逃れる人には熱心な態度が求められる
1 啓示の書の中で,どんな二人の象徴的な女のことが述べられていますか。二人がだれであるかはどのように明らかにされていますか。
聖書の巻末の本をよく調べると,鋭い対照をなすものと理解される二人の象徴的な女が出てきます。一方は,「大いなるバビロン」であり,他方は,神の子羊の「妻」です。第一の者は「娼婦」としての焼き印を押されています。第二の者,すなわち「子羊の妻である花嫁」は処女です。(啓示 17:3-6,15; 21:9)それらは共に宗教上の組織ですが,一方は汚れたもの,他方は清いものです。「子羊の妻である花嫁」は,子羊イエス・キリストに対して処女のごとく忠実に従う14万4,000人の会衆であり,そのすべては霊的イスラエル人です。大いなるバビロンは,古代バビロンに由来する偽りの宗教の世界帝国です。したがって,それは,真のキリスト教に反する宗教に従うすべての人々から成っています。使徒ヨハネが,「その女が聖なる者たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た」のはそのためです。(啓示 17:6)したがって,大いなるバビロンに属する人々の奉ずる宗教はクリスチャン的なものではなく,バビロン的なものであり,そのゆえに偽りのものです。
2 キリスト教世界と大いなるバビロンとはどんな関係にありますか。それはどのように明らかにされていますか。
2 世界強国ローマにおける主要な宗教組織となったいわゆるキリスト教は,それによって,事実上,大いなるバビロンの娘となりました。大いなるバビロンについてはこう記されています。「額には一つの名が書いてあった。それは秘義であって,『大いなるバビロン,娼婦たちと地の嫌悪すべきものとの母』というものであった」。(啓示 17:5)したがって,キリスト教世界がその宗教上の母に見倣っているのも不思議はありません。さらにこう書いてあります。「地の王たちは彼女と淫行を犯し,地に住む者たちは彼女の淫行のぶどう酒に酔わされた」。(啓示 17:1,2)キリスト教世界はこの世との親密な交友を保っています。そのことは,ヤコブ 4章4節の言葉を思い出させます。「姦婦たちよ,あなたがたは世との交友が神との敵対であることを知らないのですか。したがって,だれでも世の友になろうとする者は,自分を神の敵としているのです」。キリスト教世界に見られる,教会と国家との多くの結合は,キリスト教世界の誉れとはなりません。それは彼女が霊的な淫行者,世の政治に手出しする者であることを示しています。キリスト教世界は,人類にとって,汚れた偽りの避難所として罪に定められています。
3 キリスト教世界を含む大いなるバビロンの運命はどのように明確に描写されていますか。
3 大いなるバビロンに臨む事柄はキリスト教世界にも臨みます。この点に疑いはありません。啓示 17章は,象徴的な表現ながら,この点を明瞭にしています。その章に描かれるドラマの頂点としてこう記されています。「あなたの見た十本の角,また野獣[大いなるバビロンは女主人としてその上に乗ってきた],これらは娼婦を憎み,荒れ廃れさせて裸にし,その肉を食いつくし,彼女を火で焼きつくすであろう」。美しい光景とはとても言えません!―啓示 17:16。
大いなるバビロンから,神の真の女に逃れる
4 (イ)啓示 18章4節から8節で,ヨハネはどんな強い勧めのことばを聞きましたか。それはなぜ急を要するものでしたか。(ロ)ある人々はこの勧めに対してどのように反応することが考えられますか。しかしわたしたちはみな今日どんな質問に直面しなければなりませんか。
4 したがって,啓示 18章の初めに次の強い勧めの言葉が見いだされるのも不思議はありません。「わたしの民よ,彼女の罪にあずかることを望まず,彼女の災厄をともに受けることを望まないなら,彼女から出なさい。……彼女の災厄は一日のうちに来る。それは死と嘆きと飢きんであって,彼女は火で焼きつくされるであろう。エホバ神,彼女を裁いたかたは強いからである」。(啓示 18:4-8)あなたはこの叫びを聞き,またそれに注意を払いましたか。キリスト教世界諸教会のいずれかに加入してきたとみなす方の中には,その宗教的偽善を見てすでにそれから離れた,と言われる方もいるでしょう。また,今の世代の人々の中には,なんら宗教的背景を持たないながら,多少あやふやな態度で,神がいると思う,と唱える人々もいます。あなたは,ただ無宗教でいることに満足していられますか。そのように消極的,またどっちつかずの態度を取っているなら,安全な避難所にいる,あるいはそれを求めている,とはとうてい言えません。キリスト教世界を含め現存する事物の体制の終わりが近づいていることを示すすべての証拠を前にして,わたしたちは次の問いに答えねばなりません。すなわち,最高潮の近づいたこの時代に,わたしたちはだれの側にいるでしょうか。
5 14万4,000人の幻のあと,ヨハネはどんな人々の群衆を見ましたか。そしてどのように詳しく説明していますか。
5 天への希望を抱く,「天の王国」級の人々について先に取り上げましたが,自分はその中には入っていない,と言われる方がおられるでしょう。しかし,それによって神の恵みから外れ,また,神の翼の下に避難所を見いだし得ないわけではありません。(詩 91:4)啓示 7章4-8節の,14万4,000人の霊的イスラエルに関する描写の後に,こう記されています。「これらのことののち,わたしが見ると,見よ,すべての国民と部族と民と国語の中から来た,だれも数えつくすことのできない大群衆が,白くて長い衣を着て,み座の前と子羊の前に立っていた。彼らの手には,やしの枝があった。そして大声でこう叫びつづける。『救いは,み座にすわっておられるわたしたちの神と,子羊とによります』」。次いで,これがどのような人々であるかについて,さらにこう記されています。「これは大患難から出て来る者たちで,彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした。それゆえに神のみ座の前にいるのである。そして,その神殿で昼も夜も神に神聖な奉仕をささげている……み座の中央におられる子羊(は),彼らを牧し,命の水の泉に彼らを導かれる……そして神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去られるであろう」。これは,本当にわたしたちの心を誘う光景ではありませんか。―啓示 7:9-17。
6 (イ)イエスはこの人々についてどのように語られましたか。(ロ)イエスはこれをどのように極めて個人的な親しい関係にされましたか。それはどんなすばらしい保証につながりますか。
6 この「大群衆」を構成するのがどんな人々かをさらに示し,あなたもその一人となるようお招きするために,イエスがご自分の追随者たちを羊に例えつつどのように話されたかを思い起していただきましょう。イエスの王座に共にあずかる人々に関しては,こう語られました。「恐れてはなりません,小さな群れよ。あなたがたの父は,あなたがたに王国を与えることをよしとされたからです」。(ルカ 12:32)そうです,「小さな群れ」です。しかし,別の時,ご自分の「羊」についてより広範囲に語り,ご自身を,『羊のために自分の魂をなげうつりっぱな羊飼い』として述べた時,こう話されました。「わたしにはほかの羊がいますが,それらはこの囲いのものではありません。それらもわたしは連れてこなければならず,彼らはわたしの声を聴き,一つの群れ,ひとりの羊飼いとなるのです」。イエスはまた,これを,極めて個人的な親しい関係ともされました。その少し前にこう語られたからです。「彼[羊飼い]は自分の羊の名を呼んで導き出します」。つまり,あなたが自分を捨てて絶えずイエスに従い,こうしてイエスの真の羊の一人となるなら,イエスはそのあなたを個人的に知ってくださるのです。そして,イエスの別の言葉にある極めて親密な響きにも注目してください。こう言われました。「わたしの羊はわたしの声を聴き[他のだれの声にも従わず],わたしは彼ら[一人一人]を知り,彼らはわたしに従います。そしてわたしは彼らに永遠の命を与え,彼らはいつまでも決して滅ぼされることがなく,だれも彼らをわたしの手から奪い取る者はありません。父がわたしに与えてくださったのは,ほかのすべてのものより偉大なものなのであり,だれもそれを父の手から奪い取ることはできません」。それが安全な避難所であることを示す壮大な保証ではありませんか。―ヨハネ 10:3,16,27-29。マタイ 16:24も参照。
7 ペテロは「偽教師」に関し,どんな警告を与えましたか。
7 わたしたちがだれの側にいるかの問いに戻り,使徒ペテロが霊感の下にこの点についてどのように述べているかを考えるのがよいでしょう。その第二の手紙の結び近くで,ペテロはまず,「偽教師」の現われについて警告しました。「これらの者は,破壊的な分派をひそかに持ち込み,自分たちを買い取ってくださった主人のことをさえ否認し,自らに速やかな滅びをもたらす」のです。これらまがいのクリスチャンのことを念頭に置いて,ペテロは後にこう書きました。「終わりの日にはあざける者たちがあざけりをいだいてやって来る……その者たちは自分の欲望のままに進み,『この約束された彼の臨在はどうなっているのか。わたしたちの父祖が死の眠りについた日からも,すべてのものは創造の初め以来と全く同じ状態を保っているではないか』と言う」。これこそ,キリスト教世界の牧師一般とそれに従う人々が取っている態度ではありませんか。わたしたちは,それがあなたの態度ではないと信じています。―ペテロ第二 2:1,2; 3:3,4。
8 ペテロはさらに,特に今日のわたしたちのために,どんな警告を与えましたか。
8 むしろわたしたちは,わたしたちすべての抱く誠実な態度が使徒ペテロの次の訓戒と一致するものであることを信じています。「神のことばにより」以前の事物の体制,つまり以前の天と地が「大洪水に覆われた時に滅びをこうむった」ことを述べた後,彼はこう言葉を続けています。「その同じみことばによって,今ある天と地は火のために蓄え置かれており,不敬虔な人びとの裁きと滅びとの日まで留め置かれている」。今日,神の見かけ上の遅さに辛抱しきれないという態度を取る人が多くいますが,そうした点をも戒めて,ペテロはさらにこう述べます。「エホバはご自分の約束に関し,ある人びとが遅さについて考えるような意味で遅いのではありません。[その理由に注意すべきです]……ひとりも滅ぼされることなく,すべての者が悔い改めに至ることを望まれるので,あなたがたに対してしんぼうしておられるのです」。そしてさらに,『エホバの日が盗人のように来(る)』ことを警告しました。その時に,サタンの見えない管理下にある現在の象徴的な天と地は滅び去ります。―ペテロ第二 3:5-10。
9 神の辛抱に対して正しい見方をするのはなぜ重要ですか。
9 次いでこの訓戒の言葉が述べられています。「これらのものはこうしてことごとく溶解するのですから,あなたがたは,聖なる行状と敬神の専念のうちに,エホバの日の臨在を待ち,それをしっかりと思いに留める者となるべきではありませんか」。(ペテロ第二 3:11,12)今日の嘲笑者たちは神の辛抱からその益を得ていません。しかし,彼らがその価値を認識していなくても,神は彼らの悔い改めを待ちつつ非常に慈しみ深く行動してこられました。その点を使徒パウロはこう書いています。「神の温情があなたを悔い改めに導こうとしていることを知らないために,その親切と堪忍と辛抱強さとの富を侮るのですか」。(ローマ 2:4)神のご親切を侮るとすれば,それはわたしたちにとって大きな災いとなります!
10 どんな根拠に基づき,またどのように,ペテロ第二 3章14節の訴えにこたえることができますか。
10 しかし,積極的な側に目を向けて,どんな者となるべきか,との問いかけに,わたしたちはどのように答えるべきでしょうか。『エホバの日の臨在をしっかりと思いに留め』ていることをどのように示せるでしょうか。一つの点として,天的な希望を持つにせよ地的な希望を抱くにせよ,わたしたちすべては,ペテロがさらに述べた訴えの言葉に応ずるべきです。「最終的に汚点もきずもない,安らかな者として見いだされるよう力をつくして励みなさい」。(ペテロ第二 3:12,14)そうです,わたしたちは,道徳的に腐敗することのないよう常に励み努めなければなりません。わたしたちは忠誠を保ち,エホバに対する魂をこめた献身において『心の純粋な者』とならねばなりません。(マタイ 5:8)わたしたちはみな不完全であり,日ごとに行なうことは不十分なものではありますが,聖書のすぐ次の手紙,ヨハネ第一 1章7節が述べるとおりです。「神ご自身が光の中におられるのと同じように光の中を歩んでいるなら,たしかにわたしたちは互いに分け合う者となっているのであり,み子イエスの血がわたしたちをすべての罪から清める」。そうです,イエス・キリストは「わたしたちの罪のためのなだめの犠牲です。ただし,わたしたち[クリスチャン会衆,「小さな群れ」]の罪のためだけではなく,全世界の罪のためでもあります」。したがって,「ほかの羊」の「大群衆」の中にどれほど多くの人が入って来るとしても,その人々は「自分の長い衣を子羊の血で洗って白く」することができ,またそうしなければなりません。―ヨハネ第一 2:2。啓示 7:14。
11 啓示 18章4節には,偽りの宗教を捨てることのほかに,どんな態度を明確に表明すべきことが示されていますか。
11 しかし,それがすべてではありません。明確に対照された二人の象徴的な女について先に取り上げましたが,それを覚えておられますか。一方は,娼婦である大いなるバビロンで,キリスト教世界はその中に含まれています。他方は,処女,子羊の妻,クリスチャン会衆です。大いなるバビロンを出て,偽りの崇拝を全く捨て去るだけでは十分でありません。啓示 18章4節で,「彼女から出なさい」と告げられているのはだれですか。それは,「わたしの民よ」と呼びかけています。つまり,神の民,神に身をささげた僕もしくは奴隷,優れた羊飼キリスト・イエスの追随者,その「羊」の一人であることをはっきり示さねばならない,という意味です。しかし,この点に関していっそうの情報を得るために,わたしたちは,ヘブライ語聖書に戻り,啓示 18章4節だけでなく,この,聖書の最後の本に含まれるほとんどの事柄の背景となっている預言に注意を向けねばなりません。
12 (イ)イザヤの預言は,エホバの天の組織についてどのように述べていますか。(ロ)この組織に関連して,キリスト・イエスはどんな役割を演じましたか。
12 イザヤの預言によると,エホバの僕であるメシア,キリスト・イエスは,地上でのその任務に就く以前は,忠実な「神の子たち」で成るエホバの天的組織の一員でした。(ヨブ 1:6; 2:1; 38:7)この,天の霊者で成る組織は,創造者エホバと結婚関係にある「妻」の立場にあります。それは,律法契約に入れられた古代イスラエル国民が,さながらエホバとの婚姻関係に立ち,エホバの地的な妻として描かれていることに似ています。(イザヤ 54:1,5-8)エホバはご自分の天的な子の主要な者を,地上においてメシアなる僕として仕えさせることに定めました。したがって,母親にも似た,エホバの天的組織は,その夫なるエホバの宇宙主権の主要な立証者としてこの者を提出したことになります。この僕が地上での歩みを忠実に全うして死からよみがえらされた時,天にある母親のような組織は,彼を「死人の中からの初子」として受け戻しました。(コロサイ 1:18。啓示 1:5,17,18)その際の彼女の喜びについてはあらかじめ述べられていました。聴いてください。イザヤ書 54章1節(新)はこう述べています。「喜び叫べ,出産しなかった不妊の女よ! 喜びの叫びをもって楽しみ,声高に叫べ,出産の苦しみを知らない者よ。見捨てられた者の子たちは,天のような所有者のある女の子たちよりももっと大勢だからである』とエホバは言われた」。
13 (イ)パウロはイザヤ書 54章1節を,どのように,そしてだれに適用しましたか。(ロ)これに調和してイエスはイザヤ書 54章13節をどのように適用されましたか。
13 この聖句は使徒パウロによって引用されていますが,彼はそれを,バビロンでの流刑後のユダヤ国民に対してではなく,妻のような立場にある,エホバの天の組織に当てはめています。ガラテア 4章22節から5章1節までで,パウロは,エルサレムを都とし,イエス・キリストを退けたユダヤ国民と,天にある神の妻のような組織とを対照させ,「上なるエルサレムは自由であって,それがわたしたちの母です」と述べています。イザヤの預言によると,神の天的組織は,自分がうまずめのごとくにして長く待ったメシア・イエスだけでなく,そのほかにも多くの子を持つことになっていました。彼女は,メシア・イエスの14万4,000人の共同者に対し,その霊的な母となることになっていました。そのことはイザヤ書 54章13節にはっきり示されています。それは,「上なるエルサレム」,「天のエルサレム」,もしくは「シオンの山」にあてて述べられたものであり,次のとおりです。『なんぢの子らはみなエホバに教へを受けなんぢの子らのやすきは大いならん』。以上がこの句の正しい理解であることは,イエス・キリストがヨハネ 6章45節でこの句をご自分の弟子たちに当てはめていることにも示されています。―ヘブライ 12:22。
14 天の組織を代表するものが地上にあることについて述べなさい。そのことによってどんな熱心な態度で答え応ずることが要求されますか。
14 以上のことから言える点として,神の妻に似た天の組織は,地上におけるその代表者として,十分に教えと訓練を受けた,キリスト・イエスの共同者たちを有しています。したがって,わたしたちは,汚れた娼婦たる大いなるバビロンから逃れ出るにとどまらず,さらに,神の真の女,つまり「天のエルサレム」と緊密な交わりを保つことによって避難所を見いだし,そこに逃れなければなりません。そして,子羊キリスト・イエスの,忠実な処女のような追随者たちが,地上において,天のエルサレムの代表者となっているのです。このことは,エホバの証人として知られるクリスチャンの民の間に今日行き渡る状況の中にはっきり見られます。その民の中にあってその中核をなしているのは,神の霊によって油そそがれて天への希望を持つ人々の残りの者たちです。それを中核として緊密に集合しているのは,絶えず増大している「ほかの羊」の「大群衆」であり,『ひとりの羊飼いの下の一つの群れ』となっています。―ヨハネ 10:16。
15 エホバの証人は,エホバの日を『しっかり思いに留めていること』を,どのような点で示していますか。
15 これは根拠のない主張ではありません。彼らは『エホバの日の臨在をしっかり思いに留めていること』を実際に示しています。高まる種々の圧迫にもかかわらず,彼らは「清く,汚れのない崇拝」を固く守り,自分を汚れた世から汚点のない状態に保っています。彼らは,政治上の「野獣」,および人間がこしらえたその「像」である国際連合に対する崇拝を拒否しています。彼らは流血の罪を身に負うことを避け,諸国民やこの世の政治党派間の血なまぐさい戦闘にいっさい加わらず,厳密に中立を保っています。彼らは,この世のものとならないという点で,自分たちの指導者イエス・キリストに倣っているのです。―ヤコブ 1:27。啓示 13:1-15; 15:2-4。ヨハネ 15:19; 17:14,16。
16 彼らはマタイ 24章14節,マタイ 28章18節から20節の二つの命令をどのように遂行していますか。エホバの祝福を示すどんな証拠がありますか。
16 積極的な面を強調するものとして,彼らは,「[天の父の]王国と神の義をいつも第一に求め」ていることを実証しています。そのために彼らは,人間の唯一の希望また避難所として自分たちの知っているものをたゆむことなくふれ告げ,こうして,「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられる」という,イエスの予告のとおりに行動しています。彼らはまた,復活後のイエスの命令,つまり,行ってあらゆる国の人々を弟子とし,水のバプテスマを施し,イエスの命じたすべての事柄を守り行なうように教えなさい,という命令を,まだ時間のある間に遂行する面でもたゆむことなく励んでいます。(マタイ 6:33; 24:14; 28:18-20)このすべてがエホバの豊かな祝福を受けてきたことは,エホバの組織内に群がり集まって来る人々の真に目ざましい増加だけでなく,全地にわたり,エホバの献身した民の間に見られる,平和,幸福,安全,清い状態のうちにも示されています。これはまさに霊的パラダイスです。では,よく聴いて,聖書の招きの言葉に答え応じてください。すなわち,来て,この霊的パラダイスの中に避難所を見いだしてください。
霊的パラダイスへの招き
17 イザヤ書 54章17節と,イザヤ書 55章1,2節にはどんな約束と招きのことばが述べられていますか。これはどのように小規模に成就しましたか。
17 イザヤ書 54章の結びには,「上なるエルサレム」の霊的な子らに対する次の壮大な約束があります。「何であれあなたに逆らって造られる武器はどれも功を奏さなくなる。また,裁きの際にあなたに逆って立ち上がるどんな舌もあなたはそれを罪に定める」。(イザヤ 54:17,新)そのすぐ後に,次の胸の踊るような招きの言葉が続いています。「ああ,渇いている者は皆,水に来なさい。金のない者たちも,来て,買って,食べなさい。しかり,来て,金なしで,また価なしでぶどう酒と乳を買いなさい……わたしの言うことをしっかり聴き,良いものを食べ,あなたがたの魂をして肥えたものに無上の喜びを見いださせなさい」。(イザヤ 55:1,2,新)こうした情景について理解する手がかりとして,イザヤが,エルサレムとユダの荒廃,およびユダヤ人の70年にわたるバビロン流刑について予告したことを考えましょう。彼はまた,ペルシャ人クロスの手を介してユダヤ人が解放されることをも予告しました。このクロスは,神のメシアなる僕,キリスト・イエスを預言的に表わす人物として用いられました。そしてこのイエスが現代の大いなるバビロンを覆して滅ぼします。(イザヤ 44:28–45:6)しかし,今日の情況についてはどうでしょうか。
18 1914年から1919年にかけてエホバの証人が経験したことは,どのように上記の聖句の大規模な成就となりましたか。
18 第一次世界大戦中,大いなるバビロンは,その世俗的情夫たる,政治・軍事・司法上の権威者たちを用いて,エホバの証人を真に自分の支配下に入れました。広い範囲にわたって迫害と禁令が加えられました。その頂点となったのは,エホバの証人の統治体のメンバーの投獄です。前途の展望は暗く見えました。ところが突然に,予期を超えた戦後の時代が彼らの前に開けました。救出の音信がエホバのもとから与えられました。設立されたメシアの王国による大いなるバビロンからの救出,という聖書の音信です。このことの具体的証拠は,前述のメンバーが獄から釈放され,すべての偽りの告訴が完全に除かれたことの中に見られました。同じ1919年のそのすぐ後,「ものみの塔」誌の主要記事として,「恐れなき者は幸いなり」と題する記事が掲載され,それが,1919年9月1日から8日までオハイオ州シーダーポイントで開かれた全体大会の主題ともなりました。その大会においては,霊的食物が増し,業が拡大するしるしとして,新しい隔週誌,「黄金時代」の発刊が発表されました。皆さんも想像できるとおり,このすべては,神の真の僕たちにとって,さわやかな水,活力を与えるパン,喜びを与えるぶどう酒,体を肥らせる乳のような働きをしました。
19 その後,霊的パラダイスの復興に向かって,どんなことが行なわれましたか。
19 しかしこれは,神の民にとって,霊的パラダイス復興の始まり,その第一歩にすぎませんでした。それ以来,非常に大きな前進がなされてきました。それは,エホバの証人の現代の歴史によく示されています。その記録はすべての人に公開されており,だれでも自分で調べることができます。加えて,その前進の一歩一歩は,聖書の著者の導きの下になされているのを見ることができます。その著者はこう言われます。「わたしの口から出るわたしの言葉もそのようになる。それは成果を挙げずにわたしのところに帰っては来ない。かえって,それはわたしの喜ぶ事を確かに行ないわたしが言い送った事柄でそれは確かに成功を収めることになる。あなたは喜びを抱いて出て行き,平和をもって導き入れられるからである。……野の木々も皆,手を打ち叩く。いばらのやぶの代わりにねずの木が生える。とげのあるいらくさの代わりにミルトスの木が生える。そして,それはエホバのために名高いもの,断たれることのない,定めなき時にまで及ぶ徴とならねばならない」― イザヤ 55:10-13,新。
20 詩篇 1篇1節から3節には,このパラダイスにあずかるようにとの招きがどのように表現されていますか。
20 これは,霊的パラダイスの,壮大な,そして,人の心を引き付ける描写ではありませんか。そして,神の言葉に固く付き従うなら,あなたもそのパラダイスに自らあずかることができ,そうするようにとの招きを受けているのです。詩篇 1篇1-3節はそれをこう述べています。『幸ひなり かかる人はエホバの法を喜びて日も夜もこれを思ふ』。その人にはどのような事が起きるでしょうか。『かかる人は水流のほとりに植えし樹のときにいたりて実を結び 葉もまたしぼまざるごとく[つまり,常に緑で絶えず実を結び]そのなすところ皆さかえん』。
21,22 (イ)マタイ 25章34節と啓示 22章17節から20節は,この招待をどのように詳しく述べていますか。(ロ)この招きに対し,わたしたちは個人的に,そして熱心な態度でどう答え応ずることができますか。
21 霊的パラダイスへの道はまだ開かれています! そこに入り,それを十分におう歌するようにとの招きは,依然全世界で鳴り渡っています! イエスのたとえ話の中の王の呼び声は続いているのです。「さあ,わたしの父に祝福された者たちよ,世の基が置かれて以来あなたがたのために備えられている王国を受け継ぎなさい」。(マタイ 25:34)事実,聖書,神の言葉は,次の招きのことばで結ばれているのです。「そして,霊と花嫁は,『来なさい!』と言いつづける。そして,だれでも聞く者は,『来なさい!』と言いなさい。そして,だれでも渇いている者は来なさい。だれでも望む者は命の水を価なくして受けなさい」。最後の言葉として,ヨハネは,幻の中で,キリスト・イエスがこう言うのを聞きます。「これらのことについて証しされるかたが言われる,『しかり,わたしは速やかに来る』」。それに対し,ヨハネは,はずむ心でこう答えます。「アーメン! 来たりませ,主イエスよ」― 啓示 22:17-20。
22 どうかあなたも,熱心な態度で答え応じ,朽ちることのない「天の王国」の下に避難所を得てください。この火急の招きは繰り返し語られています。どうか,熱心な態度でそれに答え応じてください。どうかそこへいらしてください。