それでもやはり意図的に造られている!
動物や人間の領域に闘争が見られるために,設計者,つまり創造者の存在が本当に除外されてしまうのでしょうか。問題を詳しく調べてみると,決してそうではないことが分かります。意図的な造りには設計者が必要という論議は本当の意味で論ばくされてはいないのです。
確かに,設計者の存在を論破するために自然界に見られる闘争を用いても,この問題に取り組んでいることにはなりません。設計者の存在を論破するには,意図的に造られた物の用い方について,倫理的判断を下す以上のことが求められます。
意図的な造りは設計者の存在を意味する
例えば,ジェット機を見ると,それが旅客だけでなく原子爆弾を運ぶ手段にもなり得ることを考えて,不快な気持ちになることがあるかもしれません。しかし,どんな役割を果たすかは別にして,近代的なジェット機は非常に複雑な造りになっています。ジェット機にはコンピューターや航行用の装置,強力なエンジンなど高度に精巧な装置が備わっています。
単にジェット機が殺人や破壊に用いられることがあるからという理由で,それが理知ある人間の設計の所産ではないという人がいるでしょうか。正気の人で,そうしたジェット機がくず鉄の山から独りでにでき上がったものだと言う人がいるでしょうか。
それが現在どんな役割を果たしているかにかかわらず,意図的に造られたものは意図的に造られたものなのです。造りが複雑であればあるほど,またそのすべての部分が同時に作動しなければならないようであればあるほど,理知ある設計者の存在を認めざるを得なくなります。人間の経験したいかなることを取ってみても,この結論を否定するものではありません。
現在互いに捕食し合っている動物にこの原則を当てはめることをためらう理由はありません。そうした動物の歯やかぎつめは明らかに意図的に造られたものです。やはり恐ろしいことに用いられる場合もある人間の手や脳についても同じことが言えます。
こうした器官がどのようにして存在するようになったかを考えてみるとよいでしょう。受精した性細胞が増殖を始め,自らの複製である細胞の塊を生産します。次いでそれらの細胞は分化し始め,特殊な細胞や組織だけしか生産しなくなります。それは動物の毛皮のように柔らかいものであることも,歯やかぎつめのように硬くてかみそりのように鋭いものであることもあります。
それらはいずれも,この上なく見事な意図的な造りの現われにほかなりません。そのような働きの誉れを設計者に帰そうという気持ちにならない人々でさえ,そうした作用を描写するのに最高度の表現を用います。例えば,タイム誌は細胞の分化について次のように述べています。「胚の段階の初期の重大な瞬間に,同一の細胞が奇跡的に(ほかにこれを言い表わすぴったりした言葉がない)特殊な役割を持つようになる。例えばある細胞は心臓の組織を形造るようになり,ほかの細胞は肝臓や皮膚の組織を形造る」。そのような奇跡は,奇跡を行なう者,つまり設計者の存在を雄弁に物語っているのではないでしょうか。
わたしたちは,カメラやラジオ,ロボットの人工的な手,ポンプ,コンピューターなどを見ると,すぐに設計者がいることを認めます。こうしたものは明らかに理知ある人間の所産です。では,目,耳,手,心臓,脳など,それに似ていながら,はるかに複雑なものが,はるかに偉大な理知を持つ方によって意図的に造られたのではないなどと,どんな論法で言えるのでしょうか。
問題
クー・クラックス・クランやファシストについてバートランド・ラッセルが提起した問題は,設計者が存在するかどうかに関する論議とは関係がなく,むしろ,意図的に造られたものの使い方と関係があります。人間の場合には自由意思が関係してきます。この自由意思はそれ自体,意図的な造りのすばらしい所産です。しかし,人間はなぜこれほど多くの場合に,悪を行なうために自由意思を用いてきたのでしょうか。また,動物は殺したり傷付けたりするよう意図的に造られていたのでしょうか。また,設計者はどうしてこうしたことすべてを許されたのでしょうか。
実際のところ,問題となっているのは設計者が存在するかどうかということではなく,むしろ倫理上の問題なのです。人間に生来植え付けられている正邪の感覚が非常に強いため,暴力と殺りくおよび神が悪を許しておられることなどに関した問題をきちんと処理していない説明では満足しないことがあるのです。
次の記事は,自然界において神の善良さとは相反するような仕方で現在作用している事柄に関する問題を取り上げています。しかし,一方では,意図的な造りイコール設計者という論議は依然として論ばくされてはいません。「宇宙:意図が働いていたのか偶然か」という本は次のように述べています。
「自然界に見られる意図的な造りを認めることは,科学史の上で10年や20年の研究に基づく短命な科学的結論ではない。ほんの幾つかの新しい事実が明らかになっただけで,いつでもひっくり返されてしまうような結論ではない。むしろ,幾千年もの試みを経てきた結論である。これは非常に確かな結論であるため,ある日それが大いなる誤りであったことが明らかになろうものなら,人間はほかのどんな結論であれ,思考によって確かな結論に達することができるかどうかに疑問を抱く根拠をすべての面で持つことになるであろう」。
自らの論理的思考力に導かれて,「言うまでもなく,家はすべてだれかによって造られるのであり,すべてのものを造られたのは神です」と語った使徒パウロと同じ結論に達したとしても,その論理的思考力を信頼することを恐れてはなりません。―ヘブライ 3:4。
では,自然界に見られる殺りくと暴力行為はどうなるのでしょうか。それも愛ある神の意図的な造りの一部と言えるのでしょうか。
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幾千年にもわたって人々は自然界に見られる意図的な造りを認めてきた
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ジェット機は人間を運ぶものとも核爆弾を運ぶものともなるとは言え,どちらの種類の航空機も理知ある意図的な造りの所産である
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わたしたちはこうしたものが理知ある人間の設計者の所産であることを認める
それよりもはるかにすばらしいこれらのものは,より優れた理知ある実在者によって設計されたに違いない