メシヤを確認する強力な証拠
1 エデンにおいて人間が堕落した最初の時から,神はどのように希望を与えましたか。
はじめから,すなわちエデンにおいて人間が堕落した直後から,神は希望の預言を語られました。神は神の敵のかしらを砕くすえが現われることを約束しておられます。(創世 3:15)神はこのすえに関する情報を与え,最後にはヘブル語でメシヤと呼ばれる特定の者がこのすえであることをはっきりと示して,この約束を敷延すると共に昔の人の信仰を強められました。国々の民が希望をおくのはこのメシヤです。間違うことなく,真実のメシヤに希望と信頼をおくことは生死の問題でした。従って希望のおきどころを間違えて失望を味わい,救いを得そこなうことのないように,わたしたちはメシヤを間違いなく見分ける方法を教えられていなければなりません。メシヤにも偽りのものがあるからです。
2 (イ)わたしたちが希望のおきどころを違えることのないように,神は何を備えられましたか。それはどれほど念入りなものですか。(ロ)メシヤを見わけるどんな特定の手段を,この記事の中で研究しますか。
2 間違いなく見分けるためのしるしは,神のことば聖書の中に与えられています。キリスト教時代以前のヘブル語聖書には,メシヤの資格に関する事柄,メシヤの成し遂げるべき事柄が何百も詳細に述べられているのです。そのすべては密接に関連し合い,編み合わされているため,ぺてん師がそのすべてを成就しようとしても,成功する確率は何十億に一つ,つまり実際には不可能でありましょう。事実それは偉大な全能の神が約束のメシヤを間違いなく見分けさせるために仕組まれたのですから,不可能なのは当然です。メシヤを見分ける手だては,家系,場所,出来事,また出来事の起きた模様など,いろいろありました。中でも時は場所や出来事などの他の要素と関連のあるしるしです。この記事では時という問題をとりあげました。
3 (イ)この問題の研究は,聖書の霊感を信じない人をどのように動かすはずですか。(ロ)それはユダヤ教の信仰を持つ人をどのように動かしますか。
3 聖書が霊感による本であることを信じない人も,この問題を真剣に考慮するならば,いっそうの敬意を抱いて少なくとも神のことばを更に検討する気になるに違いありません。また神のことばを信じ,神の預言者に偽りのないことを信ずるユダヤ教の人は,メシヤの出現に関するユダヤ教の立場を再検討せざるを得ないでしょう。
4 この預言を書くために用いられたのはだれですか。
4 問題の預言をしたのは,神の前にきわめて恵まれた立場を持ち,非常に忠実な人として神のことばに名をしるされている預言者ダニエルです。ダニエルの預言の9章24節から27節に次の霊感の言葉がしるされています。
5 ダニエル書 9章24節から27節にある預言は,メシヤを見分けるどんな手がかりを与えていますか。
5 「あなたの民と,あなたの聖なる町については,七十週が定められています。これはとがを終らせ,罪に終りを告げ,不義をあがない,永遠の義をもたらし,幻と予言者を封じ,いと聖なる者に油を注ぐためです。それゆえ,エルサレムを建て直せという命令が出てから,メシヤなるひとりの君が来るまで,七週と六十二週あることを知り,かつ悟りなさい。その間に,しかも不安な時代に,エルサレムは広場と街路とをもって,建て直されるでしょう。その六十二週の後にメシヤは断たれるでしょう。ただし自分のためにではありません。またきたるべき君の民は,町と聖所とを滅ぼすでしょう。その終りは洪水のように臨むでしょう。そしてその終りまで戦争が続き,荒廃は定められています。彼は一週の間多くの者と,堅く契約を結ぶでしょう。そして彼はその週の半ばに,犠牲と供え物とを廃するでしょう。また荒す者が憎むべき者の翼に乗って来るでしょう。こうしてついにその定まった終りが,その荒す者の上に注がれるのです」。
6 (イ)「七十週」に関して,どんな事柄を決めなければなりませんか。(ロ)「七十週」が7日を一週とする文字通りの週でないことはどうしてわかりますか。
6 この預言を読めば明らかなように,メシヤを見分ける上の貴重な手がかりがそこにあり,七十週の始まった時および預言的な週の長さを決定することがきわめて重要になってきます。はじめに述べておきますが,これを文字通り7日を一週とする週として考えると,メシヤは24世紀以上むかしペルシャ帝国の時代に現われたことになり,しかも見分けられなかったことになります。またメシヤの資格について聖書にしるされた他の何百という事柄も成就されませんでした。従って七十週は象徴的に解すべきであり,もっと長い期間を指すことになります。この時はいつはじまっていつ終わりましたか。
7 (イ)「七十週」をいつから数え始めるかを知るにはまず何を確定しなければなりませんか。(ロ)これに関してネヘミヤ記からどんな資料が得られますか。
7 先に引用したダニエルの預言の25節からわかるように,命令の施行されたときから定めの期間を経てのち,約束の,神の女のすえすなわちメシヤが地上に現われるはずであり,この事からメシヤ出現の正確な年が定められます。この命令が出た時およびその施行の時を知るには,この命令を出した王の名と,その治世開始の年を知らなければなりません。命令が出されたのは,この王の治世の第20年であったからです。ネヘミヤは次のことを告げています,「アルタシャスタ王の第二十年,ニサンの月に,王の前に酒が出た時,わたしは酒をついで王にささげた」。(ネヘミヤ 2:1)このときネヘミヤはエルサレムの憂うべき状態を王に言上し,町の再建に遣わされることを願いました。次に述べる歴史の事実が示すように,王とネヘミヤとの問答が行なわれたのは紀元前455年であり,王はペルシャのアルタシャスタでした。
アルタシャスタに先立つ4人の王
8 (イ)メデア人ダリヨスとダリヨス1世の間には,ペルシャを治めたどんな2人の王がいますか。(ロ)ペルシャが2度目にギリシャを攻めたのはいつですか。それはどんな結果に終わりましたか。
8 ダニエル書 11章1節はメデア人ダリヨスのことを述べ,2節はペルシャになお3人の王が起こること,4人目の王は他のすべてにまさって富み,「すべてのものを動員して,ギリシャの国を攻め」ることを預言しています。3番目の王はダリヨス1世で,紀元前522年にペルシャ帝国を治め始めました。この王の前には,メデア人ダリヨス以後2人の王すなわちペルシャ人クロスとその子カンビセスが位についています。ダリヨス王が2度目のギリシャ進撃の命をペルシャに下したのは紀元前490年でした。ペルシャ軍は数においてアテネ人よりもはるかに優勢だったにもかかわらず,ギリシャのマラトンで敗れました。ダリヨスは3度目のギリシャ遠征を企てましたが,準備の完了を見ずに紀元前486年に死んだのです。
9 「すべてのものを動員して,ギリシャの国を攻め」るとダニエルが述べている4人目の王はだれでしたか。
9 ついでダニエルの預言した第4の王が起きて,更にギリシャの征服をはかりました。現代訳聖書のあるものはこの王の名をクセルクセスとしるしています。(エステル 1:1-3,アメリカ訳,モハット訳)他のほん訳では,ヘブル語の読み方に従ってアハシュエロスとなっています。アハシュエロスがクセルクセスとすれば,その統治開始は紀元前486年12月でした。七十週に関するダニエルの預言の論議にクセルクセス1世が重要な地位を占めるのは,この王が,エルサレム再建の命令を出したアルタシャスタ王の父にあたるからです。(ネヘミヤ 1:1; 2:1,7,8)ユダヤ人の殺害を企てた敵に対して自衛手段をとる法的な許しをユダヤ人に与えた王は,このクセルクセス1世でした。クセルクセスの妃となったユダヤ人エステルのいとこモルデカイはその当時クセルクセスの総理大臣をつとめ,陰暦第12の月アダル(2月-3月)の14,15日をプリムすなわちくじの記念祭に定めました。(エステル 9:20,21)クセルクセスはそのとき治世の12年目にあり(エステル 3:7),その統治は13年目に及んだに違いありません。それは紀元前474年の一部を含みます。エステル書 9章32節から10章3節までにしるされている通り,クセルクセスの勅令以後に他の出来事が起きていることからそう言えるのです。
10 エステル書 9章32節から10章3節には,クセルクセスの生涯が治世の13年目にまでわたったことを示すどんな資料がありますか。
10 「エステルの命令はプリムに関するこれらの事を確定した。またこれは書にしるされた。クセルクセス王はその国および海に沿った国々にみつぎを課した。彼の権力と勢力によるすべての事業,および王がモルデカイを高い地位にのぼらせた事の詳しい話はメデアとペルシャの王たちの日誌の書にしるされているではないか。ユダヤ人モルデカイはクセルクセス王に次ぐ者となり,ユダヤ人の中にあって大いなる者となり,その多くの兄弟に喜ばれた。彼はその民の幸福を求め,すべての国民に平和を述べたからである」。―アメリカ訳。
11 (イ)ペルシャの第3回ギリシャ遠征はいつのことでしたか。それはどんな結果に終わりましたか。(ロ)ギリシャに敗れたペルシャは第4世界強国の地歩を失いましたか。
11 第3回ギリシャ遠征はクセルクセスの第12年を迎えないうちに行なわれ,紀元前480年にクセルクセスの侵入軍はヘレスポント海峡を渡りました。しかし数の上でギリシャ人をはるかにしのぐペルシャ軍も,アテネの将軍テミストクレスの作戦の前に敗れたのです。ペルシャ軍はテルモピレーにおいてこれを迎え撃ったギリシャ人のために大損害をこうむり,つづいてクセルクセスの艦隊の大半が破壊されました。最も有能な将軍の指揮下におかれて後にとどまったペルシャ軍は翌年ギリシャ人の前に敗れ,同じ日にペルシャ艦隊の残りも小アジアのミカーレ山の陰で破壊されました。こうして第4世界強国によるヨーロッパ進攻の企ては,紀元前479年,クセルクセスの治世第8年にくじかれてしまったのです。それでもペルシャ帝国は,なお1世紀半のあいだ,世界を支配しました。
アルタシャスタの治世のはじまり
12 ペルシャに対する勝利を収めてしばらくのち,テミストクレスはどうなりましたか。
12 アルタシャスタの治世が紀元前474年に始まったことを示す歴史の証拠をここにあげましょう。テミストクレスはギリシャ軍を勝利に導き,ギリシャの防備の強化に貢献したにもかかわらず,後に人々の信任を失いました。そして遂にはペルシャ人と売国的な取り引きをしたかどで訴えられて小アジアにのがれ,反逆者の印を押されて財産を没収されていますが,ペルシャ人にはよく迎えられたということです。
13 テミストクレスはだれの宮廷に保護を求め,またそれを得ましたか。
13 彼は……遂にペルシャの宮廷に保護を求め,統治中の王アルタシャスタ・ロンジマナスの信任を得た。彼はアルタシャスタへの約束通り,ペルシャ人のギリシャ征服計画に参画した……そしてある記録の伝えるところによれば,そのとき毒を仰いだ……。アメリカナ百科辞典1929年版第26巻507頁。
14 テミストクレスはいつ歿しましたか。それは彼が小アジアに着いた時を知るうえにどう役立ちますか。
14 亡命中のテミストクレスが小アジアで死んだのはアルタシャスタの治世のときです。紀元前1世紀のギリシャの歴史家でシシリーの人デオドラスの年代記によれば,テミストクレスの死は紀元前471年とされています。次の事実から見てテミストクレスが小アジアに着いたのは,紀元前473年であったに違いありません。小アジアに着くと同時に彼は接見を求める手紙をアルタシャスタ王に送りましたが,まずペルシャ語を学ぶために1年間の猶予を得てのち王の前に出てギリシャ征服の策を被露したいと申し述べました。その願いはアルタシャスタにいれられ,テミストクレスはその年の末になって王の前に現われました。
15 (ギリシャの歴史家)ツキディディスは,テミストクレスが紀元前473年に小アジアにのがれたという説をどのように裏づけていますか。
15 ペルシャ人アルタシャスタ王の時代の人であるギリシャ,アテネの歴史家ツキディデスによれば,テミストクレス将軍が故国をのがれてアジア(ペルシャ)に来たのは,アルタシャスタが「王位に上って間もない」時であったということです。―ツキディディス,第1巻137章。
16 歴史家ネポスはツキディディスの言葉をどのように裏づけていますか。(注)ギリシャの伝記作家プルタークは,ツキディディスと一致するどんな言葉を述べていますか。
16 紀元前1世紀ローマの歴史家ネポスの次の言葉はツキディディスを支持しています。「たいていの歴史家によれば,テミストクレスがアジアにおもむいたのはクセルクセスの治世の時であったとされる。しかしわたしは他のだれよりもツキディディスの言葉をとりたい。当時の記録を残した者のうちで,彼は時間的にテミストクレスに最も近く,また同じ町の出だからである。ツキディディスによれば,テミストクレスはアルタシャスタの許に行った」。―ネポス,「テミストクレス」第9章。a
17 (イ)ジェロームは,テミストクレスがいつアジアに着いたと述べていますか。(ロ)ヘングステンベルグという学者によれば,アルタシャスタの治世はいつ始まりましたか。
17 ジェロームの「ユウセビウス」は,テミストクレスのアジア到着を第76オリンピア紀(紀元前776年から起算する4年ずつの期間)の第4年すなわち紀元前473年としています。ドイツの学者エルンスト・ヘングステンベルグによれば,アルタシャスタの治世は紀元前474年に始まりました。
18 前述の歴史的資料から,どんな重要な年が確立されますか。
18 これら歴史の記録から非常に重要な年すなわちアルタシャスタの治世第1年を確立できます。テミストクレスが紀元前473年アジアに着いたとき,アルタシャスタは「王位に上って間もない」頃だったのですから,アルタシャスタの治世の始まりを紀元前474年とする説は確かなものと思われます。
七十週は何時始まったか
19 ネヘミヤの数え方では,年の初めと終わりはそれぞれいつでしたか。それは今日のどんな暦と一致していますか。
19 さてダニエル書 9章24節から27節にしるされた時の預言の始まりについて,ネヘミヤは少しも疑問の余地を残していません。ネヘミヤの暦はチスリの月(9,10月。今日のユダヤ人の普通の暦と同じ)に始まり12番目の月エルル(8,9月)に終わりました。ユダヤ人の窮状とエルサレムの荒れた状態を告げる知らせがネヘミヤにもたらされたキスレウの月はチスリから数えて3番目の月であり,11月と12月の両方にかかります。ネヘミヤの言葉をみましょう。(ネヘミヤ 1:1,2)
20 ネヘミヤは,エレサレムの状態を伝える報告をいつ受け取ったと述べていますか。
20 「第二十年のキスレウの月に,わたしが首都スサにいた時,わたしの兄弟のひとりハナニが数人の者と共にユダから来たので,わたしは捕囚を免れて生き残ったユダヤ人の事およびエルサレムの事を尋ねた」。
21 (イ)エステル書の筆者の数え方によれば,年はいつ始まっていつ終わりましたか。(ロ)クセルクセスの第1年および第12年は,それぞれいつからいつまでですか。(ハ)ネヘミヤは年の初めと終わりをそれぞれいつにして数えていますか。(ニ)アルタシャスタの第1年と第20年は,それぞれいつにあたりますか。(注)クセルクセスの統治の終わりとアルタシャスタの統治の第1年が紀元前474年になることを,たとえで説明しなさい
21 現行のグレゴリー暦では,アルタシャスタの第20年は何年になりますか。次のような年代的証拠をあげることができます。クセルクセスの統治は紀元前486年12月に始まりました。エステル書の記録は春(ニサンすなわち3,4月)を年の初めにしていますから,クセルクセスの第1年はグレゴリー暦で言うと紀元前485年の2,3月に終わったことになります。(エステル 9:1)クセルクセスの第12年は475年の3,4月から474年の2,3月にわたりました。クセルクセスが第12年を越した(すなわち前述の如く,アダル〔474年の2,3月〕を越して13年目を迎えた)ことは十分に考えられます。アルタシャスタは同じ年つまり474年に王位を継ぎました。しかしネヘミヤの暦は秋(チスリすなわち9,10月)を年の初めにしていますから,アルタシャスタの治世は475年チスリから474年チスリにわたる暦年に始まったのです。b (ネヘミヤ 1:1; 2:1)従ってアルタシャスタの第20年は,紀元前456年9,10月から紀元前455年8,9月までとなります。
22 ネヘミヤの願いは何でしたか。彼はそれをはたす機会をいつ得ましたか。
22 エホバ神の熱心なしもべネヘミヤは,エホバがみ名をおかれた町エルサレムにおける真の崇拝に切実な関心をはらっていました。エルサレムに関する悪い知らせを聞くと,ネヘミヤはエルサレムの救援におもむくことを願ってエホバに祈ります。アルタシャスタのこの同じ20年,陰暦第7の月に,酒人ネヘミヤは王の許しを得るためこの事柄を言上する機会を得ました。それは紀元前455年,ネヘミヤの数え方によればニサン(3,4月)の月のことです。ネヘミヤは次のように述べています「アルタシャスタ王の第二十年,ニサンの月に,王の前に酒が出た時,わたしは酒をついで王にささげた」。「こうして王がわたしをつかわすことをよしとされたので,わたしは期間を定めて王に申しあげた」。(ネヘミヤ 2:1,6)ネヘミヤは迅速に行動しました。
23 時に関する他の預言の場合とおなじく,「七十週」の期間を数え始めるのはいつですか。
23 70年にわたるエルサレムの荒廃が終わりを告げたのは,宮の礎をすえるためにユダヤ人がエルサレムに到着して,クロスの勅令が実施された時です。同様に七十週もアルタシャスタの勅令が実施されたとき,すなわちネヘミヤがユダヤ人と共にエルサレムに着いてのち,城壁建設の命令を下した時から始まります。次に町の建設命令がいつ,実施されたかを調べましょう。
24 アルタシャスタの命令が実施されるまでには,発布以後少なくともどれだけの時がたちましたか。それは何年何月何日になりますか。(注)(イ)ヘングステンベルグという学者は,アルタシャスタの第1年と第20年をそれぞれ何年としていますか。(ロ)それは他の歴史家によってどのように裏づけられていますか。
24 王の冬の宮殿があったシュシャンからエルサレムまではおよそ4ヵ月の旅を要する道のりです。従ってネヘミヤの到着は11番目の月アブの初め頃となります。ネヘミヤは休息と協議のために3日を費やしてのち,夜の間に城壁を視察し,それから建設開始の命令を出しました。これは紀元前455年アブの月の3日ないし4日,すなわち紀元前455年7月26,27日ないし27,28日となります。それはなおアルタシャスタの20年目です。c (ネヘミヤ 2:11-18)ダニエルの重要な預言に述べられた時の起算点はこれです。エルサレム再建の命令が実施されたのはその時でした。d
七十週の長さと終わり
25 (イ)成就において,70週および69週はそれぞれどれだけの長さですか。(ロ)週はいつから数え始められますか。69週の終わった時をどのように計算しますか。
25 預言的な週の長さについて言うと,アメリカ訳およびジェイムス・モハット博士の訳はダニエル書 9章24節から27節の表現を「七十週の年」と訳しています。それでこれは一週を7年とする70「週」であり,490年(70×7)のことです。メシヤは69週の年(7+62)を経てのちに現われるでしょう。この預言に従って紀元前455年から数えると,メシヤなる君の出現する年はいつになりますか。
[図表]
紀元前455年から紀元前1年=454年
紀元前1年から西暦1年=1年
西暦1年から西暦29年=28年
69週の年=483年
26 (イ)この預言によれば,メシヤはいつ現われるはずですか。(ロ)だれがその年に現われて,預言は成就されましたか。なぜそのとき彼をメシヤと呼ぶことができましたか。(ハ)メシヤを確認する証拠がほかにありましたか。(ニ)69週の始まった時に関して,どんな興味深い事実がありますか。(ホ)城壁はいつ完成しましたか。
26 従ってメシヤの現われるべき年は西暦29年です。その年イエスが現われ,ヨルダン川でヨハネによってバプテスマを受け,天からの聖霊を受けて油そそがれ,「油そそがれた」あるいは「油そそがれた者」を意味するメシヤすなわちキリストになったことは,証明された歴史の事実です。その時まで彼はイエスという人でした。しかし聖霊によって油そそがれるまでは,イエスを油そそがれた者と呼ぶことはできません。ヨハネはイエスが油そそがれたことをあかしし,エホバは象徴であるはと,および天からのみ声によってあかしを立てられました。(ルカ 3:1,2,21-23)時が正確に数えられていることを示して興味深いのは,69週の始まった年の初めがニサンではなくてチスリであったことです。イエスがバプテスマを受けて油そそがれたのもチスリの月でした。城壁の建設を始めた月は,ネヘミヤ記 6章15節の次の言葉からうかがわれます。「こうして城壁は五十二日を経て,エルルの月〔12番目の月〕の二十五日に完成した」。エルルの前月アブは30日の月ですから,城壁の建設は紀元前455年アブの4日すなわち7月27日,28日に始まり,紀元前455年9月16,17日に完了したに違いありません。それはなおアルタシャスタの第20年にはいります。
27 紀元前455年がシオンに対する恵みの年として注目されるのはなぜですか。
27 たしかにダニエルの預言は真実です。ペルシャ王アルタシャスタ・ロンジマナスの第20年は,シオンに神の恵みが示され始めた時として特筆すべき年です。それは歴史上最も顕著な年の一つにかぞえられるでしょう。それは長く待ち望まれた神の女のすえ,メシヤの出現に至る69週の年の初めにあたるからです。―ダニエル 9:25。
28 (イ)「七十週」に関するダニエルの預言は,ユダヤ国民と今日のわたしたちにとってどんな目的をはたすものとなりましたか。(ロ)バプテスマのヨハネが現われたとき,ダニエルの預言の示す時にユダヤ人が注目していたことは,どうしてわかりますか。(ハ)第七十週目の半ばと終わりに何が起きましたか。
28 ダニエルのこの著しい預言は400年のあいだ光となってきました。それだけにとどまらず,この預言はユダヤ国民にとり,また今日のわたしたちにとってもメシヤを見分ける最も強力な証拠のひとつでした。483年の期間の過ぎないうちに,メシヤの先駆者に関する預言が成就し,ユダヤ人はバプテスマのヨハネがメシヤの出現を告げるのを聞きました。事実,ダニエルの時の預言を含めて預言を考え,またバプテスマのヨハネのわざを見たユダヤ人は,君なるメシヤの現われることを期待していたのです。ルカによる福音書 3章15節に次の言葉があります。「民衆は救主を待ち望んでいたので,みな心の中でヨハネのことを,もしかしたらこの人がそれではなかろうかと考えていた」。ダニエルの預言通り,最後の週の年の半ば,すなわち3年半の宣教の後にイエスは絶たれました。イエスは秋の月チスリに始まった陰暦の年の半ばにあたるニサンの月の14日に,苦しみの杭の上で死なれました。それから3年半たって七十週目の年が終わりを告げると共に,コルネリオに油がそそがれました。コルネリオは異邦人の中からはじめてキリストのからだの成員に選ばれて油そそがれた人です。―イザヤ 40:3。マタイ 3:3。ダニエル 9:24。
29 ダニエルのこの預言をしらべることからどんな感銘を受けますか。わたしたちは何をすべきですか。なぜそうですか。
29 ひとりびとりの人間のみならず国々の民に関連したこのような預言を成就させるに必要な驚くべき力と先見を考えるとき,分別のある人はイエス・キリストをメシヤとして認め,あるいは少なくとも相当の考慮を払わざるを得ません。生命を真実に願う人はそうします。メシヤは神の女のすえであり,また神の敵を滅ぼすアブラハムのすえだからです。またこのすえによって,全地の民が自分を祝福します。全能の神エホバのみ子であり,油そそがれた王また導き手であるこのかたに信仰を働かせ,その教えを守ることによってそうするのです。―創世 22:17,18。
[脚注]
a 西暦1世紀ギリシャの伝記作家プルタークは,「テミストクレス」の項に次のことを述べています。「ツキディディス,ランプサカスのケアロンによれば,クセルクセスはすでに死んでおり,テミストクレスが接見したのは子のアルタシャスタであった。しかしエフォラス,デノン,クルターカス,ヘラクリデイスその他多くによれば,彼が接見したのはクセルクセスであったという。年代記はツキディディスの述べるところにいっそう良く一致する」。
b たとえて言うと,現行の(グレゴリー)暦(1月から12月にわたる)の場合,ある支配者が1964年12月に死んで,後継者が同じ月に支配を始めたならば,後継者の第1年と前任者の最後の年は1964年です。どちらの出来事も暦年の終わり頃に起きていますが,起きた年を言えば,それは11ヵ月前の1月に始まった1964年という年になります。
c 著名なドイツの学者エルンスト・ヘングステンベルグ(1802-1869)は,ヘンリードッドウエル博士の唱えた紀元前445年のあやまりを歴史的事実によって証明しています。「旧約聖書のキリスト論」第2巻394頁にヘングステンベルグは次のことを述べています。「〔意見の〕相違はアルタシャスタの治世開始の年にのみかかわるものである。この年がキリスト前474年にあたることを知るとき,問題は全く解決される。そうすると普通の数え方によって」アルタシャスタの第20年はキリスト前455年となる……」
アルタシャスタの治世開始の年を紀元前474年とする根拠について,ヘングステンベルグは395頁に次のことを述べています。「クルーガーはクセルクセスの死を474年ないし473年としており,テミストクレスの逃走をその1年後としている」。399頁にヘングステンベルグは,「アルタクセルクセスの治世が51年にわたった『ことを述べていますが,紀元前5世紀のギリシャの歴史家クテシアスは,アルタシャスタの治世を42年としています。―ルノエル・ケイスによるドイツ語からの英訳。ニューヨーク(1836-1839年)第1版,全3巻。
ヘングステンベルグは,プトレミイのカフンがクセルクセスの治世を21年としている,明らかな間違いの原因を,プトレミーが昔の年代記から王の系譜をたどった時,ギリシャ語のiaをkaと読み間違えたことに帰しています。それはギリシャ語でそれぞれ11と21を意味します。
アイルランドの大司教ジェイムス・アッシャ(1581-1656)は年代学者としての見地から(1650年発刊アナルス・ベテリス・エ・ノビ・テストメントラム,「ペルシャ帝国」の項131頁),ペルシャ王アルタシャスタ・ロンジマナス即位の年を紀元前474年としています。しかしこの年代は引照付き聖書に記載されずに終わりました。有名な著述家ビトリンガ(1659-1722)およびクルーガー(1838)も,アルタシャスタの即位を紀元前474年とする点において,アッシャと一致しています。
d マクリントックとストロング,「聖書,神学,キリスト教会に関する文献事典」第9巻は,「ダニエルの七十週の預言」をとりあげ,602頁「1 勅令発布の時期」の見出しの下に次のことを述べています,「バビロンにおける名目的な発布よりも,エルサレムにおける実施の時をもって,勅令公布の時とすべきであると考える。しかし両者の相違は(4ヵ月に過ぎないため)実際に大きな問題ではない。