親に感謝を表わす
生きているうちに親に感謝を表わすのと,死んでから親に感謝を表わすのと,どちらがよいですか。
ああ,もう機会はなくなった! あなたもこういう経験をしましたか。これは非常に多くの人が経験することです。どんな機会がなくなったのでしょう。親に感謝を表わす機会です。そうです,生きているあいだに感謝を表わす機会です。
親が死ぬと多くの人はよくこう言います。「もっとよくしてあげればよかった。必要なものや,喜びそうな物をあげる機会はいくらでもあったのに,忙しさのあまり見すごしてしまった。もっとたびたびたずねて行ったり,手紙を出してあげなければいけなかったのに,それもしないでしまった」。
たしかに多くの人は,親が生きているあいだは,年老いても顧みない傾向があります。しかし,親が死ぬと子供は後悔します。生きているときに,もっと思いやりを示してあげればよかったと思います。
親に対して感謝を表わすことは,多くの場合,大がかりなことよりも,むしろちょっとしたことをするかどうかの問題です。小さな親切を示すかどうかの問題です。この小さな親切が大きな意味をもつのですが,どうかすると見のがされがちです。これはひとつの例ですが,ある家のむすこは,半病人の父親が,アイスクリームを特別好きなことをよく知っていました。それなのに,アイスクリームをたびたび買って帰りながら,父親にそれを分けることはめったにしませんでした。父親が急死してから,彼は自分のために多くのことをしてくれた父親に思いやりを示さなかったことを,ひどく後悔しました。
あなたはどうしますか。両親の姿がしだいにぼやけて消えていくままにしますか。忘れてしまいますか。親が多年にわたって自分のためにしてくれた多くの事柄を人々は忘れがちなので,子供が親のまだ生きている間に,親に対する感謝を行ないによって表わすことは,大変りっぱなことです。
敬意の低下
親にほんとうに感謝している人は,親を尊敬します。しかし今日では,親を尊敬する心は世界的に低下していっています。それは欧米だけに限られた傾向ではありません。
「しかし東洋には先祖崇拝というものがある。それによって両親への尊敬は保たれるのではないか」と人は言うかもしれません。しかしこれがもし生きている親のことを念頭において言われるのであれば,そうではないと言わねばなりません。
実際のところ,東洋の若い人たちも,しだいに親を敬わなくなってきています。たとえば香港では,中国人の母親または父親が,「クイ ムーテン ワ ケ」,つまり子供たちが親のいうことを聞かなくなってしまった,といって嘆くのをよく聞きます。
事実,親たちは,親のどんな権威も懲らしめも無視される傾向がしだいに強くなってきていることを認めます。このことは多くの悲劇を生んでいます。たとえば,香港に住む14歳の少女は,宿題もせずに,テレビのことで弟とけんかをしていました。それで母親はすぐにテレビを切ってしまいました。少女はひどくしかられ,「死んでやる」と言いました。そして彼らが住んでいた5階建てのアパートのバルコニーのほうへ行き,そこから路上に飛びおりて死にました。
生きている親をもっと尊敬し,親に対する感謝の念がもっと深かったならば,この若い中国人の少女が死ぬようなことはなかったはずです。しかしこのような悲劇はなにも珍しいものではありません。幾世紀にもわたり先祖崇拝が行なわれていながら,東洋の大都市の新聞は,若い人々のこれに類似した言動をよく報道します。それは親に対する尊敬の念が,しだいに薄れていることを表わします。
中国本土を見ると,共産主義が勢力を得てから,先祖崇拝は奨励されていないことがわかります。しかし共産主義者たちは,生きている親を敬うことや親に感謝することも,やはり奨励しませんでした。そのかわりに若者たちは,「父母ではなく国家を愛せよ」と教えられました。
このスローガンは,親に対する感謝の念を失わせました。結果はどうでしたか。最近の中国本土文化大革命のとき,どんな事が生じましたか? 若者たちは不法と暴力行為をほしいままにし,親さえ容赦しませんでした。これがいかに悪いことであったかに気づいた中共はいま,親に対する尊敬心をいくばくか取りもどそうと,新しいスローガンの普及につとめています。「あなたの父を愛し,母を愛せよ ― しかしとりわけあなたの国を愛せよ」がその新しいスローガンです。
このことは人間の哲学や伝統に欠陥のあることを表わすものではないでしょうか。そうしたものの多くは,時の試練に耐えることができず,完ぺきでないことが暴露されてきます。
実際にはどちらがよいか
仏教徒,儒教徒,神道信者,および特別どの宗教にも属さない無数の人々も,なんらかの形で,死んだ先祖を崇拝しています。家には仏壇があります。たいていの仏壇は朱塗りで,どちらかの側に家族の名前が金文字で書かれています。仏壇の前では絶えず線香がたかれています。そして多くの場合,食物が供えられています。家族はその前にきて礼拝し,お経をあげます。
中国人は世界の各地にいますが,死者を敬うように,代々子供たちに教えてきました。自分で歩けるころになると,子供たちは仏壇の前で死んだ先祖を拝むようにしつけられます。このつとめを怠る様子が少しでも見られると,すぐに,そして厳しく正されます。
親はこの家族のつとめを子供が忘れないように,子供の心にきざみこむことにつとめます。なぜかというと,死後子供から敬われることが,「あの世」における自分のしあわせと平安を保証する,と信じているからです。また,もし生きている者が敬意を示さなければ,死んだ先祖は敵意をもつ霊となってもどり,生きている者をのろう,とも信じられています。先祖崇拝は幾世紀にもわたって行なわれてきましたが,生きている親に真の幸福をもたらしていません。
それでどちらがよいでしょうか。先祖崇拝ですか,それとも生きている親を尊敬し,感謝を表わすことですか。あなたはどう思いますか。死後敬ってもらうほうを好みますか,それとも生きているあいだに子供たちと愛のある交わりをし,子供たちから敬われるほうがよいですか。
聖書の教える道のほうがよい道
少しまえ,ある中国人の母親は,この質問に直面しました。彼女は,ひとりのむすこが家族の儀式に加わらないので,ほかの子供たちと違う,といってこぼしていました。このむすこは,私が死んでも拝んではくれないだろう,と彼女は考えていたのです。けれども,そのむすこはとても親孝行でした。
その中国人の母親は,彼女のむすこが両親のすまいとしてアパートを買い与えたことを指摘されました。また彼は,年老いた両親が働かなくてもいいように,自分の給料の中から月々仕送りをしていました。妻とふたりの子供を養いながら,それだけのことをしていたのです。そう言われて母親は,そのむすこが,自分の生きているあいだに自分に感謝の気持ちを表わしていることを悟りました。
彼女のむすこが変わっているのはなぜでしょうか。なぜ彼は,両親が生きているあいだに,非常に愛のこもった,実際的な方法で,両親を養うのでしょうか。それは,最古の聖なる書,聖書から学んだことを信じ,実行しているからです。
この本は,生きている親に感謝を示すことをすすめています。「汝の神エホバの命じたまふごとく汝の父母を敬へ これ…汝の日の長からんため汝に祥のあらんためなり」― 申命 5:16。エペソ 6:1,2。
ほんとうに聖書の道のほうがよいのではないでしょうか。あなたは,今,生きているときに,子供の愛と尊敬を得るほうがよい,と思いませんか。自分が死んだら,子供は仏壇の前で頭を下げてくれるだろう,ということを知って満足するだけよりも,今孝行してもらうほうがよいとは思いませんか。
この若い父親は,子供たちに,仏壇を拝むことを教えていません。つまり彼の家庭では仏壇は無用です。むしろ彼は,子供たちを「エホバの訓戒と思いの調整とによって」育てよという,聖書の健全な助言に従っています。(エペソ 6:4,新)子供たちは,死んでから親を拝むよりも,生きているうちに親に従い,親を敬い,親に感謝することを教えられています。その報いとして彼らは,ひとりびとりがお互いの幸福と福祉に寄与する,一致和合した家庭を築きあげています。
それで,もしあなたが先祖崇拝を信じるかたで,子供さんが聖書の勉強をしているのを発見したとしても,心配するにはおよびません。あなたに対するお子さんの感謝の気持ちはいっそう深くなり,さらによい子に,そしてさらに親を敬う,愛の深い子になります。
死んだ先祖を恐れる理由があるか
あなたは先祖崇拝に意味があると信じていますか。そうだとすれば,なぜ信じているのですか。死んだ先祖は,ほんとうに香のかおりをかぐことができますか。死んだ先祖はほんとうに食物を食べ,それから益を得ることができますか。死んだ先祖は,ほんとうに生きている者に害を与えるのですか。あなたが先祖崇拝を支持するひとつの理由は,死後「あの世」があると信じているからです。しかし「あの世」はあるのでしょうか。
聖書によるとそういうものはありません。孔子や仏陀の時代よりも400年以上の昔,聖書の記述者たちは,人間は死ぬとき「あの世」へ行くのではないことを証言しています。イスラエルのダビデ王は,神の霊に動かされ,「死にありては汝をおもひいづることなし,陰府[シェオール]にありては誰かなんぢに感謝せん」と述べています。(詩 6:5[新])別の詩篇作者は,人間が死ぬとどうなるかを明確に描写し,こう言いました。「その気息いでゆけばかれ土にかへる,その日かれがもろもろの企図はほろびん」。(詩 146:4)これらのことばに重みをそえるのは,ソロモン王のことばです。彼はつぎのように書きました。「生者はその死なんことを知る然れど死る者は何事をも知らず」― 伝道 9:5。
これら古い時代に書かれた聖書の内容は,真実性にかんする試練に耐えてきました。死者の状態について聖書が述べていることは,今日でも依然として真実です。科学者も医師も,人間に,肉体の死を生き残る,意識ある生きた部分があるという証拠は何も発見していません。
死後「あの世」があるという思想は,聖書の教えるところではありません。したがって死んだ先祖たちは,だれを害することも,のろうこともできません。彼らは「あの世」で生きているのではなく,眠っていて,全く無意識だからです。
もしあなたが,先祖を崇拝するご両親をもつ若い人ならば,あなたのご両親は,あなたが聖書の勉強をはじめると,あまり喜ばないでしょう。この場合どのようにご両親を助けてあげられますか。聖書の教えによると,死者は眠っているのであって,「あの世」で意識をもっているのではない,ということを説明するとよいでしょう。また,自分は聖書を学ぶことによって,よりよいむすこ,または娘になれると説明してください。死んでから儀式をとおして敬われるだけよりも,生きているあいだに愛され,敬われるほうが望ましいことを両親が悟るように助けてあげましょう。聖書は,両親が生きているあいだに両親に孝行を尽くすよう勧めていることを,わからせてあげてください。
死んだ先祖の将来
しかし両親をなくし,生きているときにもっと孝行をしておけばよかった,と考えている人はどうですか。そういう人たちも,聖書に一致した希望がもてます。死者にかんして真理を告げているその同じ聖なる書は,死者にも希望があること,ふたたび生きる希望のあることを告げているからです。
昔の忠実な人々はこの希望を大切にしました。預言者イザヤは,仲間のイスラエル人たちに,「なんぢの死者はいき」と保証しています。(イザヤ 26:19)また人間の創造者自身も,その預言者ダニエルに,彼が死んで墓で休んだのち,ふたたび生きることを約束されています。―ダニエル 12:13。
しかし死者の復活がある前に,この地上には大きな変化が起こらねばなりません。神のお目的は,わたしたちのこの美しい地を滅ぼす者をすべて地上から一掃することです。(黙示 11:18)その時は今や非常に近づいています。
それから神は,ご自分の予定に従い,み子イエス・キリストを用いて死者を復活させます。そしてヨハネ伝 5章28,29節の,「汝らこれを怪しむな,墓にある者みな神の子の声をききて出づる時きたらん」ということばが実現します。
それはなんとすばらしい祝福となることでしょう! 愛する者たちと楽園の地でいっしょに暮らす喜びを想像してごらんなさい!
ではなぜ貴重な時間を死者の崇拝や,それを子供たちに教えることに費やすのですか。その時間を,真の神エホバの崇拝に用いるほうが,報いははるかに大きいものとなるのです。エホバ神だけが,愛する者を死から連れもどすことができるのです。それからは,親と子がお互いに愛と感謝を示し合う機会は,永遠に失われることがありません。
[613ページの図版]
東洋では多数の人々が,死んだ先祖を崇拝している。しかし,聖書を研究する人たちは,それよりもよいものを学んでいる