あなたはお子さんをどう見ておられますか
「祝福です」,「神が与えてくださった贈り物です」,「喜びそのもの」,「心を楽しませるものです」。さまざまな親の皆さんがこのように述べるのを聞くと本当に心の温まる思いがします。必ずしもすべての親が子供を祝福とみなしていない事実を考えると,その思いは一層深まります。
しかしお尋ねしたいことがあります。あなたはご自分のお子さんについてどう思っていますか。あなたは親の務めに伴ういろいろな側面に喜びを感じているでしょうか。子供たちは,あなたの愛と,子供の存在にあなたが感謝していることを絶えず感じ取っているでしょうか。この間,子供たちを抱いて愛情を表わしたのはいつでしたか。
もちろん,親であることはたやすい仕事ではありません。骨の折れる,多くのことが要求される仕事です。いらいらすることもあります。それでもそれは非常に報いの多いものとなり得ます。そして立派な成果が上がった場合には,途中に立ちはだかった問題も物の数ではなくなります。そのように感じている親は少なくありません。あなたはいかがでしょうか。
言うまでもなく,異なった意見もあります。親であればすべての人がその務めに喜んで取り組むわけではありません。子供たちに邪魔されて物事が計画どおりにいかないのが理由なのかもしれませんが,ある人々にとって子供は,プライバシーと自由を奪う存在となっているようです。そうかと思えば,親であることに伴う複雑な務めに関し,感情的な備えのできていなかった人々もいます。親の務めに不可欠な犠牲を払うことを不愉快に思った人もいないわけではありません。しかし理由のいかんを問わず,それはやはり残念なことです。このような消極的な態度は,必ず,親たちが子供をどう見,どう扱うかということに影響を及ぼすのですから,特にそう言えます。一部の親は自分の血を分けた子供たちを“がき”とか“悪魔”とか呼んでいます。ですからある子供が手に負えなくなるのも無理からぬことです。子供たちは必要とされていない,愛されていないと感じ,さまざまな方法を使って仕返しをしようとします。
親であることの積極的な側面
では自分の子供を愛し,いつくしむ親についてはどうですか。そのような親からわたしたちの学べるものがあるでしょうか。子供に対する彼らの見方は,わたしたち自身の感じ方を吟味する上で役立つ洞察力を与えてくれるでしょうか。確かに与えてくれます。子供に対するその積極的な見方は,子供たちが結ぶ実にはっきりとうかがえます。つまり子供たちは受けた訓練や世話に愛と従順をもって答え応じ,責任感の強い,愛ある大人に成長するのです。そしてその子供は,小さい時に学んだ原則や受けた立派な訓練を,今度は自分たちの子供に伝えてゆくことになります。親になるとは,そういうことではないでしょうか。
しかしあなたのお子さんはいかがですか。よく言うことを聞き,従順で,他の人に敬意を払いますか。そうでないとしても望みを失ってはなりません。訓練に対して今あげたような反応を期待するのは理不尽なことではありません。なぜこのように言うのでしょうか。それは子供たちはほかならぬ創造者によって,直接親の管理下に置かれているからです。それは間違いなく神の定めた取り決めです。エフェソス 6章1,2節は次のように述べています。「子どもたちよ,主と結ばれたあなたがたの親に従順でありなさい。これは義にかなったことなのです。『あなたの父と母を敬いなさい』とあり,これは次の約束を伴った最初の命令です」。ですからこの聖句は神が定められた原則に従うよう子供たちを励ますものです。
成功するには懸命な努力が必要です。夫に先立たれ,5人の息子を持つある人は語りました。「私は子供たちのしつけに時間を割きましたが,今その成果を目のあたりにしています。それは子供たちの振る舞いや態度です。子供たちはわんぱくではなく,従順でよく敬意を示します。こんなことを言うようになりました。『ねえお母さん。お母さんは僕たちより長い経験を積んでいるでしょう。だから何でも知っていると思います』。私にとってこれは祝福です」。自分の子供からこのような言葉を聞きたくない母親がいるでしょうか。
一方,子供がよく言うことを聞く場合には,親は子供のしていることに純粋の関心を示さなければなりません。従わなければならない規則を設けるだけでは不十分です。子供との間に意思疎通の道を絶えず開いておくためにできる限りのことをしなければなりません。子供の趣味や関心事に通じている親なら子供との意思疎通が妨げられることはほとんどありません。11歳になる男の子を持つ母親はそれが事実であることを証言しました。
「私は,いままで全く関心のなかった事柄をこの子から学んでいます。例えばこの子が自分以外の何かに関心を持つのは良いことだと思ったので,熱帯魚を少し買い与えました。それは子供のためになっただけでなく,私のためにもなりました。今はこの魚が私に反応するのを見るのが楽しくてなりません。子供の関心事が広がるにつれて私もこの子と一緒に成長していることに気づきました。このことによって私たちは一層親密になりました」。
あなたの場合も同じでしょうか。
最近の父親の中には,自分の子供の感情面の世話に力を入れている人がいます。父親は長い間,家庭において訓練を施す者とみなされてきましたが,最近の風潮に押されて,赤ちゃんのための準備や世話をしたりする分野に駆り出されています。一人の父親は次のように語っています。
「私はできる限り父親が子供の誕生に積極的な役割を果たすべきだと固く信じている。そのため私たちの長女が産まれたとき,私は分娩室にいた。産まれたばかりの娘を医師から手渡され,初めて私の腕に抱いたときのすばらしい感情は,とても言葉で言い表わせるものではない。その時,その場で,私はこの祝福に対しエホバ神に感謝の言葉を声に出して語り,賛美を捧げた。私も妻も,うちの娘たちに関し,今でもそのような気持ちを抱いている」。
子供はすべて祝福とみなされるか
産まれた時に五体満足でなかった子供の場合はどうでしょうか。その子供たちも祝福とみなせるのでしょうか。そしてその親たちも親の務めを果たすことに喜びを見いだせるのでしょうか。この質問については,心臓に障害のある知恵遅れの子供を持つ方に答えていただきましょう。まず父親はこのように語っています。「医師たちから,娘はいずれ死ぬのだから娘のことはあきらめた方が良いと告げられました。私は娘のために何ができるか尋ねてみましたが,医師にとって,私たちが娘を生き続けさせたいと思っていることは驚きだったようです。先生方は何も打つ手はないと語り,どうせ助からないのだから,家に連れて帰ってもよい,と言ってくれました」。その母親は続けてこう語りました。
「始めから,施設に入れるように勧められましたが,それはきっぱりと断わりました。娘を愛さなくなることなど一瞬と言えども考えたことはありません。この子は(男の子4人の後に産まれた)念願の娘なのです。私たちはこの子がそばにいてほしいと本当に思いました。今,医師はこの子の回復ぶりに目を見張っています。3か月以上はもたないと言われていましたがもうすでに14か月になりました。この子は自分が愛されていることを知っており,そのことによって,知恵遅れと重い心臓病をものともせず,発育を遂げたのです。娘は今までで一番愛されている子供です。もちろん,私が娘を愛するのは私が母親だからです。しかしエホバ神が娘に示しておられる愛を見ることは,すばらしいことだとしか言いようがありません。エホバが,そしてエホバだけが娘を生き続けさせているのです。ではそのような神をどうして崇拝しないでいられるでしょうか」。
当然ながら,何らかの欠陥のある子供を持つ親には,経済的に,そして特に感情的に多くの困難がつきまといます。しかしそのような子供たちは,正常な子供たち以上に愛情と関心を必要としています。両親の愛情があれば,子供は積極的な方法で答え応じるものです。
問題に対処する方法
それにもかかわらず,さまざまな問題と,そのような問題に親はどう対処できるかという質問が生じます。命令に従うべきだと大声でどなりたてるだけでは何も問題は解決しません。問題を抱える子供たちと親との間に意思疎通の道が開かれていないと,憤り,そして当然不敬の念が生じます。エフェソス 6章4節に諭されているとおりです。「また,父たちよ,あなたがたの子どもをいらだたせることなく,エホバの懲らしめと精神の規整とをもって育ててゆきなさい」。
男の子4人の父親は,この諭しに従った結果を次のように示しています。「私はできる限り子供たちの話に耳を傾けることにしています。それは子供たちの心の中にあるものを知るためです。そうしなければ子供を本当に助けられるものではありません。私は毎週聖書研究の司会をし,子供たちが問題の解決策をいつも聖書から得るようにさせています。息子たちは私たちの与える教えが親からではなく,神から来ていることを理解しています。それは大きな助けです」。
もう一つ,問題に対処する上で大きな助けとなるのは,いつでも相談にのってあげる親であることです。子供たちが問題に陥るときは親を最も必要としているときです。ある母親はこのように自分の考えを表明しました。「子供たちはいつでも私たちに近づいてきます。子供たちには,親に何でも相談できることを知らせてあります。親から見ると取るに足りないような問題でも,大抵の場合,子供にとっては大問題です。そしてその時問題になるのはそのことなのです。親が気づかってくれるのを知ると,子供たちは何でも相談にきます」。すべての子供たちが,どんな問題についても自由に親に近づくことができ,しかも頭ごなしにしかられたり,非難されたりすることがないというのはすばらしいことではありませんか。あなたの場合も同じですか。あなたは子供が自由に話せるように励まし,その話を静かに聴きますか。
約束を守ることも,親の皆さんが忘れてはならないもう一つの重要な事柄です。子供たちは多くの物事に順応できますが,当てがはずれ変更があると困ってしまいます。その点をある母親は次のように指摘しました。「実行できない約束をするのは子供たちを欲求不満にならせるだけです。子供は私の約束に大きな期待を寄せています。ですから約束したことは是非とも守るようにしています。そして何かの約束を実行できないなら,そのわけを説明し,ごめんなさい,と言います。それで子供たちは私も時々間違うことがあるのに気づき,私たちの間に強力な絆が形造られるのです」。
この間,約束を守れなくて子供に謝ったのはいつのことでしたか。
どんなことを避けるべきか
もう一度やり直しができるのなら,違ったふうにしたいと親が考えている分野が幾つかあります。子供に十分耳を傾けなかったことを悔やんだ人も,子供が近づいてくるなりすぐに結論を述べてしまったことを後悔した人もいます。そのような人々は判断を急いだのかもしれません。判断を下す前にすべての事実を知るのは賢明な道です。
もう一つ重要なことがあります。子供を扱う際に不公平であってはなりません。ある子供をほかの子と比較するのは賢明なことでも,正しいことでもありません。それは嫉妬心と敵愾心を育むことになりかねません。子供の能力はみな異なっており,それぞれに価値があります。人と比べて欠点をあげつらうのは,一方の自信と自尊心を傷つけ,他方の優越感とごうまんさを助長することです。
そのほかの点として,子供たちに見境なくテレビを見させてもなりません。「テレビほど,単一の世代のうちに幼年時代の状況を変化させたものはない」のです。(1979年3月4日付,ニューヨーク・タイムズ紙)この言葉が真実であることを知って,多くの親は,テレビの画面を通して子供たちが受ける絶大な影響に目覚めさせられました。テレビの教育的な価値はだれも否定できませんが,それと同時に,注意しないと,子供たちは悪影響を被る場合があります。いつもおきまりの暴力番組は悪影響を与えるその一例です。実際のところ,昨今の青少年犯罪の増加は,主に,子供たちが暴力を売りものにする番組を見ていることにその原因があるとする人もいます。
友だちか親か
テレビの見過ぎはあなたの家庭では問題になっていないかもしれません。個人的に多くの時間をお子さんのために費やしておられるなら,それは立派なことです。ではあなたは子供たちとどのような関係にありますか。子供たちはあなたを親と見ていますか,それとも友だちと見ているでしょうか。ある家庭では,子供たちは親を自分たちと同等な者として扱ったり話したりすることを許されているといいます。この関係があまりに親し過ぎると,親は,必要な場合に訓練を施すのを難しく感じるかもしれません。それは親に対してだけではなく,家庭外の人々に対しても不敬を示す種をまくようなものです。
そのような関係を是認しなかったある母親は語りました。「親は聞き従うべき年長者とは見られなくなります。“友だち”は自分と同じレベルにいるのですが,子供は大人と同じように考え,推論し,自らを矯正することはできません。その役を果たす親が必要です」。その夫はつけ加えました。
「まず親であるべきだと私は思う。毅然とした態度と敬意があれば,友好関係は自然に育まれる。うちの子供たちには,敬意を払えば,という条件つきで自由に話すことを勧めた。『何を言うか,ではなく,どのように言うかだよ』とよく子供たちに言ったものだ。物の言い方を子供に教えようと思う。もし親に敬意を示さないなら,子供はだれに敬意を表わすだろうか」。
もとより,親と子が本当の意味で友人であってはいけない,という意味ではありません。多くの親は子供と良い温かな関係を持ち,子供は愛と敬意をもって答え応じています。しかし年長の人々に対する敬意が急速に薄れつつある世界にあって,親の正当な権威に対する敬意を何物にも損なわせることがないよう注意しなければなりません。親子関係でなれなれしさが度を過ぎると,軽蔑の念が生じる場合があります。
子供の生活における神の役割
子供たちが,実際に見える親や他の人々を敬うなら,次に目に見えない創造者を崇拝する状況が整ったことになります。親はこの訓練に関し独特な立場にあります。子供の注意を創造者の方へ向けさせることができます。愛情を込めてそうするのは大切ですが,粘り強さも大切です。親はこのような訓練を施す面で勤勉でなければなりません。感傷や圧迫に妨げられてはなりません。その責任を家族のほかの人や教師や宗教指導者など,だれか他の人に委ねてもなりません。良い成果を挙げたいと思っていてもそうしてはなりません。
明らかに近道はありません。時間,努力,愛,忍耐,そして途中で多くの調節が必要になります。しかし親が神から与えられた割り当ての荷を背負うなら,きっと良い結果が生ずるでしょう。もしも親が子供を神からさずかった宝物とみなし,子供に愛していることを知らせるなら,その家族は多くの祝福を刈り取り,親は豊かに報われたと感じることでしょう。詩篇作者の述べたとおりです。「見よ! 子らはエホバから受け継いだもの,胎の実は報いである」― 詩 127:3,新。
あなたもお子さんたちをこのように見られますように。