働きに満足を得よ
『人はみな食飲をなし,その労苦によりて楽しみを得べきなり。是すなわち神の賜物なり。』― 伝道之書 3:13。
1 ヱホバは何をなされますか? それをすることにより,ヱホバはどのように感ぜられますか?
ヱホバは全宇宙の最高者です。ヱホバより上のものはありません。ヱホバに命令を与えるものはいません。ヱホバは何ものにも,依存してはいません。ヱホバは,ありとあらゆることをみな,御自身の御旨のままに為し得る絶対の自由を持つておられます。ヱホバは幸福の道を選ばれ,そして幸いの神と知られています。ヱホバの選ばれる幸福の道は,働くことです。ヱホバは,その働きに疲れを感じません。『ヱホバはとこしえの神,地のはての創造者にして倦み給うことなく,また疲れ給うことなし。』創造の第6日の終りにヱホバが休まれたというのは,決して疲れを回復することが必要であつたというわけではありません。『ヱホバは六日の中に天地をつくり,七日に休んでいこわれたのである。』ヱホバはすべての仕事を休まれて休息を取られたのではありません。ただこの特別な創造の業を休まれたのです。そして,この業が完成した時ヱホバは見そなわし,それが非常に良く,かつ完全であるのを知りました。ヱホバは最善の業がなされたのに爽快さと満足を感じられたのです。このすばらしい業がなし終えたのを見て,創造者であるヱホバは,よろこび,満足,そして爽快さを感じられました。―イザヤ 40:28。出エジプト 31:17,新世,欄外。
2 イエスは何をなしましたか? そして,どんな結果をともないましたか?
2 イエスの次の言葉は,ヱホバが安息日,すなわち創造の週の第7日でも続けて働いていることを表しています。『私の父はいまにいたるまで働いておられる。そして私も働き続ける。』この言葉から,イエスも働くことが分ります。イエスは,ヱホバの命ずる仕事をいたします。彼は,自らよろこび進んで神の御業をいたします。彼はヱホバの御意を行うのによろこびを感じられました。イエスにとつて,ヱホバの御意を行うことは,滋養のある食物と同じものでした。そして,彼は満足と爽快さを感じられたのです。しかし,実際にはそれ以上のものであつたのです。ある時弟子たちがイエスに食物を取るようすすめましたが,彼はこう答えました。『私の食物は,私を遣わされた方の御意をなすことであり,その業をなすことである。』ある業を成し遂げて終らせるよろこびに,イエスは爽快を感ぜられ疲れなどというものはなくなり,ただ満足と愉悦を感じられただけです。―ヨハネ 5:17; 4:34,新世。
3 働くために,人間はどのような備えをうけましたか? 人間は創造された時,どんな割当ての仕事が与えられましたか?
3 人は神とキリストの像と状に似せて創造されました。それで,智,力,正義,そして愛という神およびキリストの属性は,ある程度まで人間に与えられています。人間は,その智によりどのように行うべきかを知り,その力により実行することができ,その正義の観念により働きの実を正しく用いることができ,そして愛の性質により人間は正義の外に寛大と無私の行をすることができます。人間は善い業をする力を持つよう創造され,そして仕事が与えられました。人間が創造されたとき,『ヱホバ神はその人を取つてエデンの園に置き,その園を耕して治めしめた。』男とその妻は,『殖えて多くなり,地に充ちて地を治め,そして海の魚と空を飛ぶものと,地の上を匍うすべての生けるものを支配しなさい。』と告げられました。最初の人間夫婦には,なんというすばらしい仕事の特権が与えられたのでしよう! 彼らは地と地上の植物と動物を治め,人間の子孫で地を充たすべきでありました。そして,ヱホバは彼らに精神的と肉体的な力を与えられたので,その仕事を完全に為すことは可能であつたのです。―創世 2:15; 1:28,新世。
4 ヱホバは,なぜ人間に仕事を与えましたか? いまどんな発見はこのことの賢明さを示していますか?
4 ヱホバは人間にこの仕事を与えても,それは御自分の仕事の手を抜きたいためだからではありません。人間に仕事を与えられたのは,人間の福利を考えてなされたのです。人間は働くことができ,そして自分のできる仕事を行うとき幸福を得ることができます。ヱホバが人間に適当な仕事を与えたのは,それによつて,人間がよろこびとたのしみを得かつ満足を感じるためです。働けば,人間の生涯は充実したものとなり,退屈とか,つまらない単調などというものはなくなり,そして何か役に立つ者であるという満足の感情が得られます。働かないならば,神より与えられた属性は抑制されて駄目になり,沈滞してしまいます。しかし,ヱホバの命ずる仕事を働くなら,それらの属性を十二分に発揮することができます。最近の科学の研究は,人間が働くためにつくられたという聖書の真理を証明しています。その科学の研究は,こういうことを示しています。健康な年寄りの多くは隠居を欲しない。それに隠居すれば仕合わせになるどころか,かえつて退屈に苦しめられるというのです。また,怠け者が隠居すると,退屈になつて生活欲を失い,実際に寿命を短くしていると科学者たちは信じています。隠居している人々が趣味をしても,仕事ではないため,充分の満足が得られません。気分転換と普段の仕事からくつろぐという意味で,1週間のうち数時間を遊ぶのは楽しいものです。しかし,ずつとし続けると,人々は退屈になります。ある記事の中に,次のような要求が述べられていましたが,趣味はたいていの場合その要求にかなうことができません。『精神的な健康を保つために,人は有益な仕事をしていると感じなければならない。』良い仕事から引退することは,祝福というよりもむしろ有害であります。それで,ヱホバが人間に仕事を与えたのは,人間の福利のために為された行です。
5 人間の働きの実についてのヱホバの御意は何ですか?
5 ヱホバは,人間からその働きの実が取られるのを欲しません。使徒パウロは,こう書きました。『勤勉に働く農夫は,だれよりも先に,その生産物の分配にあづかるべきである。』それより前に,パウロは,この神の原則をくわしく説明して,こう述べていました。『葡萄畠に葡萄を植えて,その実を食べない者がいるだろうか。羊の群を牧しながら,羊の乳を飲まない者はいるだろうか。私は人間の側から見てこう言うのではない。律法も又これらのことを言つているではないか。モーセの律法の中には,こう書かれている「穀物をこなしている牛に,くつこをかけてはならない。」神は牛のことを心にかけているのであろうか。神がそう言われるのは,全く私たちのためではないか? それが書かれたのは,全く私たちのためである。耕す者は,望みをもつて耕し,穀物をこなす者は,分配にあづかるという希望をもつてこなすのである。』牛でさえも,その働きの実の分け前に与れたのです。しかし,牛を一番大事に考えるべきですか? ヱホバは働く家畜の福祉を守られるなら,働く人の福祉をどれ程までに守られることでしようか! パウロはここで,牛にも思い遣りを持てという神の規則を無効にしているのではありません。むしろ,力強い修辞文により,こういうことを示しているのです。人間と牛を比較するとき,牛は無に等しいものであり,もし思い遣りの原則が牛に適用されるなら,その原則は必らずたしかに人類に適用するであろう,特にヱホバの奉仕に働いていて,そして他人の福祉のために霊的なものを播いている者に適用するであろう,というのです。―テモテ後 2:6。コリント前 9:7-11,新世。
6,7 人間はその動きの結果を楽しむということについて,申命記 20章1,5,6節は,どのように明白に示していますか?
6 パウロの引用した牛についての律法は,申命記 25章4節に述べられています。ヱホバは申命記の中で,人間や,またその働きの結果を楽しむ人間の権利について深い関心を示されています。その時の状況は大切なものです。イスラエルの国民は丁度荒野の旅を終えて,モアブの平地におり,いまや約束の地に入らんとしていました。この約束の地には,戦争を好む多数の悪鬼崇拝者たちが占拠していました。イスラエルが入るならば,戦争はひき起され,イスラエルは,自分たちよりも数の多い敵と戦わねばならないでしよう。『あなた方が敵と戦うために出かける時,敵の馬や戦車や人があなた方よりも数多くても,恐れてはならない。あなた方の神であるヱホバは,あなた方と共におられる。』しかし,神権的な戦争がどれ程に切迫したものになり,戦争に参加し得る軍人が是非必要であつたにもせよ,軍務に対して次の免除がなされたのに注意しなさい。『新しい家を建てて,そこに住まない者がいるだろうか。その人を自分の家に帰させなさい。おそらくは,戦で死んでしまい,他の者がそこに住むであろう。葡萄畠を植えても,それを使用しない者がいるだろうか。その人を自分の家に帰しなさい。おそらくは,戦で死んでしまい,他の人がそれを使用するであろう。』― 申命 20:1,5,6,新世。
7 人は自分の働きの実を楽しみ,無駄な働きをしてはならず,かつ働きの福利を楽しむ報をうけるべきであると,ヱホバは思つておられます。戦争に参加し得る男が一人残らずみな必要であつた戦争の時でも,その原則は守られました。その者は,自分の働きを十分に楽しむべきであつて,自分は果して家に帰つてその家の生活を楽しめるか,どうか,又は他の人がその家で生活するのではないかと危ぶみながら戦に行くのは禁ぜられていました。家を建てる者は,その働きの結果を一番最初に楽しむべきです。それで,後日,戦争の召に応じるとき,専心して戦うことができます。そして自分の建てた家の楽しみを得られないなどという考えで悩まされません。すでにそのよろこびを経験しているからです。そのことは,葡萄畠を植えた人についてもあてはまります。その人は,戦争に行く以前その実を食べるべきです。そうすると,数年間の免除が与えられることになります。律法の規定によると,最初の3年間の実は用いることができず,第4年目の実はヱホバに捧げられ,第5年目になつて,はじめてその実は一般に用いられました。それで,免除は葡萄を植えた者が,その実を食べる時まで適用されたのです。―レビ 19:23-25。
8 仕事は仕事自体が報いであるとイエスはどのように示しましたか?
8 イエスは譬を用いることにより,働きはよろこびという報を与えると示しました。ひとりの人は旅に出かけました。しかし,旅に出る前,奴隷たちを集めて自分の財産を預け,奴隷たちのそれぞれの能力にしたがつてその財産を分けました。長い旅の後に,その人は戻り,勘定のために奴隷たちを集めました。5タラントを預かつた人は,勤勉に働いて,10タラントに殖しました。2タラントを預かつた人は,4タラントに殖しました。しかし,1タラントを預かつた人は,怠け者で何もなさず,少しの収益も図りませんでした。さて,勤勉な働き人は,どのような報をうけましたか? 海辺か,山で休暇を取れと言われましたか? それは彼らの報でしたか? 勤勉に働いた報は,休暇ではなく,より一層多い働きでした! 主は彼らにたいして,こう言われました。『良い忠実な奴隷よ,よくやつた。あなたはわずかなものに忠実であつたから,多くのものを管理させよう。主のよろこびに入りなさい。』主のよろこびは,この働きの中にありました。それで,勤勉な奴隷はこの働きを多くすることにより,主のよろこびに全く入りました。しかし,働こうとはしなかつた怠け者の奴隷についてはどうですか? どういうことになりましたか? こう決定されました。『その者のタラントを取つて,十タラント持つ者に与えよ。』怠け者のその奴隷は,これをよろこぶべきでありましよう。その者は働きたくなかつたのです。いまや仕事が取りあげられてしまつたのです。ぶらぶらした怠惰な生活を送れることでしよう。しかし,仕事がないという理由で,大いによろこぶどころか,その僕は泣いて,歯がみをしました。―マタイ 25:14-30,新世。
9 休暇の目的は何ですか?
9 仕合わせでいたいなら,働かねばなりません。気分を転換し,かつつかれた神経を直して,体力を回復するために,休息は確かに必要です。モーセの律法の安息日の制度は,一定期間の重労働の後に,ほつとした寛ぎとなりました。定められた長さの休暇を取るとき,力が更新されて,非常に良いものでした。しかし,楽しい休暇を取つて,体力や,精神力や,神経のつかれが直るなら,私たちは働き始めます。休暇の目的は果されました。私たちは強くなつて,再び活動することができ,働くことができます。これ以上に休暇を続けることは,退屈と落ち着きのない期間に入ることであり,不道徳な怠惰という危険を求めることになります。私たちは仕事に戻つて働きたいと欲します。有益な仕事から生ずるよろこびと満足がないと,なんとなくさびしく感じます。
10 いまは,仕事の愛の代りに,なにが行われていますか? その結果は何ですか?
10 人間がよろこんで働き,そして,その働きの実を楽しむようヱホバは望んでおられます。『我知る人の中にはその世にある時に快楽をなし,善を行うより外に善き事はあらず。また人はみな食飲をなし,その労苦によりて逸楽を得べきなり,是すなわち神の賜物なり。』(伝道之書 3:12,13)今日多くの人は労苦していますが,働きに深いよろこびを見出す人はほとんどいません。人のはたらきの報いとして,仕事をなしとげた満足というものは,ますます少くなつています。それに反して,その努力の目的は,金だけになつています。現在は物質主義の時代です。立派な働きをするほこりは,貪欲に食いこまれてしまい,そして芸術の良い作品をつくろうとする熱心は,商売的な儲けという偶像の前に平伏しています。仕事にたいする愛と,金に対する愛を取りかえてしまつたため,仕事と芸術的作品の質は堕落し,低下してしまいました。金が支配しています。そして堕落した人々は堕落している作品を求めて,金を使います。物質的には多くのものを持つかもしれませんが,霊的のものはごく僅かしかありません。仕事に楽しみを見出す代り,金の蓄積に楽しみを求めます。しかし,彼らの不安,神経病,そして精神的な不秩序は,その仕方の失敗していることを,はつきり示しています。昔の人々は,汚いところで文を書いたり,絵を画いたり,音楽を作曲し,世間の人に知られない生涯を送りました。しかし,彼らは自分の働きに満足を感じて,その報をうけました。その強烈な熱心により,文学,絵画,音楽にすばらしい傑作がうみ出されたのです。今日の金儲けする人たちは,その求める報を受けています。丁度人々に見られようと思つて仕事をした,むかしの学者や,パリサイ人や,サドカイ人のようです。しかし,そういう人には,愉悦を感じさせる仕事にともなう深いよろこびや,満足がありません。人間は働いて,その働きを楽しむよう創造された者です。それであるのに,今日の多くの人々は働くのを憎み,働くのを避けます。そして,富を求めたり,肉慾を楽しませ,それらの中にすぐ落ちこんでしまいます。
空虚な物質主義
11 働く問題について,ソロモンは,どのように自己憧着しているように見えますか?
11 ソロモンがヱホバの忠実な僕であつたとき,ヱホバはソロモンを用いて多くの箴言や思想を書かせました。私たちはそれらを読んで,深く考えざるを得ません。ソロモンの書いた伝道之書の中には,地上の人間の生命の空虚さが,繰り返し強調されています。働きということも,多く述べられています。それで,その問題についてソロモンは自己憧着しているかに見えます。時に,働きは空のもので無駄のものと言つているかと思うと,別の時には,働きは人間のたのしみであり,神からの贈物であると誉めているからです。たとえば,この記事の主題の聖句である伝道之書 3章13節では,食べて飲んで働きのたのしみを得るのは,人間に与えられた神の贈物であると,ソロモンは言つています。しかし,伝道之書 1章2,3節では,ソロモンはこう書いています。『空の空,空の空なるかな。すべて空なり。日の下に人の労して為すところの諸の動作は,その身に何の益かあらん。』次の章では,自分のなした多くの仕事を委しく述べて,ソロモンはこう言つています。『我はわがもろもろの労苦によりて快楽を得たり,是は我がもろもろの労苦によりて得たる所の分なり。』しかし,そのすぐ後では,それはみな空虚なものであると,ソロモンはつけ足しています。彼は愚者と同じように死んでしまうのであり,その骨折つた働きの結果は,働いた者の楽しみにはならず,他の者に残されるからです。『我は日の下にわが労してもろもろの動作をなしたるを恨む。そは我の後を嗣ぐ人に之を遺さざるを得ざればなり。その人の智愚は,誰かこれを知らん。しかるに,その人の日の下に我が労して為し,智恵をこめて為したる諸の工作を管理るにいたらん。是また空なり。』それにもかかわらず,働きは楽しみであると,ソロモンは繰り返し述べています。『人が食い飲みし,その働らきによろこびを見出すほど良いものはない。これも又神より出る。私はそれを見た。神から離れて,誰が食い,かつたのしめる者があろうか。』― 伝道之書 2:10,18,19,24,25,改定標準訳。
12 労苦についての無益なものとは,何ですか? ある人の仕事は,なぜ空虚なものですか?
12 労苦して働いても,無益なことというのは,こうです。死による中断があるために,働いた人は,必らずしも働きの実を楽しみません。又,生存している間に,その働きの実を楽しまず,ただ自分の富を蓄積せんがために,自ら楽しみを否定する守銭奴たちも,その働らきは空のものです。『日の下に空なる事のあるを見たり。ここに人あり。ただひとりにして伴侶もなく,子もなく,兄弟もなし。しかるにその労苦はすべて窮なく,その目は富に飽くことなし。彼また言わず「ああ我は誰がために労するや。何とて我は心を楽しませざるやと。是もまた空にして,労力の苦しき者なり。』『他人のこれを食うことあり。是空なり。悪しき疾なり。』前に学んだ聖書の出来事から,ヱホバは人がそれぞれの働きの実を楽しむよう望まれているのを,憶えていますか? もし働きの実を楽しまないなら,その働きは無益なものであり,空のものであります。―伝道之書 4:7,8; 6:2。
13 どんな精神は,今日多くの仕事を傷つけますか? 平衡のとれた見方は何ですか?
13 『我また諸の労苦と諸の工事の精巧とを観るに,是は人のたがいに嫉みあいて成せる者たるなり。是も空にして,風を捕うるが如し。愚かなる者は,手を束ねてその身の肉を食う。片手に物を盈てて平穏にあるは,両手に物を盈てて労苦て風を捕うるに愈れり。』(伝道之書 4:4-6)多くの人の働く意欲は,なにも立派なものをつくり上げようというのではなく,嫉みの競争心をいだいて,仲間の者よりも勝ろうということです。隣人よりも,勤勉にかつ良く働くのは,負けまいとする貧欲の気持があるからです。しつとの心を抱いている故に,隣人の持つている持物に等しくなるか,それ以上になろうと,努めています,現代の言葉で言えば『隣り近所に負けまい』と努めることです。これは利己的で感情を乱し煩わしいもので空のものです。他の極端なものは,自分の手を束ねて怠けている愚か者です。ひどい貧困に悩み,ひもじいために自分自身の肉を食べます。それで,中庸の途を取ることが一番よいのです。静けさと平和のうちに働き,感情に浪風を立たせず,又他人の持物をねたまずに働きなさい。そして,片手に一杯十分のものを持つて,静かな満足を味いなさい。それは,つらい競争をして,しつとの気持から両手一杯のものをつかむか,又は愚かにも怠けてしまい両手とも空のまま貧困の中に坐るよりは,ずつと良いことです。多過ぎないのは良く,少な過ぎないのも良いことです。人は多過ぎると,神に頼ろうとする気持がなくなり,少なすぎると,盗みをするようになります。『我をして貧しからしめず,また富ましめず。惟なくてならぬ糧を与えたまえ。そは我あきて神を知らずと言いヱホバは誰なりやと言わんことを恐れ,また貧しくして盗みをなし,我が神の名を汚さんことを恐るればなり。』― シンゲン 30:8,9。
14 ソロモンは富を蓄積する空虚さを,どのように示しましたか? ミドラッシュは,そのことをどう説明していますか?
14 難儀に充ち,しかも怒りの気持ちを引き起す競争をしてまで得る富に,永遠のどんな益があるのでしようか? 現代人の言うように『あの世まで持つて行くことはできない。』ソロモンは,そのことを,もつと明白に語りました。『人は母の胎より出でて来りしごとくにまた裸体にして帰りゆくべし。その労苦によりて得たるものをひとつも手にとりて携えゆくことを得ざるなり。人は全くその来りし如くに復さりゆかざるを得ず,是また患の大いなる者なり。そもそも風を追うて労する者何の益をうることあらんや。人は生命のかぎり,黒暗の中に食らうことを為す。また憂愁多かり病身にあり。憤怒あり。』ユダヤ人のミドラッシュは,譬話を用いてこのことを説明しています。1匹の狐は,垣で囲まれている葡萄園を見つけました。そして,通り抜けて入ることのできる穴を見つけ出しました。狐の体は少しだけ大き過ぎたため,3日間断食して痩せ,それからその穴をくぐり抜けました。園の中に入つて,葡萄を鱈腹食べたために,またまた肥つてしまい,葡萄園を出ようとしたときには,穴をくぐり抜けることができなくなりました。それで3日間断食し,くぐり抜けるために痩せました。外へ出てから,狐は葡萄園を振り返つてながめ,こう叫びました。『内にあるものは本当に美しい。だがみな同等ではないか。入るには入るが,しかし出て来なければならない。』同じことはこの世についても言えると,その譬話は結んでいます。私たちは何一つ持たずにこの世に入り,そして何一つ持たずに去ります。―伝道之書 5:15-17。
15 働きということについての外見上の矛盾を取り除くソロモンの言葉によると,どんな働きは空虚であり,どどんな働きが空虚でありませんか?
15 それで,物質主義に献身して,どんな益がありますか? 物質主義は永遠の福利をもたらしますか? 物質主義の目的を考えて働くことは,空虚なことです。富を堆積して蓄蔵するために働くことは,愚かなことです。しつとの心を抱き,負けまいとして競争するのは,躍起になつて風と争うことと同じです。物質の宝を積むために働くことは,怠惰が愚かなことと同じく,無益なものです。私たちは,必要な食物と飲物を得て,仕事を心から楽しむために,働かねばなりません。『視よ,我はかく観たり。人の身にとりて善かつ美なる者は,神より賜わるその生命の極食欲をなし,かつその日の下に労して働ける労苦によりて得るところの福祿を身にうくるの事なり。是その分なればなり。』ソロモンは,そのような働きを良いと言い,無益なものと見ず,価値あるものと見ました。そして,その働きはヱホバが人間に賜わる生命の分であると述べました。突き詰めた最後のところで,ソロモンはヱホバを無視せず,また神や将来を考えない肉慾の生命をすすめていません。『事の全体の帰するところを聴くべし。云く,神を畏れ,その誡命を守れ。是はすべての人の本分たり。』評価ということがなされます。私たちはヱホバを恐れて働かねばなりません。なぜなら,ヱホバは私たちの働きについて最終の裁きをなすからです。人の目には見えない隠れた働きも,また私たちの心の中にある動機をも裁くでしよう。私たちの働きは,ヱホバのいましめと一致して善いものでなければなりません。そのような働きは,無益のものでなく,私たちがたとえ死ぬとも,その働きは亡びません。神はその働きを記憶されます。それで,私たちは有利な裁きをうけます。しかし,この事については,後にもつと多く述べましよう。―伝道之書 5:18; 12:13,ア訳。
16 物質主義が喰いこんだ結果,どんな病気と危険がいま世界に直面していますか?
16 いま,物質主義についての結論の見解を考てみましよう。今日,物質主義についてはよく耳に聞いています。人は共産主義を物質主義と罵つていますが,その非難は当然至極のものです。しかし,全世界が物質主義ではないでしようか? 神の代弁者と主張する者でさえも,物質主義のために働き,物質主義を実際的と考え,物質主義に信頼しています。そして,ヱホバとその御言葉およびその新しい世に信仰を働かす少数者を愚か者で実際的でないと見なしています。彼らは物質主義的な科学に強調を置きすぎているため,霊的には病気にかかつています。そして,人間生活の中で,便宜主義が発達して,物質主義的な見方がますます強く活潑になつているため,この世の人の道徳とか,節義,また正しい原則を守るということは,消滅しつつあります。物質主義は,非常に進歩したため,霊的な事柄は大きく敗退しました。それで物質の富の表面の輝きのために目の見えないこの堕落した世すらも,霊的貧困のたいへんな結果を心配し始めています。1954年3月29日ニューズウィーク(英文)は,こう述べていました。『人間のすばらしい科学心は,人間を全滅する手段を考え出した。愚図々々している人間の政治心は,いまや我と我が身の発明の才から人間を救い出さねばならぬという問題と取り組むであろう。『原子戦争は『世界文明の死を意味する』とマレンコフは言いました。原子戦争は『文明の亡び』を意味すると,アイゼンハウァーは認めました。
17 人間生活が地上に存続するために,何が必要であると,トインビーは指摘していますか?
17 有名な英国の歴史家アーノルド,ジェー・トインビーは,1954年12月26日のニューヨーク,タイムズ誌に稿を寄せ,こう述べていました。『新年の1955年に近ずくにあたり,我々の感情はどんなものであろうか? 世界は霊的にふたたび目ざめる必要があると,我々は感じているか?』 彼は言う。世界は西洋の思う通りに動かされる。しかし,西洋の行つてきた一般の哲学は,極めて不十分な導きであつた。我々の先祖は,偽りの宗教の熱狂さと戦争のために,17世紀の終る以前に『宗教よりその宝を取り出し,自然科学に再び投資したのである。』科学にたいするこの信仰は『現在にいたるまで西洋を指導した霊感力であつた。しかして,遂にはその制限と弱点は暴露され,その素晴らしい成功には皮肉な結果を伴うと示されたのである。……現在,科学によつて,人間は地上の生命を亡す力が与えられた。』心のかたくなこの古い世は,愛は実行し得ないと,考えています。しかし,愛は肝要なもので,実際に必要なものであると,トインビーは断言しています。『「視よ,われ今日生命と福徳および災禍を汝の前に置けり。」イスラエルになされたヤウエの意味深い言葉は,今日の我々の耳にも鳴りひびくべきである。いまや世界の諸国民は,それぞれ危険な武器を手に持つて,直射程内に立つている故,慎重,節制,寛容,智恵 ― なかんずく ― 愛というような徳義が,実際の意味で生活に必要となつたのである。我々一般人が,いままで必要と考えられていた標準以上にこれらの徳を行わないなら,地上における人間生活は,存続し得ないのである。』
18 『アメリカのニュースと世界の報告』は,急激に殖える物質主義をどのように歎いていますか?
18 1954年12月31日の『アメリカのニューズと世界の報告』(英文)の中で,ディビッド・ローレンスは社説としてこう書いていました。『粗雑な物質主義が擡頭して,時代の精神に影響を及ばしている。欧州は,アメリカのドルで促進された新しい繁栄に富んでいる。「中立主義」と原則の廃棄は,当り前の事になつている。米国 ― 高い生活水準,前例のない高い週給,人間の慰安,そして「富める生活」のがらくたやぜいたくが,社会の目標として奨励されるばかりでなく,政治政府の最高責務とされるところ ― においては,道徳にたいする強調が少くなるとともに,ますます便宜主義の神々に従属している。実際のところ現代の「知能人」を支配している哲学は,「公衆の福利のために」借金をしても借金を返さねばならぬ。つまり憲法の言葉が何と述べていようとも,目的は手段を正当化するということである。この陰険な細菌は,政府の血液にひろがつているのである。』
19 サイエンス・ニューズ・レターの報告によると,今日どんな病気の脅威をうけていますか? その症状は何ですか? その救済策は何ですか?
19 1954年12月11日の『サイエンス・ニューズ,レター』は,こう報告していました。アメリカ医学協会受託委員会のジュリアン・ピー・プライス博士の言葉によると,『今日国家を脅かしている病気は,霊的のものであり,肉体のものとか精神的なものではない。』そして,病気の症状は『最近における国家政府の道徳弛巻』をも含む。『悪を組織化した力は,立法と社会生活の上に影響をおよぼし,10歳台の青少年犯罪や,賄賂やアマチュア運動の際の不正行為や,快楽にたいする熱狂的な追求を増加せしめている。それで,アメリカ人は宗教や福利活動に用いるよりも4倍も多い金を酒に費している。』彼の処方?『有用な唯一つの救済策 ― 歴史はこれを証している ― は心の変化にある。私の真摯な信念はこうである。我が国が今日いちばん必要としていて,宣言せねばならぬのは,霊的に再び生まれ,かつ神と神の永遠の原則に戻ることである。そして,再び生まれることは,一般人の心に来なければならぬ。』
20 この世の病気は何ですか?
20 物質主義は人の病気であり,心を変化して霊的な価値に戻らねばならぬ,と人々は認め始めています。もしそうでないなら,生命の深いよろこびはなくなります。すべての努力が金で測られるなら,働きのよろこびはありません。前に引用したソロモンの言葉を想い出して下さい。食べかつ飲んで,神より与えられた仕事を楽しめ,とソロモンは言つたとき,さらにこうつけ加えました。『神から離れて,誰が食い,かつ楽しめる者があろうか。』(伝道之書 2:24,25,改訂標準訳)その仕事は,ヱホバの御目的と一致して正しい動機でなされるい良業でなければなりません。その仕事は,ヱホバより与えられ,節義と道徳の原則に従つて為されます。しかし,現代人はこのことを実際的と考えていません。むしろ死にもの狂いになつて金や物質を集める際に,そのようなものは邪魔だと見ています。そして,足枷を棄てるごとくに,それを投げ棄てました。だが,彼らは自分自身の貧欲に捕われており,失敗しています。彼らの世は,道徳的に堕落している原子力の物質主義のため,恐れにふるえ上つています。
21 物質の富は,ハルマゲドンのときに,どんな価値を持ちますか?
21 物質の富を追求することは,いまや霊的に害を及ぼしており,ハルマゲドンの時には肉体的にも害を与えるでしよう。この終の日にあつて,物質主義は彼らに不利な証を立てます。『さて,富んでいる者たちよ,あなた方に臨む災難を思つて,泣き叫ぶがよい。あなた方の富は腐り,あなた方の衣服はむしばまれ,金銀はさびている。そしてそのさびは,あなた方を罪に責め,あなた方の肉を食べるであろう。あなた方は終の日にいながら,火のごときものを貯えている。地上にいてあなたがたはぜいたくな生活をなし,情慾のほしいままに行つてきた。』物質主義の彼らは,神の怒りから救われません。『かれらの銀も金もヱホバの烈しき怒の日には,彼らを救うことあたわず。全地その嫉妬の火に呑るべし。ヱホバ地の民をことごとく滅したまわん。そのことまことに速なるべし。』彼らの金は全く無益なものであるため,人はその金を投げ棄てるでしよう。『彼らその銀を街にすてん。その金はかれらに塵芥のごとくなるべし。ヱホバの怒の日には,その金銀もかれらを救うことあたわざるなり。』富の蓄積の妨げにならない正しい原則を投げ棄ててしまうため,彼らは救となるものを棄てております。『宝は震怒の日に益なし。されど,正義は救うて死をまぬかれしむ。』― ヤコブ 5:1-3,5。ゼパニヤ 1:18。エゼキエル 7:19。シンゲン 11:4。
22 今日,多くの働きはなぜ無益ですか? どんな働きは無益でありませんか?
22 それで,今日の多くの人は,自分の働きをもはや楽しんでいません。互いに競争する貧欲な気持のため,生活を平和に楽しむことができず,科学の物質主義は,人間の存在に恐ろしい脅威を与えています。そして,人間は死ぬとき,その労苦の実を一つとして携えて行くことはできません。まつたく,そのような働きは無駄なものです。しかし,霊的な価値を良く悟るときに,人間は楽しんで働けます。そして,安心して食べたり眠ることができ,物質主義の恐れもなく,それに死んだときでも,その働きの価値ある実は無くなることがありません。この働きは無益なものではなく,深い満足を与えます。次の記事は,その詳細を述べています。