小さな事にも忠実をしめす
「よい僕よ,うまくやった。あなたは小さい事に忠実であったから,十の町を支配させる」。―ルカ 19:18。
1 日常生活でどんな事に面しますか。その応じ方は人によってどう異なりますか。
日常の生活に小さな事はいくらでもあります。一つの問題に付随する事柄,ちょっとした痛みや苦しみ,仕事の細部,になう責任の一端,あるいは楽しいひととき,あるいは自分が引き受けたやゝ余分な用事などがあるでしょう。その余分な用事は人を助けるために引き受けたのかも知れません。こうした小さな事柄の多くは処理されてゆきますが,そのままにしておかれるものも少なくありません。多くの責任を受け入れ得る人もあれば,二,三の心配事で容易に動揺する人もあります。ある者は一日一日日をとらえ,さし迫った問題から片付け,残る責任の処理は後に回して平然と日を送り,他の者は,一度にやりきれぬ仕事を見てたちまち意気消沈してしまいます。後者はいまだ起こらぬ細事を心配して自ら悩んでいるのです。言わば,いまだかからぬ橋を渡っているのであり,その多くはかける必要さえ無いのです。私たちはつり合いのとれた考え方をしなければなりません。「うれひ人の心にあれば之をかゞます されどよきことばはこれを楽します」。―箴言 12:25。
2 (イ)神の組織の一員であればさらに何が加わりますか。(ロ)これがその人個人にどう作用しますか。
2 神の組織の一員であれば,すでにある日常生活の小事に加えて,さらに多くの事柄を受け入れねばなりません。その中には聖書の研究,霊の食物に与るための集会行き,神の国の福音宣明への参加,家庭内で模範となる事,清潔な生活を送ることなどが含まれます。こうした特権を忠実に果たすなら,会衆の監督者に任命され,神の群を牧する仕事の一部を委ねられるようになるでしょう。このすべては,私たちの日毎の生活に多量の細事を送り込みます。しかしこれらはやらずにすますわけにはゆきません。組織内にあって神に仕えるとは,必要な仕事を成し遂げることであり,そうした仕事を処理することによって,私たちと他の者たちとの霊的な健康が保たれるのです。(テモテ前 4:16)霊的な事柄はいつでも第一に来なければなりません。(マタイ 6:26)時に疲れて,その日の問題にぶつかるほどの勇気の出ぬことがあるかも知れません。しかしそんな時にはイザヤ書 50章4節に出てくる人から助けが得られます。「主エホバは教をうけしものの舌をわれにあたへ 言をもて疲れたるものをたすけさゝふることを知り得しめたまふ」。(文語)ルカ伝 19章18節は,「よい僕よ,うまくやった」と述べています。この言葉は,御国の仕事を忠実に果たす,油注がたれたイエス・キリストの追随者にあてはまります。(マタイ 25:21)忠実に果たしたことの結果として,彼らは任命を受け,地上の御国の事柄すべてを扱う「忠実な思慮深い僕」となりました。この原則はすべての僕にあてはまります。要求されるのはただ忠実性です。
3 忠実さいかんが人の円熟の度合を示すことを説明しなさい。
3 実際,小さな事の扱い方によって,その人の人となりがわかります。大きな仕事の場合には大抵だれかが,「良くやった!」と言って私たちをほめ,私たちの能力を認めます。人の称賛を受けるためとあらば怠け者さえ働き出すでしょう。(箴言 13:4)人は会衆での話を準備し,立派にそれを話すでしょう。しかし,会衆内の老年者が乗り物で集会に来るのを助け,あるいは,興味ある人と毎週定期的に聖書研究を開くということになればどうですか。これが神の組織内の小事に対する無関心さをあらわにし,その人の忠実でない点を明らかにするかも知れません。それゆえ,神に対する忠節のほどは小事に対する態度いかんによって容易に判断されます。進んでする人は多くのものを得るでしょう。「物惜しみしない者は富み,人を潤す者は自分も潤される」。(箴言 11:25)こうした忠実な者たちをエホバは真実に恵まれ,ご自身の組織内において有用な者とし,牧羊のわざに与らせます。「羊」を飼い,理解をもって「羊」を養うのはこの種の人々です。これはさして重要でない小さな事ではありません。小さな物が全体の機構を支えることはよくあります。一例をあげましょう。石のそり橋も,かなめ石がなければ,重荷にあってたちまちくずれてしまいます。橋全体の重さと大きさに比べれば,かなめ石はわずかです。それでも橋の安全のためには,この石のかたちと据え場所に多大の注意が払われるのです。
4 異なる結果をもたらした小事の例をいくつか上げなさい。それが当事者にどう影響しましたか。
4 エホバとエホバの民が小さな事柄をどう取扱ったか,昔の例をいくつか調べましょう。幕屋の造営にあたってはあまたの事がなされねばなりませんでした。人々は,「エホバがなせと命じたまひし工事をなすに用ふるに余りあ」るほどの物を携えてきました。その結果は次の通りです,「モーセその一切の工作を見るにエホバの命じたまひしごとくに造りてあり 即ちかくのごとくに作りてあればモーセ人衆を祝せり」。(出エジプト 36:5; 39:43)他方エホバは,任命の地ニネベをかえてタルシシに行こうとしたヨナの考えをいかに見なされましたか。(ヨナ 1:4,10,12)また,銀片30のために全生涯の進路を決めたイスカリオテのユダがいます。(マタイ 27:3-6)パウロに利己的なところはありませんでした。自ら処理せねばならぬ多量の仕事があったと思われるにもかかわらず,パウロは時間をさいてオネシモのためにピレモン宛ての特別の手紙を書きました。別の例を上げればヨセフです。奴隷としての日常の務めを徹底的に果たしたヨセフは,やがて主人の家内の管理を委ねられることになりました。彼は獄にあってさえ同じ態度を失わず,獄舎内の細事の多くを取り扱うようになりました。ヨセフはパロの王国においても栄を得ました。創世記 39章23節が示すごとく,ヨセフはエホバの恵みを受けました。「エホバ,ヨセフとともにいませばなり エホバかれのなすところをさかえしめたまふ」。
5 (イ)献身した兄弟のすべてが責任を受け入れねばならないのはなぜですか。(ロ)必要な能力はいかにして得らまれすか。
5 エホバの証者の新世社会は,成長し,活動する組織です。委ねられた大きな仕事,すなわち,『この御国の福音をすべての民に対してあかしをするために,全世界に宣べ伝える』仕事を果たすには,当然そうあらねばなりません。(マタイ 24:14)新しい会衆が形成されるにつれ,神の群れを牧する仕事に附随する細事を取扱う新しい監督と多数の補佐のしもべたちが必要になります。こうした責任の地位に用いられるのは,小さな仕事にも大きな仕事と同じほどの勤勉さをもって臨み,それを忠実に果たす人々です。一例として,家のかしらたる父親が自分の家族をよく世話し,子女を集会に伴い,忍耐をもって神への奉仕に加わるべきことを教えるなら,この人をして会衆の世話を見る者ともなし得るでしょう。聖書は,「自分の家をよく治め,謹厳であって,子供たちを従順な者に育てている人でなければならない」と述べて,この点を会衆を司る者の資格の一つとしています。(テモテ前 3:4)新しい人たちは,聖書の真理を深く学ぶにつれ次第に円熟に育てられ,責任を果たす仕方を身につけます。それゆえ,エホバの証者の新世社会内にあっては,率先して「羊」を牧する者となるための訓練が絶えずほどこされています。
6 今日の古い世ではどんな態度が顕著ですか。なぜその種の考えの影響を避けるべきですか。
6 もとより,今日の私たちは,責任からしりぞき,これを避けるべきものと見なす人々にかこまれて住んでいますから,エホバ神に奉仕するため自ら献身するときに新たな心の構えをつちかうべき事は容易に理解できるでしょう。エホバの組織内にある者は,今日まだハルマゲドンが来ていないから,あるいは,毎日人がほめてくれないからといって,仕事の手をゆるめることはありません。責任と共に与えられる奉仕の特権に専心することは私たちの願いとならねばなりません。進んで自分を犠牲にするという円熟した精神をつちかうなら,兄弟の多くに資することになり,感じやすい自分から注意をそらすことになります。しかし,自分は指導するより従うことに向いている,と考える人があるかも知れません。また,自分の健康が仕事の重みに耐え得ない,と言う人もあるでしょう。さらにまた,監督の仕事に伴って,断固とした態度を取り,兄弟に助言すべきことがあるのを知りながらも,人の気をそこねるのを恐れてこれをさしひかえる人もあるでしょう。ある人は,自分は能力がないし,すべての質問に答え,必ず起こる問題のすべてを処理するほどの知識がないと思うかも知れません。しかし,こう考える人のすべては,全部のことをひと時に見て驚いているのです。大きな責任も,小さな事を一日一日片付けてゆく事によって成り立っており,日がたつにつれて多くの事を果たせるようになるのです。たしかにあなたにも限界があるでしょう。しかし,なんらかの障害があるからといって,それをもって退く必要はありません。監督に求められる資質は会衆内のすべての者に等しく求められることをも忘れないで下さい。
7 監督を任命するのはだれですか。なぜ?
7 ここでしばらく考えて下さい。人は生まれながらに神の会衆の監督者なのですか。そんなことはありません。聖書はこう記しています,「もし人が監督の職を望むなら,それは良い仕事を願うことである」。(テモテ前 3:1)「自分自身とすべての群れに心を配りなさい。聖霊は,……神の会衆を牧させるためにあなたがたを監督に任命したのである」。(使行 20:28,新世)エホバ神とそのみ子イエス・キリストが,「忠実な思慮深い僕」を通じ,だれを立てて神の群を牧する監督者とするかを定められます。それゆえ,そのみ言葉の中に示される神の求めに従って歩む人々が選ばれ,「羊」を牧するために用いられます。
8 責任に対し,どんな建設的な見方を持てますか。
8 負担や問題や心痛を見,色々決定せねばならぬ事,自分を押えて人を助けねばならぬ事,いつまでも不断に苦労がつづく事などを考えて,近視的で,貧しい見方をするのを止め,かわりに,以前は神の立てた牧者もなく歩んでいたのに,今では神に献身した僕に守られている人々の増加を考えなさい。新世社会がこれまでに成し遂げたところに注意を向けなさい。とりわけ喜ばしい成長,すなわち,新しい人々が円熟に進むのを見守りなさい。奉仕することの喜びを知りなさい。そしてできるなら,兄弟たちのために働き,兄弟たちと共に働いて神に奉仕することの喜びと特権を数え上げてごらんなさい。
9 (イ)組織内の仕事の小事に臨んでどうしたら信頼にこたえられますか。(ロ)なぜそれほど熱心に努力すべきですか。
9 「信心深い様子をしながらその実を捨てる者」の多い今日考えるべき別の点は最後までやりとげるか,信頼できるかという点です。(テモテ後 3:5)神の組織内での任命はいかなるものも軽視すべきではありません。どんな細事も神の僕に委任されるものなら,なし終えるまで,終始,細心の注意を払って行なうべきものです。イエスは言われました,「わたしのもとにきて,わたしの言葉を聞いて行う者(は)……地を深く掘り,岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。……しかし,聞いても行なわない人は,土台なしで,土の上に家を建てた人に似ている」。(ルカ 6:47-49)聞く以上の事,語る以上の事が必要です。神に仕え,「羊」を養うべく,会衆内の仕事を遂行することが必要です。ヤコブ書 1章25節は,「完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は,聞いて忘れてしまう人ではなくて,実際に行う人である。こういう人は,その行いによって祝福される」と約束していますから,信頼性に富む人は前途に多くを期待して良いと言えるでしょう。積極性と感謝する心のある人が,強固な土台の上に立ち,その上エホバの祝福を受けるなら,多大の事柄をなしどげ得るでしょう。多くの人が円熟に進むのを助け,また自らも奉仕の年月を加えるにつれ,いよいよ神の組織に有用なものとなるでしょう。自分が持つ知識を遊ばせて,すでに持つものをさえ失うといった愚行をおかすべきではありません。箴言 11章24節はそれをこう表現しています。「施し散らして,なお富を増す人があり,与えるべきものを惜しんで,かえって貧しくなる者がある」。
10 (イ)信頼性に富む人にはどんなよい事がありますか。(ロ)小事に忠実でなければならぬ理由がありますか。
10 ルカ伝 8章18節を読んで,信頼できる人が受ける前途の祝福についても考えてごらんなさい,「だから,どう聞くかに注意するがよい。持っている人は更に与えられて,持っていない人は,持っていると思っているものまでも,取り上げられるであろう」。神の献身したしもべが会衆内の細事を取り扱う事を望まず,束縛を強く感じて,一切の責任から解放されることを求めたとしてごらんなさい。神に仕えるように訓練したいと自ら称えている自分の子供たちにどんな影響を与えることになりますか。生まれたままで良い父親となり,良い監督となる人はありません。知識と訓練と経験により,また自らそれに心を傾け,その上エホバの助力を得てはじめて,そのいずれの立場にも成功を得るのです。一つの務めを良く果たすなら,他の務めをも立派に果たし得るでしょう。イエスの言葉を記録したルカ伝 16章10節は次の通りです,「小事に忠実な人は,大事にも忠実である。そして,小事に不忠実な人は大事にも不忠実である」。「クラークの注釈」(Clarke’s Commentary)第5巻462頁はこの言葉を次のように興味深く注釈しています。「心から忠実をつくそうとする人はどんな小さな事をも注意深く行なって良心を満たす。そして,小さな事に正しく行動するよに絶えず自分を訓練することによって,適正さと忠誠心と敬意と良心とをもって大切な事柄に臨むという高貴な習慣が得られるのである。一方,小さな事に正しく行動しない者が,大切な事態に臨んで,自尊心と良心の指示を十分に注意すべき事を知るのはまれであろう。小さな事でいつでもつまずく者が,大きな悪へのいざないに抗し得るとどうして期待できよう」。
11,12 (イ)エホバの証者はとくにどんな面で大切な小事を果たしますか。(ロ)「羊」はどのように養われ,組織内に導かれますか。
11 家から家の宣教活動に携わる数十万のエホバの証者は,小さな事に対する忠実さを実証しています。事実をあげれば,この仕事に加わった事を報告した神の国の伝道者は104万836人を数えました。(1964年度エホバの証者の年鑑38頁参照)この宣教の仕事を通して神とその目的について一層の知識を求める人が見出されます。その人々は聖書の研究においてなんらかの助力を求めているのであり,こうした人を見つけた時のエホバの証者の喜びは,さながら探鉱師が金鉱を掘り当てた時の喜びにも似ています。なぜなら,聖書が羊と呼ぶのはこうした柔和な人々だからです。こうした人々にエホバがどれほどの重きを置いているかマタイ伝 18章14節の記述を読みましょう。「そのように,これらの小さい者のひとりが滅びることは,天にいますあなたがたの父のみこころではない」。エホバの証者は「羊」の住所を手帳につけ,次の訪問で答えるべき質問を書きとめますか。エホバの証者は約束通りまたたずねますか。しかも日をおかず,二,三日のうちに? イエスは,「私の羊を飼いなさい」と繰り返し3度も語って,「羊」を養うことの大切さをペテロに銘記させました。(ヨハネ 21:15-17)エホバの証者は『羊を養う』ことを教えられてきました。それゆえ彼らはまたたずねます。これは神のわざをすることであり,これを果たすことによって小事に対する忠実さを示すことになります。
12 これに始まって,新たに見つけられた「羊」は,教義の詳細,聖書預言の数々,組織に対する細かな見解,聖書の原則の一つ一つ,神権社会の清潔な生活の仕方など,小さな事柄を数々取り入れます。これらを取るに足らぬ事,定期的に養う計画を立てるほど重要でない事と見なしてよいですか。いえ,こうした柔和な人々のために忠実に働き,エホバに奉仕する仕方を忍耐強く教えねばなりません。こうした小さな事の一つ一つがさらに大きなもの,すなわち,命,しかも永遠の命につながっているのです。―ヨハネ 17:3。
13,14 (イ)信頼性の有無と同じく,会話が人となりを示しますか。(ロ)会話が良くない方向に行くのを許してよいですか。(ハ)この傾向を正して,建設的な会話にもどすにはどうしたらよいですか。
13 私たちの会話を調べましょう。話の各部,すなわち,単語や語句はどんな意味を伝えていますか。その中に,どんな態度が表われていますか。私たちの語るところは私たち自身を告げ,私たちを人に知らせます。「おおよそ,心からあふれることを,口が語るものである」。(マタイ 12:34)それゆえ言葉づかいに注意し,これを正しく制御せねばなりません。気軽に語り合い,ユーモアを言い,身に起こった出来事や経験を話し,あるいは,聖書に関する問題を討議をする場合など色々あります。しかしどんな場合でも,神の僕が,不平をもらし,つぶやきを語り,人の欠点をあげ,うわさを広め,あるいは,不敬な言葉を使い,自慢話をすべきではありません。自分の口にくつわをはめ,会話を息苦しくさせる必要はありません。詩篇 34篇13節のすすめる通りにすべきです。「あなたの舌をおさえて悪を言わせず,あなたのくちびるをおさえて偽りを言わすな」。
14 数人が集まってだれかの事を話している時に,一座の未熟な者がその人物の欠点などを持ち出して,会話を良くない方向に向けることがあります。これに他の者が言葉を加えるなら問題が始まるでしょう。勇気を出し,会話を建設的な事柄に引き戻すのはだれですか。この小事においてエホバの組織に忠節を保ち,進んで組織の一員を守るのはだれですか。通常これは,ほんの一言,話題を変えるだけでよいのです。しかしだれかがしなければなりません。小さなかじが大きな船をあやつって安全な航海を続けさせるごとく,小さな舌が会話の向きを変え得るのです。(ヤコブ 3:4)実際にこれは小さな事ではありません。なぜなら,もし神に仕える人の欠点を数え上げるようになれば,やがてなんらかの仕事をなすため神が定められた立場に不平をもらすようになるからです。―ヤコブ 5:9。
15 (イ)良い聞き手となるなら,人の話が私たちにどう役立ちますか。(ロ)聞くことはすすめられていますか。
15 会話は心をさわやかにし,きわめて楽しいものです。他の人の身に起こった興味ある事柄が語られ,それぞれの人が得意とする話題について多くの知識がくり広げられ,あるいは,真理に対する深い認識が表明されます。会話が私たちに理解させるのは,こうした人の一人一人に思いを注がれ,私たちにそれぞれの経験を語らせる,供給者エホバの偉大さです。それゆえ,良い聞き手になるなら,受ける恩恵は多大です。ところがこれを望まぬ人があります。この種の人々はとめどなく話を続け,新しい人に,自分は黙っていようと思わせてしまいます。神の奉仕者にとって聞くことはきわめて大切であり,箴言 1章5節はこの点を次のごとく明らかにしています,「賢い者はこれを聞いて学に進み,さとい者は指導を得る」。自分が語る時,他に聞いてもらいたいと思うなら,他の人々が語る時それを静かに聞きなさい。
16 時計は,多くの小事を取り扱うためのどんな実際的な見方を教えていますか。
16 小事に忠実をつくす事は,時計のたとえをもって説明できます。大きなものでも,小さなものでも,あるいは金張りの高価なものから,作りの簡単な安いものまで,時計のすべてが一つの事,小さな事をしています。それは時間を細かく区切り,一秒,一秒の区画を明示する事です。一時に一刻の時を刻みながらも,年間を通して正確に時をはかり,日夜時刻を告げて,時計は大きな仕事を果たします。時計が来週を,あるいは来月を思いわずらうことはありません。ただ当座の一秒を刻んでいるだけであり,その一秒を刻み,それを文字盤に表示し終えるなら,すぐ次の一秒に移ります。私たちは時計ほど機械的でないかも知れません。しかしながら,小さな事によってエホバとその組織に忠実を示すべき場合が毎日いくたびとなくあります。これは私たちの責任となり,特権となります。聖書の原則を仕事のための道具とし,一つ一つを適切に処理し,日毎にその改善をはかるなら,やがてはどんな事をも容易に扱えるようになり,より大きな仕事,一層のエホバの祝福へと進行できるでしょう。
17 (イ)エホバの証者の家族,とくに小さな地域社会に住む家族には,どのように小事を注意深く扱うことが求められますか。(ロ)それが御国のわざをどう左右しますか。
17 別の例を上げましょう。一つの社会にエホバの証者が一家族しか住んでいない場合です。家族は土地の人々に伝道します。家族は土地の人々と働き,あるいは土地の人々のために働いています。その子供たちは他の子供と一緒に公立の学校に通います。社会全体が彼らのクリスチャン活動を仔細に見,家族の一致,子供の訓育,近隣の問題に対する彼らの態度いかにとつぶさに見ています。家族の会話にさえ注意がそそがれるでしょう。家族の生活の細部,その行動のすべてが,さながら顕微鏡下にあるがごとくに試験され,町の話題となるでしょう。しかもこれはほんの数日のことではありません。何年も続くのです。エホバの証者の生活振りを幾年も見て,聖書の真実さを知り,そこに含まれる教訓の実際性と有用さとを悟り,その結果エホバの証者となった人も少なくありません。地の各地に住み,エホバに仕えるエホバの証者が,小さな事にも日々不断の忠実を示す態度に称賛の念を覚える人がいるに違いありません。神の指示に従って箱型の船を作ったノアの家族が,広く当時の社会全体の注視を集めたのもこれと似ています。―創世 6,7章。
18 この面でどんな保証と援助を聖書から得られますか。
18 恐れる必要はなにもありません。それは,ガラテヤ書 1章10節が,「今わたしは,人に喜ばれようとしているのか,それとも,神に喜ばれようとしているのか。あるいは,人の歓心を買おうと努めているのか。もし,今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば,わたしはキリストの僕ではあるまい」と述べているごとく,私たちの求めは人を喜ばすことではなく,神を喜ばせることだからです。テサロニケ前書 2章4節も同じです,「かえって,わたしたちは神の信任を受けて福音を託されたので,人間に喜ばれるためではなく,わたしたちの心を見分ける神に喜ばれるように,福音を語るのである」。心配する必要もありません。なぜなら,神は,ご自身の言葉なる聖書を通じて,日常の小事を果たすための一定の原則を示しておられるからです。「聖書は,すべて神の霊感を受けて書かれたものであって,人を教え,戒め,正しくし,義に導くのに有益である。それによって,神の人が,あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて,完全にととのえられた者になるのである」。―テモテ後 3:16,17。
19 (イ)あなたはどうやって喜びを増しますか。(ロ)小事は大切でありませんか。なぜそう答えますか。
19 神への奉仕についてこの種の見方を持つなら,喜びを増し加える機会がいくらでも出てきます。これまで,会衆の集会に週に一度ずつ出席していたなら,これからは,生活を整えて毎週二度ずつ行くようにしたらどうでしょう。それによってあなたの喜びは倍加するのです。これまで,恵まれて毎月6時間ずつ奉仕できたなら,これからは7時間半を奉仕にささげ得るでしょう。それによってあなたの喜びは25パーセントも増加するのです。また,進歩して責任を受け入れ,会衆内の僕の仕事を任ぜられるなら,喜びは幾倍にもなるでしょう。エホバのみ旨にかなう決定をする機会が1日にどれほどあるか考えてごらんなさい。小さな事,そうです,あるものはあまりささいに見えて,意識されず,あるいは見すごされてしまう場合もあるでしょう。しかしそれをも無視すべきではありません。その決定の一つ一つを神の言葉に従ってなす習慣をつけなさい。これによってどれほどの喜びが加わるかは,数えることもできないでしょう。その上次の約束があるのです,「エホバの祝福は人を富ます。彼はこれに悲しみを加えない」。―箴言 10:22,新世。