神のみたまを表わす
「御霊によって進もうではないか」― ガラテヤ 5:25。
1 今日どんな傾向が盛んになっていますか。ある人々はなぜこの傾向に従いませんか。
この時代は現代の人間の知恵が造りだしたいろいろなもので満ちています。国々は多くのことを成し遂げました。ナショナリズムの影響を受けて人々は自国の科学と技術が最高のものであると考えています。さまざまの業績に対して人間が称賛されています。このような傾向が強くなるにつれて,聖書にしるされている多くの奇跡や,驚くべき事柄が神の力によってなされたことを信ずる人は少なくなりました。この傾向に支配される人は,ペテロの第二の手紙 3章3,4節に描かれているような人にならないとも限りません。「まず次のことを知るべきである。終りの時にあざける者たちが,あざけりながら出てきて,自分の欲情のままに生活し,『主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから,すべてのものは天地創造の初めからそのままであって,変ってはいない』と言うであろう」。しかしすべての人がこうなのではありません。神のことば聖書に神の力の働きを認める人もいます。コリント人への第一の手紙 2章12,13節はこのような人々について述べたことばです。「わたしたちが受けたのは,この世の霊ではなく,神からの霊である。それによって,神から賜わった恵みを悟るためである。この賜物について語るにも,,わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで,御霊の教える言葉を用い,霊によって霊のことを解釈するのである」。聖書に記録されたいくつかの事例を,自分がどう評価しているかを検討すれば,人は自分の傾向を知ることができます。
2,3 (イ)これについての自分の考え方をどのようにしらべることができますか。(ロ)パウロの助言,黙示録,モーセの成長を,あなたはどのように見ますか。
2 西暦60年から61年にかけてエペソの町でクリスチャンの集まりがあった時,テキコのもたらした使徒パウロの手紙が読まれました。その場にいたとすれば,あなたはその手紙をどのように評価しましたか。ローマのひとりの老人の助言と考えましたか。あるいは神の霊の産物と考えましたか。西暦96年に黙示録のことばを聞いたとすれば,流刑地の孤独な人の夢物語としてそれを聞きましたか。それとも「神がキリストに与え,キリストが伝えた」黙示,すなわち神の霊を経て地に伝えられた神のことばとしてそれを受け入れましたか。―黙示 1:1。
3 エジプトにおける隷属状態からまことの崇拝にイスラエル人を導くために,エホバ神から選ばれたモーセはこう言いました。「わたしは,いったい何者でしょう。わたしがパロのところへ行って,イスラエルの人々をエジプトから導き出すのでしょうか」。「ああ主よ,わたしは以前にも,またあなたが,しもべに語られてから後も,言葉の人ではありません。わたしは口も重く,舌も重いのです」。(出エジプト 3:11; 4:10)聖書の記録によれば,モーセはパロの前に何回も立ち,また多くの人を前にしても確信をもって力強く語りました。(出エジプト記 7:10-10:29。申命記 32:1-33:29)あなたはそこにモーセのどんな姿を見ますか。40年にわたる活発な奉仕によって円熟し,単に成長したモーセですか。それともみこころを成し遂げる円熟した人が,神の霊の働きによって生まれた姿を見ますか。
4 エレミヤが神の霊に導かれていたと結論できるのはなぜですか。
4 紀元前647年,ユダに対する預言者としてエホバ神から任命されたエレミヤは,「ああ主エホバよ視よわれは幼少により語ることを知らず」と答えました。(エレミヤ 1:6,文語)このエレミヤは40年以上のあいだ大胆に語り,ユダの国に対するエホバのさばきを書きしるしました。それで,初めからずっとエレミヤのかたわらにいたと仮定してごらんなさい。あなたは感嘆して,これを成し遂げたエレミヤは偉大な人だと言いますか。それともエレミヤ自身と同じく,エホバの霊の働きを認めますか。「エホバかくいひ給ふ知恵ある者はその知恵に誇る勿れ,力ある者は其力に誇る勿れ,富者はその富に誇ること勿れ,誇る者はこれをもて誇るべし 即ち明哲して我を識る事とわがエホバにして地に仁恵と公道と公義とを行ふ者なるを知る事是なり,我これらを悦ぶなりとエホバいひ給ふ」。(エレミヤ 9:23,24,文語)エレミヤはアナトテの祭司ヒルキヤの子でした。それでエホバから直接に招かれなかったとすれば,祭司として一生を終え,他の多くの祭司のひとりにすぎなかったわけであり,今日まで名を残すことはなかったでしょう。しかしエレミヤが預言者になることは,その生まれる前からエホバによって定められていたのです。それでエホバの霊によって,エレミヤは大胆な預言者となり,歴史家また聖書の編集者となりました。
5 五旬節の日の奇跡的な出来事について,どんな説明が試みられますか。どれが正しい見方ですか。
5 西暦33年シワンの6日,すなわち五旬節の日に,エルサレムで重要な集まりが開かれました。その場に居あわせたならば,激しい風のような音を聞き,炎が現われて人々の上に留まったのを見たことでしょう。その人々はいろいろな国のことばで「神の大きな働き」を述べました。人は以前に学んだことのある言語で話したのですか。ある目撃者が考えたように,酒に酔っていたのですか。(使行 2:11,13)それとも,使徒行伝 2章4節の説明でじゅうぶん納得しますか。「一同は聖霊に満たされ,御霊が語らせるままに,いろいろの他国の言葉で語り出した」。その時ペテロが語った次のことにあなたは同意しますか。「この人たちは,あなたがたが思っているように,酒に酔っているのではない。そうではなく,これは預言者ヨエルが預言していたことに外ならないのである。すなわち,『神がこう仰せになる。終りの時には,わたしの霊をすべての人に注ごう。そして,あなたがたのむすこ娘は預言をし,若者たちは幻を見,老人たちは夢を見るであろう。その時には,わたしの男女の僕たちにもわたしの霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう』」― 使行 2:15-18。
6 聖書にしるされた他の13の出来事は,神の霊とどんな結びつきがありますか。
6 エホバ神の霊の働きである多くの出来事が聖書に記録されています。そのいくつかをしらべてごらんなさい。(1)創造 ― 創世記 1:2。詩篇 104:30。(2)イエスの誕生 ― マタイ 1:18。(3)イエスの復活 ― ローマ 8:11。(4)イエスが行なった奇跡 ― マタイ 12:28。使徒行伝 10:38。(5)イエスのバプテスマ ― マタイ 3:16。(6)バプテスマを受ける新しい奉仕者は,聖霊の働きを認めなければならない ― マタイ 28:19。(7)コルネリオを助ける ― 使徒行伝 10:1-48。(8)ソロモンの時代における宮の造営 ― 歴代志上 28:11,12。(9)イスラエル人を養う ― ネヘミヤ 9:20,21。(10)パロおよびネブカデネザルの夢を解く ― 創世記 41:25,38,39。ダニエル書 4:18。(11)聖書を書く ― ペテロ第二 1:20,21。テモテ第二 3:16。(12)クリスチャン会衆の監督を任命する ― 使徒行伝 20:28。(13)終わりの時代に神の国を全世界に宣べ伝える ― 黙示録 1:1; 14:6。マタイ 24:14。
崇拝の安全な場所を見いだす
7 神がむかし行なわれたすばらしい事柄を認める人は,どんな腎明な道をとりますか。だれの手本がありますか。
7 身をおくべき最善の場所はエホバの霊が働き,神をほめる結果を生み出しているところです。そのことに疑問の余地はありません。神の霊の感化を受けている,従順でけんそんな人々,神の霊を表わしている人々を見いださなければなりません。それはヨセフ,ダニエル,キリスト・イエスのような人々であって,物事を成就する神に栄光を帰する人々です。伝道につかわされた70人の弟子がもどってきて伝道の成果を報告した時のイエス・キリストの態度は注目に値します。ルカはそのことを記録しています。「そのとき,イエスは聖霊によって喜びあふれて言われた,『天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して,幼な子にあらわしてくださいました。父よ,これはまことに,みこころにかなった事でした』」。(ルカ 10:21)幼な子のように柔和な人はみたまにさからわず,生命をささえる霊的な食物をしりぞけません。むしろ,神の霊に導かれた生活をするため,霊の働きを妨げるものを取り除くことに努めるでしょう。神の霊が働くところには,ガラテヤ人への手紙 5章22,23節に述べられたみたまの九つの実が認められます。「御霊の実は,愛,喜び,平和,寛容,慈愛,善意,忠実,柔和,自制であって,これらを否定する律法はない」。
8,9 クリスチャンの群れに働く霊の実を説明しなさい。
8 「苦難の時代」である今の時代に,このような特質を表わしている人々の社会を想像できますか。(テモテ第二 3:1)これら九つの特質を心の中で吟味してみてください。それは神の民の会衆内に見られるべきものです。愛と言えばイエスの次のことばを思いおこします。「『あなたは思いをつくし,魂をつくし,心をつくしてあなたの神エホバを愛さねばならない』。第二も同じくこれである。『あなたは自分のようにあなたの隣人を愛さねばならない』。これは最も大きな,第一の戒めである」。(マタイ 22:37-39,新世訳)この戒めを守る人は,テモテへの第二の手紙 3章1節から5節に描かれている貪欲で利己的な道を歩みません。
9 喜び,それは迫害を受ける時にも,苦しい時,家庭に悲しみがある時にも,平穏無事な時にも,エホバに仕えて得る心からの満足です。どんな時にも神に忠実を保つことによって,人は心に満足を得ます。それから平和があります。ささいな事で口論したり,争ったりすることはありません。家庭内の,また隣人とのいざこざは姿を消して,思い起こされることもなくなります。平和なふんい気の中で円熟への成長が見られ,新しい人も会衆の集会においてそのすばらしさを経験します。不完全な人間にあやまちはつきものです。それで互いに忍ばなければなりません。だれかが未熟のために舌を制することをしなくても,怒る必要はありません。親切があれば,柔和と思いやりを示すことができます。それは困難や試練に直面している人に対する同情や援助ともなり,励ましのことばともなります。人の感情を害することをおそれて必要な助言や忠告を与えないのは親切ではありません。衛生また滋養の点で申し分のない食品は優良な食品と言えます。同様に清い奉仕者は神の目に良く,また一緒にいて気持ちのよいものです。信仰は神のことばをよく学び,神のみこころに関する多くの疑問を明らかにすることによって得られます。多くの証拠を得ることから確信が生まれ,確信は奉仕者のふるまいにも表われます。柔和は,平衡のとれた神の奉仕者の特質です。柔和な人は平静な心を持ち,極端に走りません。みたまの実を常に育てるために,クリスチャンは身体と精神の両面で自制し,不品行を避けます。不品行は神のしもべを失格させます。
10 みたまの実が生活の指標であると言えるのはなぜですか。それで神のしもべに何を期待できますか。
10 みたまの実は会衆の集会に出席している時にだけ示すのではありません。肝心なのはこの事です。それは生活の指標でなければなりません。パウロは同じ5章の25節に「もしわたしたちが御霊によって生きるのなら,また御霊によって進もうではないか」と述べて,そのことを明らかにしています。みたまに導かれて毎日をすごす従順な人は,霊の働きによって愛の服従心をつちかいます。神の民を見いだした人は,崇拝の場所である集会におけると同じく家庭において,クリスチャンの仲間に対すると同じく妻,夫,兄弟姉妹に対してみたまの実が表わされているのを見ることでしょう。
集会 ― 徳を高める機会
11 エホバの民の集会が異なっているのはなぜですか。
11 この理由でエホバの証人の集会は楽しく,また徳を高める機会となっているのです。そこには神の霊の働きが認められます。そこには生気があり,有意義なことを成し遂げた満足があり,しかもエホバ神にほまれと賛美が帰せられます。これはひとりよがりの意見ではありません。他の人の意見や記録に照らしても明らかなことです。たとえば,エホバの証人の大会を報じたニューヨーク・タイムスの記事が,1958年度アメリカ議会報告付録(A6907頁)にのせられています。「証人はニューヨーク市の最善の客 ― 世界大会に参集した18万人の礼儀正しさ,静粛さ,清潔さは賞賛の的」。エホバの証人が重要視しているのは崇拝のための建築物の体裁ではなく,霊的な健康と円熟です。その簡素な崇拝の場所は家族的であり,あなたはいつでも歓迎されます。
12 これらの集会が徳を高める理由を述べ,またみたまがどのように働いているかを説明しなさい。
12 エホバの証人の集会が徳を高める別の理由は,その心の状態にあります。人はエホバの証人の集会でくつろぐことができます。パウロは,「終りの時には,苦難の時代が来る」と書きました。(テモテ第二 3:1)ガラテヤ人への手紙 5章19節から24節は肉の行ないが何かを述べています。「不品行,汚れ,好色,偶像礼拝,まじない,敵意,争い,そねみ,怒り,党派心,分裂,分派,ねたみ,泥酔,宴楽,および,そのたぐいである……このようなことを行なう者は,神の国をつぐことがない」。このような肉の行ないをならわしにする人々がいます。それで職場や学校において終日,身を守って常に正しく行なうには力が必要です。このような人々の心は詩篇 14篇1節に描かれています。「愚かな者は心のうちに『神〔エホバ〕はない』と言う。彼らは腐れはて,憎むべき事をなし,善を行なう者はない」。しかしエホバの証人の集会にくる人々は異なっています。心が違うからです。どこかに変化が生じています。それはコリント人への第二の手紙 3章3節に述べられています。「あなたがたは自分自身が,わたしたちから送られたキリストの手紙であって,墨によらず生ける神の霊によって書かれ,石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを,はっきりとあらわしている」。競争と緊張のない平和なふんい気の中で,くつろぐことができます。それだけでも心はさわやかです。箴言 14章30節にも,「穏やかな心は身の命である」としるされています。1日を終えてつかれた人でも聖書研究の集会や神権宣教学校に出席して身体的にも精神的にも生気を得るのは,そのためでしょう。モーセはこのような道をとりました。「信仰によって,モーセは,成人したとき,パロの娘の子と言われることを拒み,罪のはかない歓楽にふけるよりは,むしろ神の民と共に虐待されることを選(ん)だ」。(ヘブル 11:24,25)集会のあとで人のいだく感じは,ソロモンの建てた宮の献納式に参列したイスラエル人のそれと同じであろうと思われます。「ソロモン民を其天幕に帰せり 皆エホバがダビデ ソロモンおよびその民イスラエルに施こし給ひし恩恵のために喜び且心に楽しみて去れり」― 歴代下 7:10,文語。
13,14 各人の変化はかたい決意によるものですか。結果は何を物語っていますか。
13 エホバの霊だけが人を変えることができます。人間の作った組織や政府は悪を抑制することに努めていますが,1955年5月13日付ユーエス・ニューズ・アンド・ワールドリポートの社説のことばを借れりば,「寛容と無私は道徳や雅量と同じく,法によって強制できない」ものです。(1957年「ものみの塔」英文86頁)肉の行ないにふけっていた者がみたまの実を結ぶには,人格を変えなければなりません。パウロはエペソ人への手紙 4章22節から24節にそのことを述べました。「あなたがたは,以前の生活に属する……古き人を脱ぎ捨て……真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである」。つづいて25節から32節に述べられている変化に注目してください。偽わりを語る者は真実を語る者となり,盗みをした者は職につき,困っている人に分け与えることさえできるようになり,騒ぎ,そしることをした者は柔和になり,悪い下品なことばに代えて徳を高める美しいことばを使うようになります。姦淫,淫行,過度の飲酒,あらゆる放縦は姿を消し,かわって神のみたまの実である行ないが生まれます。
14 エホバの証人の会衆の集会は,このような人々の集まりであって,円熟への進歩を助けます。人格をあらたにした人と交わるのが気持ちのよいことであれば,このような人々のグループと交わるのはさらに愉快なことです。このような祝福はだれでも望むにちがいありません。コリント人への第二の手紙 13章11節にあるパウロのことばは,このような集会に出席することの大きな益を述べています。「最後に,兄弟たちよ。いつも喜びなさい。全き者となりなさい。互に励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和に過ごしなさい。そうすれば,愛と平和の神があなたがたと共にいて下さるであろう」。
みたまによって歩む
15 どのようにある人はみたまによって歩むことをやめましたか。その最後の結果は望ましいものですか。
15 しかし考えなければならないことがあります。肉の行ないを述べ,他方でみたまの実をあげたのち,ガラテヤ人への手紙 5章25節は確信をこめて次のように述べています。「もしわたしたちが御霊によって生きるのなら,また御霊によって進もうではないか」。人がみたまの導きを離れ,不法を行なう者となり,神に対して冷淡になるのはあることです。(マタイ 24:12)落伍することは容易です。どこにいても何をするにも,「御霊によって進」むという原則を忘れてはなりません。人が神への奉仕をやめるのは,神が変わったからではなく,あるいはその人の予期しなかった事を神が始めたからではありません。神のみこころは啓示され,聖書に明らかに示されています。神の霊の産物である聖書は,書きしるされた時から今日に至るまで変わっていません。あるいは,人は故意に,またいっぺんにやめるのではありません。霊的な食物をしだいに欠かすようになります。食べるのをやめたからといってすぐに死ぬわけではなく,からだはしだいに衰えます。それと同じく霊的な栄養失調も徐々に進み,勇気は恐れに,確信は疑いに変わります。熱意がおとろえます。活発だった神のしもべが生気を失って不活発になります。みたまの実もしだいに失われます。このような人が弱くなって,肉の行ないにもどるのも不思議ではありません。―ペテロ第二 2:20。
16 みたまによって歩む人はどこに導かれますか。どんな危険を避けることができますか。
16 神のことばは,神のみたまの働くところで歩み,仕事をし,遊ぶことをすすめています。そそがれるみたまに浴して成長しなさい。大いなるバビロンに支配されている組織や人々の精神はこの世でぬきんでることです。自分と自分の利益がいちばん大事にされています。テモテへの第二の手紙 3章1節から5節に示されている「苦難の時代」のありさまが多くは利己主義から生じていることに注目してください。しかもこの状態を生み出しているのは,「信心深い様子」をした,神を拝む人々なのです。
17 日頃,決定を下すにあたって,どんな道をとるべきですか。何をすることは危険ですか。
17 神の霊が生み出すものは,それとは正反対です。テトスへの手紙 1章7節は,会衆の監督の資格として「わがままでな」いことをあげています。他方,ペテロの第二の手紙 2章10節は,神の霊によって歩むことをしない人々の態度を,「汚れた情欲におぼれ肉にしたがって歩み,また,権威ある者を軽んじる」と述べています。毎日の務めとエホバの崇拝との平衡を保つために,次の事柄を考慮しなければなりません。(1)しなければならない事柄 ― 家族の生計をたてることなど。(テモテ第一 5:8)(2)する必要のあること ― エホバにいっそう奉仕するために最善の環境をつくることなど。(エペソ 5:16。コロサイ 4:5)(3)したいと思っている事柄 ― 旅行,きりがないように見える娯楽など。(テモテ第二 3:4)自分のことをエホバの崇拝よりも先にする人は,みたまに導かれていません。どっちつかずの立場をとることはできません。
18 神の霊はどんなところにも働いていますか。そのことは生活において何を意味しますか。
18 みたまに導かれていない人とともに歩んで生命を危険にさらすよりも,安全なところにとどまりなさい。「まちがってはいけない。『悪い交わりは,良いならわしをそこなう』」と述べたコリント人への第一の手紙 15章33節は真実です。悪い交わりの上に神の霊は働いていません。悪い交わりは不品行,不義の子,賢明でない結婚,麻薬中毒,両親の嘆きを生み出します。(コリント第一 7:39。ペテロ第一 3:17。コリント第一 6:9,10)リクリエーションを求めるのに安全な場所はどこですか。みたまに導かれていない人と行動をともにするのは,安全ではありません。「今はあなたがたが,そうした度を過ごした乱行に加わらないので,彼らは驚きあやしみ,かつ,ののしっている」。(ペテロ第一 4:4)神の霊によって乱行を慎しむ人々とともに楽しむならば,徳を高めることができ,その交わりは悔いのないものとなるでしょう。
19 各人また家族はどのように神のみたまを表わしますか。
19 イエスは山上の垂訓の中で御国の重要さを強調し,マタイによる福音書 6章33節のことばを述べました。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば,これらのものは,すべて添えて与えられるであろう」。それで,どちらかに決めなければならない場合が起きます。自分のわがままを通すか,それともみたまの導きの下にとどまるか,そのどちらかに決めなければなりません。結婚の相手を選ぶにも,そのことが言えます。悪い交わりに影響されて,近視眼的になっていませんか。「不信者と,つり合わないくびきを共にするな」と述べた神のことばの警告を心に留めていますか。(コリント第二 6:14)あるいは仕事をさがしているかもしれません。ある人のように,神への奉仕の特権を後回しにして就職を第一にしますか。(ヤコブ 4:13-17)子供の訓練であれば,将来性のないこの世において出世することを願う子供に育てますか。それともエホバの,繁栄している安全な組織の中で奉仕の祝福を増し加えることを願う子供に育てますか。(箴言 22:6。サムエル上 1:28; 2:26)生活の中で神の導きを第一にして,このような問題の決定を下すならば,その家族は神のみたまを表わしていることになります。その家族は会衆の集会と同じく徳を高め,生気を与えます。「女の貨財と汝がすべての産物の初生をもてエホバをあがめよ」― 箴言 3:9,文語。
20 人はたとえ不完全でも,みたまの働きから受けた福祝を他の人々にすすめることができますか。
20 価値のあるもの,ことばで言いつくせないほど有益なものを発見したとすれば,そのことを他の人に告げないでしょうか。もちろん語ることもするでしょう。しかしこのような発見の事実を雄弁に語るのはその人の行ないです。みたまの導きにどう答え応じますか。これは慎重な考慮を要する質問です。行ないによってみたまの実を他の人にすすめていますか。真に価値あるものを見いだしたことが他の人の目にも明らかなほど,人格を新たにしましたか。あなたは行ないによって何をすすめていますか。神の霊は力のある働きをします。神の霊に導かれている人の行ないには,他の人の目にもみたまの働きが認められます。また次のようにも見てごらんなさい。黙示録 7章9,10節によれば,「あらゆる国民,部族,民族,国語のうちから,数えきれないほどの大ぜいの群衆が,白い衣を身にまとい,しゅろの枝を手に持って,御座と小羊との前に立ち,大声で叫んで言った,『救は,御座にいますわれらの神と小羊からきたる』」。あなたは,神の前に義の立場を得ているこの大ぜいの群衆のひとりですか。この祝福にあずかっている人は,この立場を得ることを他の人にすすめるため,熱心な行ないをします。
21 農夫の見地から考える時,何を理解できますか。どんな道がすすめられていますか。
21 畑に作物を育てる農夫にこれをたとえてみましょう。農夫は畑を耕し,種をまくために土壌を仕立てます。こうして麦を植えたとすれば,それはほかに作るものがないからですか。あるいは偶然にその種が手元にあったからですか。そうではありません。はっきりした目的がありました。収穫の一部は家族の食用となり,一部は来年にまく種となり,他を売って生活に必要なものを買う資金にかえます。土におろした種は順調に成長するならば多くの実を結びます。しかし,やせた細長い茎に質の劣った粒をつけるならば,農夫は失望するでしょう。それは収穫するだけの価値がないかもしれません。さて,偉大な農夫であられるエホバはすべてのものをととのえ,耕す者,種をまく者,世話をする者,収穫する者をつかわされました。ではわたしたちはどのように応ずるべきですか。箴言 12章11節はこう述べています。「自分の用地を耕す者は食糧に飽きる,無益な事に従う者は知恵がない」。真理の雨および成長をうながすエホバの霊の熱を受けて成長し,実を結び,100倍に実ってエホバのほまれとなってください。