あなたを幸福にするには何がいりますか
『自分の霊的な必要物を意識している人々はさいわいである。』― マタイ 5:3,新口。
1,2 生物の幸福に必要なものを決定するものは何ですか。
ちりを幸福にするには何がいりますか。何もいりません。ちりには何を感じる力もないからです。しかし,もし創造者が,そのちりをもつて,一つの生物を造られたらどうですか。それを幸福にするのにこんどは何がいりますか。それは,神がそのちりで何を造られたかによります。もし単細胞の生物を造られたならば,たいして多くの物はいらないでしよう。いくらかの酸素と,少しの湿気と,少しばかりの食物で,その生物の必要は十分に満たされるでしよう。
2 しかし,ヱホバがそのちりをもつて人間を造られたらどうですか。その人間を幸福にするには何がいりますか。それにも,空気と水と食物とがいりますが,それよりもずつと多くのものがいります。人間は単細胞の生物よりももつと複雑ですから,その必要物もはるかに大きいのです。神は,ある欲望をもつ人間を造られたので人間が幸福であるには,それらの欲望が満たされなければなりません。人間は自動車を造りガソリンで走らせます。そのガソリンには空気がまじつていなければならず,それに点火するには火花が必要です。これらの必要が満たされるとエンジンは動きます。でもガソリンの中に水をいれてごらんなさい,エンジンはブスブスと音をたててとまつてしまうでしよう。同様に,神は人間が物を必要とするように造られましたから,人間が幸福に働くには,その必要物が満たされなければなりません。それには,空気,水,食物以上のものがいります。人間は,パンだけ,物質の食料品だけで生きるのではありません。
3 人間の必要物が他の地的生物よりも大きいのはなぜですか。
3 神は,地上の他の生物のかたちやさまに似せて,人間を造られたのではありません。人間は,すぐれたかたちに従つて造られたのです,『神言い給いけるは,われらにかたどりて,われらの像のごとくわれら人を造り,これに海の魚と空の鳥と家畜と全地と地にはうところのすべての昆虫を治めしめんと。』人間は神の像に造られました。そしてそれは,知恵,力,正義,愛という神のような属性,を持つていたことを意味します。この理由によつて人間は,魚や,鳥,野獣,家畜などを満足させるのに足る物質の食糧などより,ずつと多くの物を必要とするのです。―創世 1:26。
4 心の欲求はどのように示され,また,最もよく満たされますか。
4 ヱホバが,人間に,知恵という属性を与えられたといつても,人間の頭が最初から知識で満ちていたというわけではありません。それは,人間が,受容力と知識欲のある頭脳を与えられたということです。生れた時から,頭脳の欲求は,赤ちゃんが物をじつと見つめたり,いつも手をのばして何かをさわろうとしたり,もつとよくたしかめようと物を口に持つていつたりすることでよくわかります。赤ちゃんが物が言えるようになると,その口から,ひつきりなしに質問がとび出してきて,大人たちを驚かせたり,あわてさせたり,じらせたり,はては疲れさせてしまいます。しかし,この雨あられのような質問は,生れつきの好奇心と欲求を満たすためです。そして,若い人たちのもつ知識に対するこの探求心は,阻止されるべきではなく,また大人がそれを失わせてもなりません。神経は,メッセージを脳に送ります。脳はそれらを記憶し,熟考し,理論的に考え,それらに対して結論を下す力を持つています。私たちは思想と密接な生活をしますが,これらはどこからかこなければなりません。私たちの考えることがゆたかであればそれだけ,私たちの生活もゆたかです。最もゆたかな考えはヱホバの考えです。ですから私たちの生活を最もゆたかにするためには,ヱホバの御言葉の中に貯えられている知恵を掘り出さなければなりません,『銀のごとくこれを探り,かくれたる宝のごとくこれを尋ねば,汝ヱホバを畏るることを悟り神を知ることを得べし。』― シンゲン 2:4,5。
5 人間の属性である力は,どのように幸福をもたらすことができますか。
5 ヱホバは,力という属性を持つ人間を造られました。ですから,人間は,手のわざを導く知恵によつて,幸福と深い満足をもたらす多くの事柄を行う力を持つています。花を植えたり,野菜を作つたり,家を建てたり,機械を発明することができます。また詩を作つたり画を描いたり,作曲することもできます。もし彼が,神からの知恵を得て,神の御心と一致して自分の力を使うならば,彼は『人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安』を得るでしよう。しかし人間は知恵と力を誤用するかも知れません。もし誤用するならば,悪行に対する能力も大きいのです。―ピリピ 4:7,新口。
6 正義という属性はなぜ幸福に影響しますか。
6 これを防ぐために,人間には,正義というもう一つの神聖な属性が与えられました。人間は,善悪をわきまえる能力を持つた道徳的な被造物ですから,正義感が悪の足下にふみにじられる時には,良心はいたんで叫び出します。たとえ習慣的な悪行によつて良心が無感覚にされたり,沈黙させられていても,内心には罪悪感があつて,それが人を悩ませ気分を乱し,精神的な病気さえもたらすかも知れません。イザヤが書いたように,人間は道徳感に根強く守られているので,慢性の罪人でさえ自分の悪を正当化しようとします,『わざわいなるかな,彼らは悪を呼んで善といい,善をよんで悪といい,暗きを光とし,光を暗しとし,苦きを,甘しとし,甘きを苦とする。』彼らは自分の悪行が見られないようにかくすかも知れませんが,心からは取り除きません。彼らがもし全き幸福と満足を得る積りならば,この聖書の真理をないがしろにすることはできません,『正義によつて得たわずかなものは,不義によつて得たる多くの宝にまさる。』― イザヤ 5:20。シンゲン 16:8,新口。
7 なぜ愛という属性はそんなにも重要なのですか。
7 しかし,すべての能力と力を和合させる特質は愛です。愛はすべての属性を調和させます。その広さと重要さは,『神は愛である』という簡単な声明の中に反映されています。愛は消極的ではなく積極的であつて,愛する者を助け喜ばせる行為の中に表われます。私たちは自分を愛するが故に自分自身に気を付け,世話をし,自分自身のために必要物を得,自分自身を保護します。私たちは自分を愛するように他の人を愛すべきであり,他の人の福祉にもなるように物事を行うべきです。私たちが他の人に愛を示すならば,他の人も私たちに愛を示すようになります。もし幸福になりたいならば,愛を与えることと愛を受けることの両方が必要です。他の人に愛を与えないならば,私たちは自己中心になります。また他の人から愛を受けなかつたり,受け入れないならば,私たちは打ちひしがれて,からの中のかたつむりのようにとじこもつてしまつたり,あるいは,にがにがしい心で反抗し,罪に陥るかも知れません。愛なくして幸福はあり得ません。―ヨハネ第一書 4:8,新口。
8,9 人間はどのような自然の衝動を持つていますか。それはどのように満たされるべきですか。
8 私たちが安定感を得るには,ヱホバを愛し,ヱホバを知つて崇拝しなければなりません。私たちはそうするような衝動を与えられて創造されたのです。1954年4月号の「ウーマンズ・ホームコンパニオン」誌に載せられた『私たちは信ずるように生れついている』という記事は,次のような副見出しをかかげました,『私たち全部は,性と空腹に対する本能的な衝動と同じくらい強い衝動を神に対して感ずる,と大胆な新しい心理学の学派は述べている。』ある博士の書いたこの記事は次のようです,『もし男や女が,神に対する信仰の必要性を認識するならば,彼らは心の平和と幸福を発見することができる,とこの新学派は言つている。……すべての人々は,ただ性や野心だけではなく,神の必要性にもかり立てられている。彼らは,現代の思想つまり,宗教と神は実際には必要ではなく,生命のために霊的な面を探求することは単純だ,という考えを捨てなければならない。』
9 実際に,より高い力を崇拝するという衝動は,未開人の間にさえ多くの宗教が発達する理由です。必要を感じますからそれを満たそうとします。彼ら自身や,彼ら自身の考え,もしくは盲目な指導者に放任してしまうと,その人々は間違つた方法,つまり間違つた宗教,たぶん偶像を崇拝したり,霊媒者にたよつたり,空の星に導きを求めたりしてその必要を満たします。現代では,ヱホバ崇拝に対するこの衝動は,映画スター,運動家,政治家または科学者の崇拝に堕落しました。多くの人は金銭を神とします。その人たちの宗教は快楽の追求です。しかしこれら代用品のどれ一つとして,神に対する私たちの生れつきの渇望を十分に満たしてはくれません。私たちは,自分の心を用いて神の御命令を学び,その原則を理解し,それらを実行に移すことによつてのみ,その衝動を正すことができ,また神に対する私たちの愛を示すことができます。というのは,『神を愛するとは,すなわち,その戒めを守ることである』からです。もしこの必要を満たさないならば,完全な幸福を味わうことはできません。イエスが言われた次の言葉は真理だからです,『自分の霊的な必要物を意識している人々はさいわいである。』― ヨハネ第一 5:3,新口。マタイ 5:3,新世。
物質主義とは何ですか
10 物質主義とは何ですか。
10 私たちの霊的必要物の大きな敵は物質主義です。いつたい物質主義とは何ですか。食物や服や住居ではありません。『あなたがたの天の父は,これらのものが,ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである』とイエスは言われました。自分のために良い食物,良い衣服,住みごこちの良い家を準備することは,物質主義ではありません。テレビジョン・セットを持つこと,また立派な自動車や,相当な銀行預金を持つことが必ずしも物質主義ではありません。しかしもし私たちが食物を愛して食道楽になつたり,衣服を愛して虚栄になつたり,家を愛して誇つたり,テレビジョンに熱中して時間を浪費したり,みせびらかすために高価な自動車をほしがつたり,金を愛して守銭奴になつたりすれば,その時こそ私たちは物質主義の犠牲になつているのです。物質は別に悪くないのですが,しかしそれが私たちにとつて主義となる時には,それらは悪いものです。ウエブスター辞典によると,『主義』とは,『独特の教義,理想,制度,もしくは実践 ― 通常は悪評』を意味します。物質が私たちの主な目標もしくは理想となり,それを追求することが私たちを導く教義となる時は,私たちは物質主義を実践しているのです。―マタイ 6:32,新口。
11 物があまりにもとぼしいと,どんな害をもたらすことがありますか。
11 物質と霊的なものの両方を必要とするように生れついている以上,私たちは正しい平衡を持たなければなりません。物質が多すぎても少なすぎても,私たちに霊的な害をもたらします,『我をして貧しからしめずまた富ましめず,ただなくてならぬ糧を与えたまえ,そは我あきて神を知らずと言いヱホバは誰なりやといわんことを恐れ,また貧しくして盗みをなし我が神の名を汚さんことを恐るればなり。』ある宗教は貧しさを徳としますが,しかしわざと体を苦しめることは,虚偽であり,むだ骨折りです,『これらのことは,ひとりよがりの礼拝とわざとらしい謙そんと,からだの苦行とをともなうので,知恵のあるわざらしく見えるが,実は,ほしいままな肉欲を防ぐのに,なんの役にも立つものではない。』もし物質的な必要物が満たされないならば,苦しみがはいりこみ,うらみがまかれて敵意が生長し,そして,困難をヱホバのせいにして不平を言つたり,苦しみのためにヱホバを恨んだり,不足を満たすために盗みをするというような実を結びます。物質の不足は,霊の貧困を招きます。―シンゲン 30:8,9。コロサイ 2:23,新口。
12 物を持ちすぎるとどんな害があることがありますか。
12 しかしながら,裕福さも精神的なものを押し出し,ヱホバさえ心から押し出して偽りの神を持ちこむことがあり得るのです,『彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹,彼らの栄光はその恥,彼らの思いは地上のことである。』そのような人々は,自分の肉体を神とし,物質主義が彼らの教義です。彼らは自分自身を偶像化しますから偶像崇拝の罪があります。というのは,パウロは,『貪欲は偶像礼拝にほかならない』と言い,また『貪欲な者,すなわち,偶像を礼拝する者』と言つているからです。ですから物質を持ちすぎると,ヱホバに対してさえ独立感を持ちはじめ,ヱホバは必要ではないと思うようになることさえありうるのです。そして,ヱホバがすべてのものの与え主であることを認識せず,昔のパロのような気持で,『ヱホバとは誰か』と言うかも知れません。もしそういうことになれば,物質を誇りとすることは,私たちにとつてたいへんな恥辱となります。―ピリピ 3:19。コロサイ 3:5。エペソ 5:5,新口。
13 ヱホバはイスラエルに対し,物質主義に関して何を警告されましたか。
13 ヱホバはイスラエルに対して,物質的な富が,彼らを霊的に盲目にすると警告されました,『汝は食いて飽き汝の神ヱホバにそのよき地を己にたまいし事を謝すべし。汝わが今日なんじに命ずるヱホバの戒めと律法と法度とを守らずして汝の神ヱホバを忘るるに至らざるよう慎しめよ。汝食いて飽き美しき家を建て住うに至り,また汝の牛羊殖え増し汝の所有みな殖え増すにいたらん時に,恐らくは汝心におごりて汝の神ヱホバを忘れんヱホバは汝をエジプトの地奴隷たる家より導き出し……給えり。……汝わが力とわが手の働きによりて我この資財を得たりと心に言うなかれ。汝の神ヱホバを憶えよそはヱホバ汝に資財を得るの力をたまうなればなり。』詩的な歌の中で,イスラエルに警告を与えるためにモーセは用いられました。そしてエシュルンという名誉ある名称を持つその国民に向つて述べました,『然るにエシュルンは肥えて蹴ることをなす汝は肥え太り大きくなり己を造りし神をすて己が救いの岩をかろんず。』― 申命 8:10-14,17,18; 32:15。
金銭を渇望する
14,15 金銭を神とするために,時々どんな偽りの理由が挙げられますか。ほんとうの理由は何ですか。
14 人々はなぜ金銭を神としますか。富につかえる人々は,金銭が自分たちの神であることを否定するでしよう。そして生活するには金が必要だと言うでしよう。食べるにも金がいり,衣服を買うにもお金がいり,家庭を持つにもお金がいると言うでしよう。それは事実です。そしてそれこそお金を儲ける一つの理由ですが,しかしお金を崇拝する人はそこでとどまりません。もし金銭が,必要な物や誤楽のためにいくらかの余分の物を得る手段にすぎないならば,多くの金を儲けるほどそれだけ欲望も満たされますから,余分に望むお金の額も少なくなります。しかしいつたい幾人がそのように考えますか。二,三年前,社会科学者たちが,あらゆる水準の収入を得る何百人というアメリカ人と面談して,得ている収入の額で満足しているかどうかを尋ねました。大多数の人は,自分の収入に満足していませんでした。1年に5000ドルを得ていた人は1万ドルを,1万ドル得ていた人は2万ドルを,2万ドルを得ていた人は5万ドルを得ることを欲しました。何百万ドルを持つていた人さえさらに何百万ドルを欲しました。『通常,多くの金銭を持てば持つほど,もつと多くの金銭を持ちたがるのが事実である』と面談者は報告しました。
15 金銭は成功のシンボルとなつてきました。また金銭は,安定と,承認,名声,友人と愛をもたらすものと考えられています。これらは人間の必要物です。しかしこれらは,金銭を儲けても,十分かつ正しく満たされません。安定を得たり社会の中である地位を得ることが金銭によるのならば,金銭がなくなる時は,その安定と承認も同時になくなつてしまいます。もし私たちがお金を持つているが故に友人があつたり,お金のために愛されているならば,その友人や愛人たちはお金と共に去つてしまいます。私たちは,自分が持つているもののためでなく,自分という人間の故に愛されることを望みます。お金は,人間のこの欲求を満たしてくれる糧ではありません。その理由で,私たちがいかにお金をむさぼつても,決して満足な栄養は与えられないのです。聖書はこの真理を3000年むかしに記録しました,『銀を好む者は銀に飽くことなし,ゆたかならんことを好む者は得る所あらずこれまた空なり。』― 伝道 5:10。
16 物質主義に苦しめられている人々には,なぜ休みがないのですか。
16 金銭を追い求めることによつて幸福を追求することは,虹を追いかけてそのふもとの金のはいつたつぼを掘ろうとするのと同じことであつて,決して見いだすことはできません。しかし,迷わされた人々は,お金が満たしてくれると考える必要物は,実はお金では満たされないことを理解することもなく,物質主義の虹を追いかけるのをやめません。一社会の中で栄誉とされる事柄は,その社会の人々によつて養成されるものです。そしてこの物質主義的な世紀では,金銭がとうとばれているために,多くの人々が金銭を追い求めるのです。彼らは,持ち物によつて人の価値をはかります。新しい自動車を見るとそれがほしくなりそれを買います。自動車のお金を払つている間に新しい家が目につきそれもほしくなります。彼らはそれを買いますが長期払いにします。それでも満足しません。新しい家具が目につきます,それも買わねばなりません。そして『お使いになりながら払うことができます』式にそれを手に入れます。それから1年もたつて新型の自動車が出ます。それも買わねばなりません。性能が別にすぐれているわけでもありません。多少でも違いがあれば,それはエンジンではなくて彼らの頭の中です。それにしても彼らは,一番新しくて,最新式で,最上級のものを持たなければなりません。そしてそれを手にいれると,さつそく外のほしい物のことを考えますから,彼らの生活は,物質主義の社会の中で,自分自身を追いかける堕落したものになります。彼らは『肉の欲,目の欲,持ち物の誇り』という,名利主義の渦巻にまきこまれているのです。―ヨハネ第一書 2:16,新口。
17 多くの人々は,どんな病気を持つていますか。それは何に導きますか。
17 彼らにはお金の疥癬ができているのです。それをかけばかくほどますますかゆくなり,かゆくなるからますますかきます。手のひらがかゆい時にそれをかくと,なおるどころか炎症を起すものです。かゆみをとめる方法はそれをかかないようにすることです。しかしお金は人々の心をとらえ,人々はそれを愛していますから,その事が彼らの病気の原因です。それは,金銭ではなくて金銭に対する愛着であり,快楽でなくして快楽に愛着をもつことであり,家や家具や自動車でなくて,家や家具や自動車への愛着です。物質に対するこの愛着こそ,霊的なことを,思いや心から押し出して,生活を忙しくし,霊的必要物を満たす時間も力もなくなるまで精力を徐々にそこなつてしまうのです。金銭に対するこの愛着の中にこそ多くの破滅の原因が根をはつているのです,『わたしたちは,何ひとつ持たないでこの世にきた。また,何ひとつ持たないでこの世を去つて行く。ただ衣食住があれば,それで足れりとすべきである。富むことを願い求める者は,誘惑と,わなとに陥り,また,人を滅びと破壊とに沈ませる,無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。金銭を愛することは,すべての悪の根である。ある人々は欲ばつて金銭を求めたため,信仰から迷い出て,多くの苦痛をもつて自分自身を刺しとおした。』― テモテ前 6:7-10,新口。
霊のために道をあけなさい
18 どの聖句が肉と霊の争いを示していますか。それてそれぞれは何に導きますか。
18 使徒パウロは,自分の罪ある肉体に欺かれませんでした,『わたしの内に,すなわち,わたしの肉の内には,善なるものが宿つていないことを,わたしは知つている。なぜなら,善をしようとする意志は,自分にあるが,それをする力がないからである。すなわち,わたしの欲している善はしないで,欲していない悪はこれを行つている。わたしは,肉なる人としては神の律法を喜んでいるが,わたしの肢体には別の律法があつて,わたしの心の法則に対して戦いをいどみ,そして肢体に存在する罪の法則の中に,わたしをとりこにしているのを見る。』肉というのは,罪深い性癖,傾向,衝動,欲望を持つ堕落した人間のことです。この肉は,罪の下に罪の奴隷として売り渡たされており,罪がその主人として,ヱホバの御言葉の研究によつて私たちの心にはいつてくる神の霊的律法に反対させるのです。罪深い肉は,私たちが避けようとする事柄を私たちにさせるのです,『なぜなら,肉の欲するところは御霊に反し,御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして二つのものは互に相さからい,その結果,あなたがたは自分でしようと思うことを,することができないようになる。』もし私たちの霊もしくは心が,ヱホバの霊とヱホバの御言葉に一致しているならば,それは私たちを正しい方向に導きます。そして,私たちが死なないで生きたいならば,その霊は,私たちの反対する肉に打ちかたなければなりません,『なぜなら肉に従う者は肉のことを思い,霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが,霊の思いは,いのちと平安とである。』― ロマ 7:18,19,22,23。ガラテヤ 5:17。ロマ 8:5,6,新口。
19 物質主義の代価を合計する時何を含めなければなりませんか。
19 ヱホバの霊の助けにより,また私たちの霊を常にヱホバの霊と一致させておくことによつて,私たちは堕落した肉に勝つことができます。それは,とりもなおさず,私たちが,霊の事柄のために余裕をもうけることです。物質を追い求めることは,それ自体別に悪いことではありませんが,しかしそのために時間を全部消費して,私たちの破滅を招くかも知れません。もし切るべきときにスイッチを切ることができなければ,テレビジョンは,その買つた値段よりも高いものにつくでしよう。それを見るには時間がいります。集会の出席や,再訪問,聖書研究などを犠牲にするかも知れません。また高級車や立派な家のために,誰かに真理を教えたり,ヱホバに奉仕するように訓練する特権を犠牲にするかも知れません。物質主義のすべての代価を勘定してごらんなさい。そして正札の金額以上のものを勘定にいれてごらんなさい。霊のものも勘定にいれなさい。裕福なあの若い支配者の財産は,何も悪くはなかつたのですが,しかしそのために若者はイエスに従いませんでした。それは悪いことでした。買つた牛をしらべたり,新しい妻と一緒にいたり,買つたばかりの土地を見に行つたりすることは,何も悪いことではありませんでした。しかし無害なものでも,それがヱホバに対するあなたの奉仕を妨げるならば,それらは有害なものとなり,善を枯らすいばらになることもありうるのです,『また,いばらの中にまかれた人々がいる。これらの者とは,御言葉は聞くが,この組織制度の心ずかいと,富の惑わしと,他のいろいろな欲がはいりこんできて,御言葉をふさぎ,実を結ばなくなる者のことである。』― マルコ 4:18,19,新世。
20 物質主義を捨てようとしている人々は,何を考慮すべきですか。これに関してパウロは何と言いましたか。
20 物質主義を根こそぎひき抜いて,霊を受け入れ得るようにしなさい。『御霊の火を消してはならない』とパウロは警告しています。火が燃えるには空気がいります。火の上にあまり沢山の物を積み重ねると火はいぶるでしよう。物資や財産に対して心をわずらわせすぎて,御霊の火を消してはなりません。限られた時間と精力でもつて,『神と富とに兼ね仕えることは』できません。あなたはどちらを選びますか。物質主義を捨てるのはむずかしいことですか。ではこのことをよく考えて下さい。あなたは人々と聖書の研究をはじめました。ところがその人々は奉仕という責任を悟つた時,研究をやめてしまいました。あなたは,彼らが間違つており,そのようなことを心配すべきではないことを知つていました。というのは,彼らは学ぶにつれて強くなり伝道を望むようになるからです。その人々は,自分が何を断念しなければならないかを知りましたが,自分が得るものの真価を認めるには余りにも新しすぎたのです。さて,ある証者たちは,物質主義に対してこれと同じようです。断念するように要求されている事柄はよく悟りますが,しかし彼らが霊的に得るものの真価は認識しません。それについて彼らはパウロの言葉を受けいれることができます,『わたしは,更に進んで,わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに,いつさいのものを損と思つている。キリストのゆえに,わたしはすべてを失つたが,それらのものを,ふん土のように思つている。それは,わたしがキリストを得るためである。』ですから,物質の損失よりも一歩先,つまり,その損失を取るに足らないものとする霊的な利益を見なさい。―テサロニケ前 5:19。マタイ 6:24。ピリピ 3:8,新口。
21 ある人々は,物質主義をどのように正当化しようとしますか。しかしそれはどんなに汚点を残しますか。
21 物質主義は,人に汚点を残します。物質に引きつけられる人を注意して見てごらんなさい。その人は自分の衣服とか,住居,自動車,もてなしなどにとても気を使います。自分が持つている地位のために,世の中に対してそれだけの体面をたもたなければならないのだとその人は主張するかも知れません。しかし,その人の地位は,地上におられた時のイエスの地位よりも高いものですか。イエスは,この世の物質的な見方に従つて自分の方針を決めましたか。イエスは,乗るべき立派な馬や,枕すべきぜいたくな住宅を持つておられましたか。いいえ,イエスは言葉と行いによつて物質主義を退けられました。そして,ご自分の弟子たちの足を洗つて,謙そんさの手本を示されました。イエスは自分の地位がみせかけの体面を要求するよりも,その反対を要求するのを感じられました。イエスは,みせびらかしではなくて,霊の力に関心を持つておられたのです。でも次第に物質主義的になる人を注意して見てごらんなさい。その人は以前と同じく良い註解をしますか。講話は以前と同じく建設的で,会話は前と同じく霊的に鋭い識別力を持つていますか。もしそうでなければ,その人が気づいても気づかなくても,物質主義が表面に表われているのです。兄弟たちにはそれが分ります。そして神が気づかれるのは確実であることを知りなさい。『まちがつてはいけない,神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを,刈り取ることになる。すなわち,自分の肉にまく者は,肉から滅びを刈り取り,霊にまく者は,霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。わたしたちは,善を行うに,うみ疲れてはならない。たゆまないでいると,時が来れば刈り取るようになる。』― ガラテヤ 6:7-9,新口。
22 物質主義の大きな悪の一つは何ですか。この悪のためにあなたは何を失うことがありますか。
22 イエスは言われました,『だれでもわたしについてきたいと思うなら,自分を捨て……なさい。』物質主義の一つの大きな悪は,そのとりこになつた人が自制しないことです。それは目には見えなくても,木材の中のシロアリのように,抵抗力と,意志の力をむしばんでしまいます。肉に迎合すると,それは道徳的な性質を蝕み,私たちから,御霊の実である自制心を奪つてしまいます。私たちは,毎日,小さな事柄に対して自分を抑制する能力を訓練すべきです。努力する能力を毎日訓練しなければ,努力する能力を失うからです。小さな事柄に対して自制することによつて,大きな問題が起きた時自分を抑制することのできる力を発達させます。私たちが小さなことに忠実であれば,大きな事にも忠実でしょう。また,小さな事柄に怠慢であることは,大きな事柄にも怠慢である証拠です。自分を制御する能力がなければ,あなたは自分の生命を失うかも知れません,『人が全世界をもうけても,自分の命を損したらなんの得になろうか。』出世しようと夢中になつてはなりません。神と共に歩む一方この世と共に走ることはできません。金銭は,現代のこの世の神の一つであつて,彼らにとつては金銭は物をいいます。ヱホバが話される時には彼らはつんぼで,金が物を言う時には耳をそばだてます。彼らは金が地下室でささやいても聞くことができますが,屋根の上で話される説教は耳にはいりません。金銭には声がありませんが,でもあらゆる物からまた生活のあらゆる面から,一生涯にわたつて彼らに話しかけます。私たちにとつては,ヱホバの栄光を語る,物をいわない天に耳を傾ける方が良いのです。―マルコ 8:34,36。詩 19:1-4。
23 私たちはなぜ簡単な好みを養うべきですか。パウロは自分をどのように訓練しましたか。
23 幸福であるには,必要を満足させなさい。その必要を満たすには,必要物をいつも質素にしなさい。持ち物によつて幸福を得ようとしてはなりません。必要品だと考えられている多くの物は,実は少しも必要ではないのです。ある薬品を服用するくせがつくと,その習慣を破ることはむずかしいですが,でもその習慣を破ることはできます。そしてその麻酔薬常用者も自由になれます。物質主義をつちかつてごらんなさい。そうすると,欲しいと思う物は私たちの力のおよそおよばないまでに沢山になります。『富を得んと思いわずらうことなかれ,おのれの明哲をたのむことなかれ。』自分を奴隷にしないような単純な趣味を養いなさい。パウロは,どのような物質的状態の下でも満足するように自分を訓練しました,『わたしは,どんな境遇にあつても,足ることを学んだ。わたしは,貧に処する道を知つており,富におる道も知つている。わたしは,飽くことも飢えることにも,富むことにも乏しいことにも,ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。』彼はとぼしくなつてもうらみがましくならず,富んでも,物質主義というわなに陥りませんでした。彼は自分自身の助言に従つたのです,『金銭を愛することをしないで,自分の持つているもので満足しなさい。』多くても少くてもパウロは満足していました。パウロの持つていた物質はわずかでしたが,彼の霊的な富は偉大でした。―シンゲン 23:4。ピリピ 4:11,12。ヘブル 13:5,新口。
24 どんなものの中に喜びを見出すことができますか。私たちを幸福にするのにいる,さらに重要なものは何ですか。
24 幸福であるためには,神があなたを地から造られ,また地のために造られたことを忘れてはなりません。真実の喜びは神の造られた物の中にあります。無数の星のきらめく暗い天空,太陽の暖かさ,そよ風のすがすがしさ,かんばしい花のかおり,小鳥たちの歌,動物の愛らしさ,うねうねと続く岡や切り立つた絶壁,急流やものうげな小川の流れ,みずみずしい緑の牧場やこんもりと繁つた森,陽光の中できらめく雪や,屋根をたたく雨の音,穴倉の中ですだくこうろぎの音,池の中で鳴く蛙の声や月の光に波紋をえがく魚の動き。更に大きな喜びは,友とするによい人間の中に見出されます。というのは,人間は,社交的なものに造られたからです。親切なおもいやり,同情的な性質,ものやわらかい身振りや表情,あたたかいほほえみや愛のこもつた行為,あそびに夢中になつている子供の笑い声や寝台の中の赤ん坊ののどを鳴らす声,人生の経験をゆたかに積んだ老人の威厳と知恵 ― これらは満足を与えるものです。大切なのは私たちがどうあるかであつて,私たちがどう見えるかではありません。それは私たちの持つ愛であつて,社会的な地位ではありません。それは私たちが与え得るものであつて,私たちが得ることのできるものではありません。それは私たちが天に持つている宝であつて,地上にたくわえられた金ではありません。重要なのは,多くの物を持つて不安でいるよりも,少しの物で満足することです。私たちは神の思いを得ることによつて賢明になれます。そしてこの知恵を使つて力を得,神の原則に従つて正義を確かにし,愛を示すことにおいて神に習う時,必要物は供給され,神が私たちの中に与えられた欲求を満たすことができます。そしてすべてこれは私たちを幸福にするために必要なものです。