イエスはエルサレムでの献納の祭り(またはハヌッカ)に来ています。これは神殿の再献納を記念する行事です。100年以上前,シリアの王アンティオコス4世エピファネスは,神殿の大祭壇の上に別の祭壇を築きました。後に,ユダヤ人の祭司の子孫がエルサレムを奪い返し,エホバに神殿を再献納します。それ以来毎年,キスレウの25日から祭りが開かれているのです。キスレウの月は現在の11月後半から12月前半の時期に相当します。
それは寒い冬の時期です。イエスが神殿にあるソロモンの柱廊を歩いていると,ユダヤ人がイエスを取り囲み,「いつまで私たちを迷わせるのですか。あなたがキリストなら,はっきりそう言ってください」と言います。(ヨハネ 10:22-24)イエスは,「私は言いましたが,あなた方は信じません」と答えます。井戸の所でサマリア人の女性に,イエスは自分がキリストであると言いましたが,ユダヤ人たちに直接そう言ったことはありません。(ヨハネ 4:25,26)しかし以前,イエスは自分がどんな者かを明らかにし,「アブラハムが存在する前から私はいます」と話したことがあります。(ヨハネ 8:58)
イエスの願いは,自分の活動と,キリストが行うと予告されていた事柄とを比較し,イエスこそキリストであるという結論を各自が下すことです。そのため,自分がメシアであることを誰にも話さないよう弟子たちに命じてきたのです。でもイエスはここで,自分に敵意を抱いている相手にはっきりこう言います。「父の名において私が行っている事柄を見れば,私が誰かは明らかです。しかしあなた方は信じません」。(ヨハネ 10:25,26)
イエスがキリストであることを彼らが信じないのはなぜでしょうか。イエスはこう説明します。「あなた方は信じません。私の羊ではないからです。私の羊は私の声を聞きます。私は彼らを知っており,彼らは私に付いてきます。私は彼らに永遠の命を与え,彼らは決して滅ぼされません。誰も私の手から彼らを奪うことはありません。天の父が私に与えてくださった羊は,ほかの全てのものより大切で[す]」。そして,自分と父の絆がどれほど強いかを示し,「私と父とは一つです」と言います。(ヨハネ 10:26-30)イエスは地上におり,父は天にいますが,同じ目的を持って一致して行動しているのです。
ユダヤ人たちはその返事を聞いて激怒し,またもや石を拾って殺そうとします。でもイエスは恐れることなく,「私は,天の父が命じた立派な行いをあなた方の前で数多くしました。そのうちどの行いのために,私を石打ちにするのですか」と質問します。すると彼らは,「石打ちにするのは,立派な行いのためではなく,冒瀆のためだ。……自分を神とするからだ」と答えます。(ヨハネ 10:31-33)イエスは自分のことを神だとは一度も言っていないのに,なぜこのように非難されるのでしょうか。
それはイエスが,ユダヤ人が神にしかないと信じていた力を持っていることを話したからです。例えば,「羊」について話した際,「私は彼らに永遠の命を与え」ると言いました。それは人間にはできないことです。(ヨハネ 10:28)でもユダヤ人たちは,イエスが父から権威を与えられているとはっきり述べていることを真剣に受け止めていませんでした。
イエスは彼らの非難が間違いであることを示し,こう言います。「律法[詩編 82編6節]の中に,『私は言った。「あなた方は神だ」』と書かれていませんか。神にとがめられた人たちが『神』と呼ばれ,……父が神聖なものとして世に遣わした私が,自分は神の子だと言うと,『神を冒瀆している』と言うのですか」。(ヨハネ 10:34-36)
聖書は,不公平な裁判人のことをさえ「神」と呼んでいます。ですから,イエスが「自分は神の子だ」と言っても罪を問われる理由にはなりません。イエスは彼らをこう論破します。「私が,父が望むことを行っていないなら,私を信じてはなりません。しかし行っているなら,たとえ私を信じないとしても,その行いを信じなさい。そうすれば,父と私が結び付いていることが分かり,さらによく分かるようになります」。(ヨハネ 10:37,38)
するとユダヤ人たちはイエスを捕まえようとしますが,イエスは逃げます。そしてエルサレムを去ってヨルダン川を渡り,4年近く前にヨハネがバプテスマを施し始めた地域に行きます。そこはガリラヤの海の南端からそれほど遠くない場所のようです。
そこでも大勢の人たちがイエスの所にやって来て,「ヨハネはしるしを一つも行わなかったが,ヨハネがこの人について言ったことは全て本当だった」と言います。(ヨハネ 10:41)そして,たくさんのユダヤ人がイエスに信仰を抱くようになります。