読者からの質問
● 刑柱にかけられていた時,イエス・キリストが「わが神わが神なんぞ我をすてたまふや」と叫んだのはなぜですか。―アメリカの一読者より
イエスの質問はダビデの詩から引用されたものです。(詩 22:1)ダビデの場合,その質問は,ほんのわずかな間見捨てられていたときの状態と関係があります。敵に囲まれたダビデは,自分がエホバに全く見捨てられたような状態にあることに気づきました。その状態から生じた非常な緊張感のためダビデは,罪を犯したおぼえもないのになぜそういうことになったかを尋ねました。しかしダビデは信仰を失いませんでした。なぜならその同じ詩篇の中で彼はこう祈っているからです。「ねがはくは速きたりてわれを援けたまへ」― 詩 22:16-19。
同様にイエスも,詩篇 22篇1節のことばを語られたとき,み父がわずかの間その保護を差し控え,見「すて」た,すなわち刑柱上で呪われた犯罪者として死ぬよう敵共の手中に渡された,ということを強く感じたのです。(ガラテヤ 3:13)イエスは「なぜ」と言われましたが,それはこのように見捨てられることの理由を知らなかったとか,み父から返答を期待しておられたということを意味するものではありません。その状況は,人間の苦しみの理由を知りながらも,極度に困難な重圧下で無言のうちに,あるいは声を出して「なぜ」と尋ねるクリスチャンの場合と比較することができます。質問者はそのことによって,その苦しみが彼の罪によるものであると考える理由のないことを示します。したがって,イエスの叫びは,詩篇 22篇1節を成就するほかに,彼の無実なことを明らかに確証するものとなり,またイエスの苦しみの真の目的に焦点を合わせるものとなったのです。―マタイ 27:46。ヨハネ 12:27,28,33と比較してください。
● 箴言 26章4,5節は矛盾してはいないでしょうか。4節には,「愚なる者の痴にしたがひて答ふるなかれ,恐くはおのれも是と同じからん」と書かれていますが,5節には次のようにしるされています。「愚なる者の痴にしたがひて之に答へよ,恐くは彼おのれの目に自らを智者と見ん」。―エクアドルの一読者より
それは矛盾してはいません。むしろ,それらの聖句は,愚かな者に答える,正しい方法とそうでない方法とを対比させているにすぎません。4節は,愚かな者に対して,その人がするように ― 嘲笑,人身攻撃,大声を立てる乱暴な話し方,激怒その他の卑劣な仕方に訴えて議論するという意味で相手の愚かさと歩調を合わせて相手に答えてはならないとさとしているのです。そのような仕方で答える人は,それによって自分が愚かな者と同じ水準の者であることを示しているのです。4節の後半が警告しているのはそのことです。それで,前半の部分をどのように理解すべきかは,その節の後半に示されています。―箴言 20:3および29:11と比較しなさい。
他方,愚かな者の論点を分析し,それがばかげていることを暴露するという意味で,「愚なる者の痴にしたがひて」答えるのは,適切なことといえます。相手の論義は当人の下した結論とはまったく異なった結論に達することを示せば,それ以上愚かな仕方で話を続けるのを相手に思いとどまらせるかもしれません。それは,いわば叱責や懲戒としての役割を果たすのです。当人は,自分がそれほど賢いなどとは思わなくなるでしょう。愚かな論義の帰結を力説する,すなわち,その考え方が帰着する不合理で好ましくない結末を示すのは,その種の論義に対処する最善の方法の一つと言えます。
たとえば,だれかが聖書を嘲笑しようとして,進化論からすれば聖書は時代遅れだとか,聖書は無知な人間のための寓話にすぎないと主張したとしましょう。この場合,直接聖書から説明するよりも,創造を信じている人は「進化と創造 ― 人間はどちらの結果ですか」の本に載せられている論義を用いることができるでしょう。その本には,聖書の記述を認めようとしない人々の意見や学説そして所説が取り上げられていますし,進化論を受け入れる人が,物質,生命,その他の存在を説明するにさいして直面する,どうすることもできない難問題が指摘されています。
また,クリスチャンは別の意味においても愚かな者の愚かさにしたがって答えるべきではありません。クリスチャンは無意味で大げさなことば使いを避けて,「人の知恵の教ふる言を用ひず,御霊の教ふる言を用ふ,すなはち霊の事に霊の言を当」てるべきです。それで,この世の知恵にたけた人々の前に立つ場合,クリスチャンは恐れたりちゅうちょしたりすべきではありません。なぜなら,そのような知恵に頼る者は神の目には愚かで愚劣な人間だからです。そのような人の話し方やことば使いは非常に洗練された,博学の人のそれのように響こうとも,クリスチャンはそれを取り入れようとすべきではありません。簡潔で平易な真理である聖書の霊的なことばを用いるべきです。もしかして話に耳を傾け,そうした真の知恵のことばに動かされる人々の心を神が開いてくださるとの確信をいだいて神により頼むべきです。パウロはコリントの町で,そのようなこの世的に賢い人々の前に立ったときこの方法をとりました。―コリント前 2:1-5,13。
箴言 26章4,5節で「愚なる」と訳されているヘブル語は「ケシル」であり,それは,不敬虔,不信心,あるいは(宗教的な意味で)尊大という意味を含んでいます。その語は必ずしも無知な人間をさしているのではなく,むしろ,倫理的愚鈍,理解力や知恵の欠如をさしています。それは,知力を正しい方法で,特に霊的な物事に関係のある事柄において行使しないことをさしています。―詩 14:1と比較しなさい。
この世の知恵に頼る者の考え方は,霊のものではなく,肉に属するものです。聖書はそのような人を愚かな者と明白に述べています。彼らが無知であるというのではなく,世間ずれしているのです。しかし,彼らは自らの行なっている事柄により,神と衝突する道を歩んでいます。―コリント前 2:14。