられたりしても,自じ分ぶんと比ひ較かくして苦にが々にがしい気き持もちになったりはしません。

16. 兄きょう弟だい姉し妹まいを本ほん当とうに愛あいしているなら,自じ分ぶんがエホバへの奉ほう仕しで行おこなっていることを自じ慢まんしたりはしないはずです。どうしてですか。

16 「愛あいは自じ慢まんせず,思おもい上あが」りません。愛あいがある人ひとは,自じ分ぶんの能のう力りょくや行おこなったことをひけらかしません。兄きょう弟だい姉し妹まいを本ほん当とうに愛あいしているなら,伝でん道どうでこれだけのことをしてきたとか会かい衆しゅうで特とく別べつな務つとめを与あたえられているなどと,何なにかにつけて自じ慢まんすることはしないでしょう。そういう話はなしは聞きく人ひとをいらいらさせたりがっかりさせたりするものです。どんな奉ほう仕しも神かみが行おこなわせてくれるからこそできる,ということを忘わすれるべきではありません。(コリント第だい一いち 3:5-9)愛あいは「思おもい上あがら」ないという表ひょう現げんは,「現げん代だい英えい語ごによる新しん約やく聖せい書しょ」では「自じ分ぶんの重じゅう要よう性せいに関かんしてうぬぼれた考かんがえを抱いだく」ことがないと訳やくされています。愛あいがある人ひとは,自じ分ぶんは他たの人ひとより優すぐれているといった見み方かたはしません。(ローマ 12:3)

17. 愛あいがある人ひとは,どのように人ひとの気き持もちを思おもいやりますか。どんなことはしませんか。

17 「愛あいは……下げ品ひんな振ふる舞まいを」しません。下げ品ひんな振ふる舞まいは人ひとを不ふ快かいにさせます。そういう振ふる舞まいをする人ひとは,他たの人ひとがどう感かんじるかを全まったく気きに留とめておらず,愛あいに欠かけています。対たい照しょう的てきに,愛あいがある人ひとは,人ひとの気き持もちを思おもいやります。マナーを守まもり,神かみに喜よろこばれる振ふる舞まいをし,兄きょう弟だい姉し妹まいに敬けい意いを払はらいます。仲なか間まのクリスチャンにショックを与あたえるような「恥はずべき行おこない」をすることはありません。(エフェソス 5:3,4)

18. 愛あいがある人ひとは自じ分ぶんのやり方かたを押おし通とおそうとはしません。どうしてですか。

18 「愛あいは……自じ分ぶんのことばかり考かんがえ」ません。「改かい訂てい標ひょう準じゅん訳やく」(英えい語ご)ではこの部ぶ分ぶんが,「愛あいは自じ分ぶんの方ほう法ほうに固こ執しつしない」と訳やくされています。愛あいがある人ひとは,自じ分ぶんの意い見けんが常つねに正ただしいと言いわんばかりに,自じ分ぶんのやり方かたを押おし通とおそうとはしません。異ことなる見み方かたをする人ひとをねじ伏ふせて,無む理りやり従したがわせようともしません。そのような強ごう引いんな態たい度どは誇ほこりの気き持もちから出でるもので,聖せい書しょによれば「誇ほこりは崩ほう壊かいにつながり」ます。(格かく言げん 16:18)兄きょう弟だい姉し妹まいを本ほん当とうに愛あいしていれば,相あい手ての意い見けんを尊そん重ちょうし,できるだけ聞きき入いれるようにするでしょう。そのようにすることを,パウロも次つぎのように勧すすめています。「各かく自じ,自じ分ぶんのためになることではなく,人ひとのためになることをいつも優ゆう先せんしましょう」。(コリント第だい一いち 10:24)

19. 誰だれかに嫌いやなことを言いわれたりされたりしても,愛あいがあればどうしますか。

19 「愛あいは……いら立だちません。……傷きずつけられても根ねに持もちません」。愛あいがある人ひとは,人ひとの言げん動どうにすぐにいら立だったりしません。誰だれかに嫌いやなことを言いわれたりされたりすると腹はらが立たつものですが,愛あいがあればずっといら立だったままでいることはありません。(エフェソス 4:26,27)傷きずつけられたことを事ことあるごとに思おもい出だし,いつまでも忘わすれないというようなこともありません。愛あい情じょう深ぶかい神かみに倣ならって,相あい手てを許ゆるそうと努ど力りょくします。第だい26章しょうで考かんがえたように,エホバは十じゅう分ぶんな理り由ゆうがある場ば合あいに許ゆるしてくれて,一いち度ど許ゆるしたらその罪つみを忘わすれてくれます。再ふたたびその罪つみを持もち出だしたりはしないのです。エホバが傷きずつけられても根ねに持もたない方かたであることに,私わたしたちは本ほん当とうに感かん謝しゃしているのではないでしょうか。

20. 兄きょう弟だい姉し妹まいが罪つみを犯おかしてしまってつらい経けい験けんをしている場ば合あい,愛あいがある人ひとはどうしますか。

20 「愛あいは不ふ正せいを喜よろこ」びません。「新しん英えい訳やく聖せい書しょ」ではこの部ぶ分ぶんが「愛あいは……他たの人ひとの罪つみを見みてほくそえんだり[しない]」と訳やくされており,モファット訳やく(英えい語ご)では「愛あいは他たの人ひとが過あやまちを犯おかしても決けっして喜よろこばない」となっています。愛あいがある人ひとは不ふ正せいを喜よろこばないので,どんな不ふ道どう徳とくも大おお目めに見みたりしません。では,兄きょう弟だい姉し妹まいが罪つみを犯おかしてしまってつらい経けい験けんをしている場ば合あいはどうでしょうか。愛あいがあれば,「いい気き味みだ」などと考かんがえて喜よろこんだりはしません。(格かく言げん 17:5)一いっ方ぽう,罪つみを犯おかした仲なか間まが神かみとの絆きずなを取とり戻もどそうと努ど力りょくするとき,私わたしたちは喜よろこびます。

「何なによりも勝まさった道みち」

21-23. (ア)パウロが書かいたように,愛あいは決けっして絶たえません。どうしてそう言いえますか。(イ)最さい後ごの章しょうではどんなことを考かんがえますか。

21 「愛あいは決けっして絶たえません」。この言こと葉ばの文ぶん脈みゃくでパウロは,聖せいなる力ちからによって1世せい紀きのクリスチャンに与あたえられた能のう力りょくについて語かたっていました。神かみからのそうした贈おくり物ものは,設せつ立りつされたばかりのクリスチャン会かい衆しゅうを神かみが導みちびいていることの証しょう拠こでした。とはいえ,クリスチャン全ぜん員いんが病びょう気きを癒いやしたり,預よ言げんしたり,さまざまな言げん語ごを話はなしたりできたわけではなく,そうした能のう力りょくはいずれなくなることになっていました。しかし,全すべてのクリスチャンが身みに付つけられるあるものは,ずっと残のこります。それは奇き跡せきによって与あたえられるどんな能のう力りょくよりも大だい事じなので,パウロはそれを「何なによりも勝まさった道みち」と呼よびました。(コリント第だい一いち 12:31)それは,愛あいのことです。

22 パウロが説せつ明めいした通とおり,クリスチャンの愛あいは「決けっして絶たえません」。今いまでも,自じ己こ犠ぎ牲せい的てきな兄きょう弟だい愛あいは,イエスに本ほん当とうに従したがっている人ひとたちの特とく徴ちょうです。世せ界かい中じゅうのエホバの証しょう人にんの会かい衆しゅうで,そのような愛あいが見みられるのではないでしょうか。その愛あいは永えい遠えんになくなりません。エホバは自じ分ぶんに忠ちゅう実じつに仕つかえる人ひとたちに永えい遠えんの命いのちを与あたえると約やく束そくしているからです。(詩し編へん 37:9-11,29)では,自じ分ぶんにできる限かぎりのことをして,「愛あいを抱いだいて歩あゆんでいきましょう」。そうすれば,「受うけるより与あたえる方ほうが幸こう福ふくである」という言こと葉ばの通とおりだと実じっ感かんできます。そして,いつまでも生いき続つづけ,愛あい情じょう深ぶかい神かみエホバのように永えい遠えんに愛あいを示しめし続つづけることができるのです。

エホバの民たみは互たがいへの温あたたかい愛あいにあふれている

23 この本ほんのここまでの部ぶ分ぶんで,エホバのたくさんの良よいところについて学まなんできました。エホバの力ちから,公こう正せい,知ち恵え,そして特とくに愛あいがどれほど素す晴ばらしいかがよく分わかりました。この章しょうではどのように仲なか間まに愛あいを示しめせるかを考かんがえましたが,私わたしたちは誰だれよりもまずエホバに深ふかい愛あいを示しめしたいと思おもいます。どのようにそうできるか,最さい後ごの章しょうで考かんがえましょう。

a もちろん,愛あいがあるクリスチャンは何なんでもかんでも信しんじるというわけではありません。聖せい書しょはこう忠ちゅう告こくしています。「分ぶん裂れつを引ひき起おこし,過あやまちのもととなる人ひとたちに気きを付つけてください。[そういう]人ひとたちを避さけるのです」。(ローマ 16:17)

じっくり考かんがえたいこと

  • コリント第だい二に 6:11-13 心こころを大おおきく開ひらいて愛あい情じょうを示しめすとはどういうことですか。具ぐ体たい的てきにどんな努ど力りょくを払はらえますか。

  • ペテロ第だい一いち 1:22 兄きょう弟だい姉し妹まいに対たいする愛あいが誠せい実じつで温あたたかいものであるべきなのはどうしてですか。

  • ヨハネ第だい一いち 3:16-18 「神かみを愛あいしている」ことをどのように示しめせますか。

  • ヨハネ第だい一いち 4:7-11 私わたしたちが仲なか間まのクリスチャンを愛あいしたいと思おもう一いち番ばんの理り由ゆうは何なんですか。

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