さばきの型
「これは,あなたがたを,神の国にふさわしい者にしようとする神のさばきが正しいことを,証拠だてるものである。その神の国のために,あなたがたも苦しんているのである」― テサロニケ第2 1:5。
1 浸礼者ヨハネの宣教奉仕にはどんな対照的な事柄がありましたか。
浸礼者ヨハネは,「悔い改めよ,天国は近づいた」ということばで宣教を始めました。ヨハネは自分の宣教奉仕の恵みを受ける弟子をすぐに集め,「神の国にふさわしい者」となる備えをさせました。同時に彼はふさわしくない宗教指導者に,さばきの日が近く,「斧がすでに木の根もとに置かれている」ことを告げ,あとから来る者が「麦は倉に納め,からは消えない火で焼き捨てるであろう」と言いました。―マタイ 3:1,2,7-12。テサロニケ第二 1:5。
2 型とは何ですか。イエスはご自分の宣教活動で型をどのように始められましたか。
2 あとから来た者つまりイエスはヨハネが捕えられたことを聞いてすぐ,「悔い改めよ,天国は近づいた」という同じ音信を伝え始めました。(マタイ 4:12,17)ここでイエスはさばきの型を作り始められました。すなわち一定の目的によって定まる調和のとれたデザインを作りあげたのです。型とはつまりこのようなものです。材料つまり最も大切な時間的要素は御国の音信の伝道によって示されました。金持ちとラザロのたとえ話に先だってイエスが言われたごとく,『律法と預言者とはヨハネの時までであり,それ以来,神の国が福音として宣べ伝えられ』ていました。―ルカ 16:16。
3 ルカによる福音書 16章17,18節が記録するとおり,イエスはどんな二つの要素をとりあげましたか。
3 そののちイエスは要素をあと二つとりあげました。まずこう言われます。「律法の一画が落ちる〔成就せずに終わる〕よりは,天地の滅びる方が,もっとたやすい」。ついで言われます。「すべて自分の妻を出して他の女をめとる者は,姦淫を行うものであり,また,夫から出された女をめとる者も,姦淫を行うものである」。(ルカ 16:17,18)聞いていた人々はこれら二つのことばに関係があることを悟らなかったでしょう。事実,この点が明らかになったのは使徒パウロの霊感の書物がクリスチャン会衆に与えられてからです。今日のわたしたちはそれらの書物を学ぶことにより,これら二つの要素を調べ,そこに含まれる目的を知ることができます。
4 イエスは律法をどのように成就されましたか。どんな本体をきたらせ,どんな結果をもたらされましたか。
4 イエスは律法の要求に完全に従って律法を守られただけでなく,それを成就されました。かつてイエスは,「(わたしは)廃するためではなく,成就するためにきた」と言われ,また「一点,一画もすたることはなく,ことごとく全うされる」と言われました。(マタイ 5:17,18)律法は「きたるべきものの影〔もしくは「ひな型」〕であって,その主体はキリストにある」。(コロサイ 2:17。ヘブル 8:5; 10:1)その生涯といけにえの死によってイエスは本体を到来させました。律法の主要な規定の一つは罪のためのいけにえ特にあがないの日にささげるいけにえでした。しかしそうした動物のいけにえは「決して罪を除き去ることができない。しかるに,キリストは(ご自分の完全な人間の命を捨てて死ぬことにより)多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげ」られました。(ヘブル 10:11,12)イエスの死はきわめて大きな変化をもたらす基礎となり,ユダヤ人の「ラザロ」級の者を初め,イエスの死に信仰を働かす者が偉大な益を受ける道を開きました。それでパウロは,昔の律法契約は成就し,イエスがつけられた刑柱に釘づけにされて取り除かれたと述べています。(コロサイ 2:14)しかしこのことは次の要素,つまり離婚と姦淫に関するイエスのことばとどんな関係があるのですか。
5 律法から「解かれた」者のことをパウロはどんなたとえで説明しましたか。
5 「ご自身を傷なき者として神にささげ」,受け入れられたイエスは「新しい契約の仲保者」になりました。(ヘブル 9:14,15)パウロはユダヤ人がその時まで律法契約につながれていたことをこう述べました。「夫のある女は,夫が生きている間は,律法によって彼につながれている……もし,夫が死ねば,その律法から解かれるので,他の男に行っても,淫婦とはならない。わたしの兄弟たちよ。このように,あなたがたも,キリストのからだをとおして,律法に対して死んだのである。それは,あなたがたが他の人,すなわち,死人の中からよみがえられたかたのものとなり,こうして,わたしたちが,神のために実を結ぶに至るためなのである」。パウロは「ラザロ」級の自分の兄弟にこう語ったのであり,「律法から解かれ」たのはこの種の人々だけです。―ローマ 7:1-6。
6 離婚についてイエスはどんな標準を立てられましたか。これはパリサイ人にどうはたらきましたか。
6 これと対照的に,離婚と姦淫に関するイエスのことばは主として,「金持」級に属するパリサイ人に語られました。彼らは律法から解かれていませんでした。律法は離婚に関する規定を設け,二人以上の妻を持つことを許していましたが,イエスは新しい契約内もしくは契約下で神の恵みを受ける人すべてに神の最初の標準を復興されました。アダムとエバに離婚は許されていませんでした。それで,性関係上の不忠実ということ以外の理由でクリスチャンが配偶者と離婚し,その配偶者の生存中に再婚するのは姦淫です。それで,この問題について言い伝えや当時まだ成文化していなかったタルマッドの教えに頼っていたパリサイ人に対するイエスのことばは,彼らを刺激するものでした。それは彼らの苦しみの一部でした。―申命 24:1-14。マタイ 19:3-9。
7 イエスは自分の死による益をどのように予期しておられましたか。
7 こうしてわたしたちは,さばきの型がしだいに形をなしてゆくのを見ることができます。しかし,イエスの死によって保証される変化がイエスの死以前にすでに実現し始めていたことに注意してください。浸礼者ヨハネおよびイエスの音信と活動は,律法と預言者により予表また予告された事柄のすべてをイエスが必ず成就するという強い信仰に基づいていました。このことの証拠として,刑柱につけられる前の晩にご自分の死の記念式を始めたイエスは,杯を弟子に回しながら言われました。「この杯は,あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である……それで,わたしの父が国の支配をわたしにゆだねてくださったように,わたしもそれをあなたがたにゆだね(る)」― ルカ 22:20,29。
8 イエスが御国の音信を宣明したことの結果を述べなさい。
8 変化を遅らせる必要はありませんでした。御国の福音の宣明はここで取りあげる二つの級の状態を完全に逆転させ始めました。その時以来,それら二つの級はいずれもそれまでの状態と経験については死にました。イエスのたとえ話でラザロと金持ちが死んだことはこのことを表わしています。モーセの律法の成就としてイエスが死んだとき,「ラザロ」級はその律法に対して死にました。その後,五旬節の時,注がれた聖霊によって大いなるアブラハムのふところにいるという保証を得ました。イエスのたとえ話の中でその後どんなことが起きましたか。それにはどんな意味がありましたか。この点を調べましょう。
アブラハム,重要な人物
9,10 (イ)イエスはたとえ話にどんな重要人物を登場させましたか。(ロ)パリサイ人はアブラハムとの関係をどう見ていましたか。(ハ)彼らの結論はどの点で誤っていませんでしたか。どの点では誤りでしたか。
9 光景を想像してごらんなさい。ヘーデースの苦しみの中で目を上げた金持ちは何を見ますか。ほかでもありません。かつてこじきであった者がいまはアブラハムのふところの地位を楽しんでいるのが遠くに見えるではありませんか。これは同じ食卓にもたれてある人と食事をするような,きわめて恵まれた立場です。(ルカ 16:23。ヨハネ 13:23もごらんください)ここにアブラハムを登場させたことには大きな意味があります。これはさばきの型全体にきわめて重要な要素です。アブラハムはだれを表わしていますか。イエスはこのときパリサイ人に向かって話していたことを思い出してください。宗教上の支配者であったパリサイ人は,自分たちだけがアブラハムのふところの地位を得ると考え,一般民衆のことを全く考えに入れませんでした。これら支配者は以前イエスに会ったとき,「わたしたちはアブラハムの子孫であ(る)」,また「わたしたちの父はアブラハムである」,さらにまた「わたしたちにはひとりの父がある。それは神である」と言いました。―ヨハネ 8:33,39,41。
10 これから明らかなように,アブラハムは神を表わすとパリサイ人は考えました。この点で彼らの考えは誤りではありません。彼らが誤っていたのは,アブラハムの子また神の子であると主張したことです。神の目からみるなら,この関係は血筋ではなく,心の性質とわざによって決められるべきものでした。それでイエスは彼らに答えて言われました。「もしアブラハムの子であるなら,アブラハムのわざをするがよい」。また言われました。「あなたがたは自分の父,すなわち,悪魔から出てきた者であって,その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから,人殺しであ(る)」― ヨハネ 8:39,44。
11 イエスをメシヤとして迎えるにはなぜ信仰が肝要でしたか。
11 これは,かつての金持ちがアブラハムのふところから遠く離されたというイエスのたとえの意味を説明するものですが,ラザロが死後ただちにアブラハムのふところの地位に移された理由がつぎに疑問になるかもしれません。(ルカ 16:22)大切なのは信仰です。イエスは予期に反し,王としてではなく,「罪の肉の様で」,また「ほふり場にひかれて行く小羊のように」来られました。(ローマ 8:3。イザヤ 53:7)このイエスをメシヤとして迎えるには真の信仰が必要でした。そうした信仰を示したのは高ぶる者たちではなく,へりくだった人々でした。「行く先を知らないで,〔自分の国を〕出て行った」アブラハムのごとく,彼らは信仰のゆえに自分の所を出て行きました。(ヘブル 11:8)彼らはイエスの弟子となり,やがて五旬節の日に聖霊を受けてクリスチャンとなりました。これらの人々についてパウロは書きました。「すべて神の御霊に導かれている者は,すなわち,神の子である……御霊みずから,わたしたちの霊と共に,わたしたちが神の子であることをあかしして下さる」― ローマ 8:14-16。
12 信仰の者はその後さらにどんな祝福を得ましたか。
12 パウロはこれらの人についてこうも述べました。「信仰による者こそアブラハムの子である……〔そして〕信仰の人アブラハムと共に,祝福を受けるのである」。どのように? アブラハムに対しては,彼のすえによって「地のもろもろの国民は……祝福を得る」という約束が与えられました。このすえは主としてイエス・キリストです。しかし神の豊かな過分の恵みにしたがって,キリストと共にそのすえの一部となる特権が他の者にもさしのべられました。それでパウロは再び言いました。「あなたがたはみな,キリスト・イエスにある信仰によって,神の子なのである……キリストのものであるなら,あなたがたはアブラハムの子孫であり,約束による相続人なのである」― ガラテヤ 3:7-9,16,26-29。創世 22:18。
13 (イ)「ラザロ」級を最初に構成したのはだれですか。(ロ)ヨハネとイエスがそれらの者に対する使いとなったことを述べなさい。
13 それで要約すれば,神の御霊に導かれるクリスチャン会衆の成員は神の子です。またアブラハムのような信仰を持ち,キリスト・イエスと共にアブラハムのすえ,つまり御国を中心とする神の目的を実現するための器を構成するゆえ,アブラハムの子とも呼ばれます。これらの者が「ラザロ」級です。その初めは,自分の霊的な必要を意識し,神の使者となった浸礼者ヨハネとイエスの音信に信仰を働かせたユダヤ人です。事実,ヨハネとイエスはアブラハムとそのすえに対する誓いの下になされた神の約束に伴う壮大な祝福にこれらのユダヤ人をあずからせるための使いもしくは使者となりました。それで,イエスのたとえ話のラザロが,直ちに「御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた」のも不思議ではありません。―ルカ 16:22。
14 多くの非ユダヤ人が神の恵みに来ることはどのように示されましたか。
14 当初「ラザロ」級は信仰のユダヤ人に限られていましたが,いつまでもそうであったわけではありません。普通以上の信仰を示したある異邦人の士官にイエスは言われました。「あなたがたに言うが,多くの人が東から西からきて,天国で,アブラハム,イサク,ヤコブと共に宴会の席につくが,この国の子らは外のやみに追い出され,そこで泣き叫んだり,歯がみをしたりするであろう」。(マタイ 8:5-12)これはそれまで神から離れ,こじきのような状態にあった非ユダヤ人の多くの者がいたる所から集められ,ふところにいるような神の恵みの地位に入れられることを示していました。パウロは述べました。「聖書は,神が異邦人を信仰によって義とされることを,あらかじめ知って,アブラハムに,『あなたによって,すべての国民は祝福されるであろう』との良い知らせを,予告したのである」。(ガラテヤ 3:8)しかし,アブラハムの生来の子孫であるから神の国の重要な地位すべてを当然に相続すると考えた者たちは,自分が捨てられたことを知って苦しみます。
15 イエスはマタイによる福音書 8章11節で神権政府をどのように描かれましたか。
15 ここでアブラハムと並んでイサクとヤコブが登場したことは,神権政府である御国の完全な姿を示すものです。信仰の人の父であるアブラハムは,諸国民に対するすべての祝福の真の源であられる天の父エホバを表わしています。アブラハムの子イサクは神のみ子イエス・キリストを表わしています。アブラハムがモリア山でむすこイサクを犠牲としてささげあるいはまさにささげようとしたことは,エホバがご自分のひとり子を実際に犠牲にされることを予表していました。ついで,イサクの子ヤコブはクリスチャン会衆を表わしています。ヤコブがイサクを通じてアブラハムから命を得たごとく,クリスチャン会衆はイエス・キリストを通じてエホバから霊的な命を得ます。この会衆は忠実なユダヤ人の残れる者をもって始まりましたが,五旬節の日から約3年半後,御国の福音はコルネリオを初め異邦人にも伝えられました。それ以来,諸国の人がいたる所から集められ,数を満たしています。それらの人のすべてが「ラザロ」級を構成します。
神の「さばき」は「大きな淵」
16 金持ちの願いはラザロに対する彼の真意をどのように示していますか。またどんな心の性質を示すものですか。
16 イエスのたとえ話の終わりの部分は金持ちとアブラハムとの論議です。この部分に注意すると神のさばきのことばをさらに読むことができます。金持ちが二つの願いをしたことに注意してください。まず,ラザロをつかわし,火で苦しむ彼の舌を一滴の水で冷やしてくださいと頼んでいます。これを聞き入れられなかった金持ちは,その苦しみの場所について自分の5人の兄弟に警告するためラザロをつかわすことを求めました。(ルカ 16:24-28)何はともあれ,ラザロをアブラハムのふところから出し,そこから離そうとしているのです! ラザロをアブラハムのもとに運んだみ使いのすばやさを知る彼は,これら慈悲の仕事のためにもみ使いの派遣されることをなぜ求めないのですか。ともかく,使者となって使い走りをするのはラザロでなければなりません。イエスがたとえ話の金持ちについて述べたことからするなら,ラザロが実際につかわされ,金持ちの舌を一滴の水で冷やすためその指を彼の口に入れるなら,金持ちはラザロの指をつかみ,彼をそこにとめおいたであろうことは想像に難くありません。事実わたしたちは,律法学者とパリサイ人は力をつくして「一人の改宗者を得」,ひとたびこれを得るなら「己に倍したるゲヘナの子」とするとイエスが言われたのを知っています。―マタイ 23:15,文語。
17 宗教支配者は「ラザロ」級からの救いをなぜ,またどのように得ようとしましたか。
17 これを字義どおりにとることはいかにも愚かです。しかし,イエスが心にとめておられた二つの級について考えるなら,これはいかにも事実にかなっています。それでわたしたちは尋ねます。宗教支配者は「ラザロ」級からのわずか一滴の水の救いをどのように得ようとしましたか。さげすまれたイエスの追随者がただイエスに従い,沈黙していたなら,これら宗教支配者はそれほど苦しまなかったでしょう。しかしイエスの追随者は訓練され,初めに12人,ついで70人が宣教につかわされました。いま,アブラハムのすえとして天からの恵みを人に伝え,病める者をいやし,神の国を伝道しているのは,支配者でなくこれらイエスの追随者です。(ルカ 9:1,2; 10:1,9)五旬節の日に約120人の者は聖霊の力を受けて異言を語り,その日のうちにさらに3000人が彼らの仲間に加えられました。しかも彼らは何と大胆でしょう! 公衆の前でもサンヒドリンでも,使徒ペテロおよびステパノを初めとする他の者は,それら支配者の責任と殺人の罪を公にするのを少しもためらいません。(使行 2:23; 3:14,17; 4:10; 5:30; 7:52)「金持」級はアブラハムの生来の子孫として,比ゆ的な意味で,「父,アブラハムよ,わたしをあわれんでください」と叫び,この「ラザロ」級にほんの一語でも私たちのために良いことを語らせてくださいと言いました。アブラハムはどう答えましたか。
18 アブラハムの答えがさばきの型の両側を適切に描いていることを述べなさい。
18 アブラハムの最初のことばはただ事実を述べるものでした。「子よ,思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け,ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは,彼は慰められ,あなたは苦しみもだえている」。(ルカ 16:25)金持ちに対するこのことばには一語の無駄もありません。なぜ? なぜならイエスは,検閲のときにあって自分が神のしもべであることを知っておられたからです。イエスは真実のアブラハムのすえであり,そのようなすえをのろう者は神にのろわれました。(創世 12:3)一つの級として,「金持」は自分の時代を終えました。彼は「生前よいものを受け」,本来なら必要のある人にそれを分け与えることが容易にできたはずです。しかしこの級はそのような意向のあることを少しも示しませんでした。そして今,神からの有罪のさばきが彼らに現われたのです。「ラザロ」級に対しても神からのさばきが現われました。それは是認のさばきでした。これがさばきの型であり,一方の側が他方の側と釣合い,相殺し合う絵画のデザインに似ています。そして強調のため太い線が中央にはっきり引かれます。「大きな淵」のことが語られるのはここです。金持ちに対するアブラハムの次の言葉に注意して下さい。
19 「大きな淵」の影響と意味について述べなさい。
19 「そればかりか,わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって,こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし,そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない」。(ルカ 16:26)友交の必要はありません!「ラザロ」級が妥協して,「金持」級に和親のことばを述べることはできません。イエスはさばきの型においてこれが重要な要素であること,そして神の「さばきは大きな淵のよう」であることを知っておられました。(詩 36:6)注意してください。それぞれの級に対するさばきは最終的です。一つの級あるいはそれを支持する級が他方に渡ることはできません。しかし個々の人が生きている間に他方の級に移ることは可能であり,実際にそうした人がいます。顕著な例は使徒パウロです。彼は「ユダヤ教を信じていた」ころには「ラザロ」級を激しく迫害していました。(ガラテヤ 1:13-17)パリサイ人とサドカイ人を「まむしの子らよ」と呼んだ浸礼者ヨハネはつづいて,「悔改めにふさわしい実を結べ」とも言いました。彼らの中にはのちにそうした者もいます。―マタイ 3:7,8。使行 6:7。
20 たとえ話の金持ちは次にどんな訴えをしましたか。そのことはイエス時代にどのように実現していましたか。
20 「金持」級の心の態度を知っておられたイエスは,たとえ話の中に金持ちの語る言葉をさらに加えました。その大きな淵を無視し,あるいはそれを避けようとした金持ちは嘆願して言いました。「父よ,ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。わたしに五人の兄弟がいますので,こんな苦しい所へ来ることがないように,彼らに警告していただきたいのです」。(ルカ 16:27,28)よく注意して下さい。彼はアブラハムを父と呼びながら,自分の5人の兄弟のいる家にさらに親密な父親のいることを語っています。ユダヤ教の家は人間の言い伝えの上に立っており,宗教支配者はそこに所属していることをイエスは知っておられました。激しい迫害や殺害をさえ扇動したのはその家です。その父は「人殺し」である悪魔です。(ヨハネ 8:44)5人の兄弟(金持ちも加えれば6人になり,6は悪魔の組織の象徴)は宗教支配者を支持し,賛美する人々全体を表わし,同じ精神を示しています。支配者は自分だけでなく,支持者の前でも自分が暴露されるのを免れようとしました。もしこれらの者つまり兄弟たちも象徴的な意味で死に,自分と同じ所に来るなら,それはただ自分の苦しみが増す結果になるでしょう。それで事実上,それら支配者は「ラザロ」級が神の恵みの地位を離れ,「警告」に行くことを求めます。それはさばきの音信を伝えるためではなく,支配者もその支持者も苦しみにさらされていなかった検閲の時以前の状態に物事が復帰しているとの体裁を与えるためでした。
21 アブラハムはどんな重要な答えをしましたか。
21 そのようなことは行なわれますか。アブラハムはどう答えましたか。「アブラハムは言った,『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』」。(ルカ 16:29)神の真理の言葉こそ頼るべきものであり,それをおいてほかに頼るべきものはありません! 人々とその支配者に語り,近づいていたさばきの音信を伝えたイエスは,これを唯一のよりどころとしておられました。「ラザロ」級についても同じです。たとえば,五旬節におけるペテロの強力で感動的な話はヘブル語聖書つまりモーセ(律法)と預言書と詩篇からの引用に全く基づいていました。3000人が直ちに応じ,バプテスマを受けた事は,ユダヤ教の信者となっていた者も含め喜んで聞く人には,ヘブル語聖書そのものが十分な警告また導きになることの証拠でした。―使行 2:41。
22 (イ)金持ちの最後の願いごとは何ですか。(ロ)それは何を迫るものでしたか。しるしを求めた者にイエスはどう答えましたか。
22 しかし金持ちはこれで終わりにしていません。いよいよ本性を表わし,粗暴にもアブラハムに異議を唱えて言いました。「いえいえ,父アブラハムよ,もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら,彼らは悔い改めるでしょう」。(ルカ 16:30)つまり彼はだれかが死からよみがえるという劇的なしるしが必要であるとしたのです。これは聖書から伝道することも,あるいはユダヤ教の言い伝えを暴露することも不必要にするでしょう。パリサイ人や他の者は「天からのしるしを見せてもらいたい」とイエスに一再ならず頼んでいます。イエスは答えました。「邪悪で不義な時代は,しるしを求める。しかし,ヨナのしるしのほかには,なんのしるしも与えられないであろう」。ニネベ人にとってヨナは十分なしるしでした。『ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたのである。しかし見よ,ヨナにまさる者がここにいる』とイエスは言われました。(マタイ 16:1-4; 12:38-41)イエスはヨナをはるかに上まわる権威と裏づけをもって伝道しました。しかしその結果をイエスはこう言われました。「あなたがたは,しるしと奇跡とを見ない限り,決して信じないだろう」― ヨハネ 4:48。
23 アブラハムの最後のことばが適切であり,事実にかなっていることを述べなさい
23 金持ちに対するアブラハムの答えはこれと一致しています。「もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら,死人の中からよみがえってくる者があっても,彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう」。(ルカ 16:31)これはたとえ話の金持ちとその兄弟が表わした級に対する最後のさばきのことばです。聖書にある神の音信に耳を傾けない彼らは,それがイエスであると「ラザロ」級であるとにかかわらず,神の音信を伝える者を見ても悟らないでしょう。イエスは彼らに言われました。「あなたがたは聖書(を)……調べているが,この聖書は,わたしについてあかしをするものである」。イエスはさらに言われました。「もし,あなたがたがモーセを信じたならば,わたしをも信じたであろう。モーセは,わたしについて書いたのである。しかし,モーセの書いたものを信じないならば,どうしてわたしの言葉を信じるだろうか」― ヨハネ 5:39,46,47。
24 このたとえ話で最後に語られたことばはどんな警告と激励を含んでいますか。
24 イエスのたとえ話は力強いさばきのことばで終わっています。それはたとえ話の「大きな淵」のごとく明確なさばきであり,神の是認を受ける者と受けない者を明らかにした正義の「さばき」でした。それは,「聞えにく」い耳と「閉じ」た目を持ち,「目で見ず,耳で聞かず,心で悟らず,悔い改め…ることがない」人々の家全体の罪を定めるものでした。しかし感謝すべきことに,この最後のことばは全く「ラザロ」級に対する是認を示すものです。彼らが得たのは神の恵みと慰めの地位であり,エホバの宴の席で共に食する機会に恵まれたこの地位を,彼らが離れたり,捨てたりする理由や必要は全くないでしょう。
25 これはわたしたちの時代についてどんな疑問を起こさせますか。
25 さばきの型の特徴を現代にあてはめ,平行な線を加えて型を拡大することができますか。イエスのたとえ話は今日のわたしたちにも適切にあてはまりますか。対照的な二つの級を見きわめ,大きな変化つまり立場の逆転がいかに起きているかを見ることができますか。そして,こうした点を調べるわたしたち各自は,神の是認のさばきの下で真の富を得るに必要なことを知ることができますか。