慎みが非常に大切なのはなぜか
「知恵は,慎みある者たちと共にある」。―箴 11:2。
1,2. 当初は慎み深かったサウルが神に退けられたのはなぜですか。(冒頭の挿絵を参照。)
古代イスラエルのサウル王は支配を始めた時,慎み深く,人々から敬われていました。(サム一 9:1,2,21; 10:20-24)しかし,王になるとすぐ,せん越な行動を取るようになります。神の預言者サムエルが予定の時にギルガルに到着しなかったため,もどかしく感じました。フィリスティア人は戦いの用意をしており,イスラエル人はサウルのもとを離れようとしていました。サウルは,「今すぐに何とかしなければ」と思ったことでしょう。それで,自分に権限がないにもかかわらず,神への犠牲をささげました。神はそれを喜ばれませんでした。―サム一 13:5-9。
2 そこへサムエルが到着し,サウルを叱責しました。しかしサウルは矯正を受け入れず,言い訳をし,責任を転嫁し,自分の行動を正当化しようとしました。(サム一 13:10-14)サウルはその後もせん越に行動したため,結局王権を失い,もっと残念なことにエホバの是認も失ってしまいました。(サム一 15:22,23)王として良いスタートを切りましたが,悲惨な最期を遂げました。―サム一 31:1-6。
3. (イ)多くの人は慎みについてどう考えていますか。(ロ)これからどんな点を学びますか。
3 今日の競争社会で成功するには,他の人たちより抜きん出なければならない,と考える人が少なくありません。そのために慎みをかなぐり捨てています。例えば,政治家に転身したある有名な映画俳優はかつてこう言いました。「慎みなどわたしには無関係だ。これからもそうだ」。こうした風潮の中でも慎みが大切なのはなぜでしょうか。慎みとは何ですか。慎みを示すとはどんなことではありませんか。この記事ではこうした点を取り上げます。次の記事では,難しい状況に置かれる時や周囲からの圧力を受ける時,どうすれば慎みを保てるかを考えます。
慎みが大切なのはなぜか
4. せん越な行為とは何ですか。
4 聖書では,慎みとせん越さが対比されています。(箴言 11:2を読む。)ダビデは賢明にも,「せん越な行為から[わたしを]とどめてください」とエホバに願い求めました。(詩 19:13)「せん越な行為」とは何でしょうか。自分に権限がない事柄を,性急に,差し出がましく行なうことです。わたしたちは皆,受け継いだ罪のゆえにせん越に行動してしまうことがあります。しかしサウルの例が示すように,そうした行動を繰り返しているなら,遅かれ早かれ神との関係に重大な影響が及びます。詩編 119編21節によると,エホバは「せん越な者たちを叱責され」ます。なぜでしょうか。
5. せん越な行為が重大な事柄と言えるのはなぜですか。
5 せん越な行為は,単なる間違いよりも重大な事柄です。第一に,慎みに欠けた行動を取るなら,正当な主権者エホバに誉れをもたらしていないことになります。第二に,自分の権限を越えて行動するなら,他の人と衝突するかもしれません。(箴 13:10)第三に,せん越に行動したことが他の人の目に明らかになるなら,気まずい思いをしたり,恥をかいたりするでしょう。(ルカ 14:8,9)せん越な行為は良い結果をもたらしません。聖書が述べるとおり,慎みを示すのは常に正しいことです。
慎みがあるとはどういうことか
6,7. 謙遜さとは何ですか。慎みは謙遜さとどのように関係していますか。
6 慎みは謙遜さと密接な関係があります。聖書によると,謙遜さとは誇りや尊大さのないことです。「へりくだった思い」とも述べられています。(フィリ 2:3)謙遜な人はたいてい慎み深さも備えており,自分の能力や成し遂げた事柄を正しく評価し,自分の間違いを認め,提案や新しい考えを受け入れることができます。謙遜さはエホバに大いに喜ばれます。
7 聖書によると,慎みも謙遜さと同様,自分を正しく評価し,自分の限界を認めることを意味しています。ですから,慎みのある人は他の人に敬意を払い,親切に接します。
8. 慎みに欠けた考えや行動には,どんな兆候がありますか。
8 慎みに欠けた考えや行動はどのようにして始まるのでしょうか。幾つかの兆候があります。例えば,自分自身や自分の特権を過度に重視するかもしれません。(ロマ 12:16)不適切な仕方で自分に注意を向けることもあります。(テモ一 2:9,10)自分の立場や個人的な見方,または特定の人との関係に基づいて,強い意見を述べるかもしれません。(コリ一 4:6)そのような場合,気づかないうちに慎みを欠いて,せん越さを示している可能性があります。
9. ある人たちは,どのようにせん越になりましたか。聖書中の例を挙げてください。
9 肉の欲望に屈すると,慎みに欠けた行動をしてしまうかもしれません。多くの人は,野心やねたみや怒りに負けて,せん越に行動しました。聖書に出てくるアブサロム,ウジヤ,ネブカドネザルなどは,肉の業に屈してせん越さを示したため,エホバから懲らしめを受けました。―サム二 15:1-6; 18:9-17。代二 26:16-21。ダニ 5:18-21。
10. 他の人の動機を性急に判断すべきでないのはなぜですか。聖書中の例を挙げて説明してください。
10 人が慎みに欠けた行動をしてしまう理由はほかにもあります。例えば,創世記 20章2-7節とマタイ 26章31-35節の記述について考えてみましょう。アビメレクとペテロは,せん越に行動したように見えますが,罪深い欲望に促されて行動したのでしょうか。それとも,すべての事実を把握していなかったに過ぎないのでしょうか。あるいは,つい無思慮に行動してしまったのでしょうか。わたしたちは人の心を読めないので,他の人の動機を性急に判断しないようにするのは賢明であり,愛のあることです。―ヤコブ 4:12を読む。
自分の立場をわきまえる
11. 慎みがあれば,神の取り決めにおける自分の立場をどのように見るはずですか。
11 慎みを示すことは,神の取り決めにおける自分の立場をわきまえることから始まります。秩序の神エホバは,わたしたち一人一人に,神の家の者としての立場や務めを与えておられます。会衆内での役割はそれぞれ異なりますが,だれもが必要とされています。エホバは過分のご親切により,各人に賜物,優れた特質,能力,才能を与えておられます。そうした贈り物を,神に栄光をもたらし,他の人を助けるために用いることができます。(ロマ 12:4-8)エホバはわたしたちに,誉れと信頼と責任の伴う家令としての務めを与えてくださったのです。―ペテロ第一 4:10を読む。
12,13. 神の取り決めにおける自分の立場が変わることがあるのはなぜですか。
12 神の取り決めにおけるわたしたちの立場は,時と共に変化することがあります。イエスについて考えましょう。イエスは当初,神とふたりだけで存在していました。(箴 8:22)その後,神と共に,他のみ使いや宇宙や人間を創造しました。(コロ 1:16)後にイエスは地上での割り当てを受けました。無力な赤子として生まれ,大人へと成長しました。(フィリ 2:7)犠牲の死を遂げた後は霊者として天に戻り,1914年に神の王国の王となりました。(ヘブ 2:9)しかし将来,イエスの立場はさらに変化します。千年統治の後,王国をエホバに渡し,「神がだれに対してもすべてのものとなるようにするのです」。―コリ一 15:28。
13 わたしたちの割り当ても時おり変わることがあります。自分の決定によって変化する場合も少なくありません。例えば,結婚したり,子育てを始めたりするかもしれません。後に,生活を簡素にして全時間奉仕を始めるかもしれません。こうした決定には,新たな特権や責任が伴います。状況が変わって,もっと活動できるようになることもあれば,あまり活動できなくなることもあります。しかし,年齢や健康状態にかかわりなく,エホバは一人一人がどうすれば最善の仕方で奉仕できるかをご存じです。神は,わたしたちにできる以上のことを期待したりはせず,わたしたちの努力を高く評価してくださるのです。―ヘブ 6:10。
14. 慎みがあれば,どんな状況のもとでも満足し,喜びを保つことができます。なぜそう言えますか。
14 イエスは,神から与えられたどんな割り当てにも喜びを見いだしました。わたしたちも自分の割り当てに喜びを見いだせます。(箴 8:30,31)慎み深い人は,会衆内の今の割り当てや責任に不満を抱いたりはしません。特権が得られるのだろうかと気をもむことも,他の人が成し遂げている事柄に気を乱されることもありません。むしろ,今の割り当てに喜びとやりがいを見いだすよう努めます。エホバから与えられた割り当てと見ているからです。それと共に,エホバが他の人に与えておられる役割や立場に敬意を払います。慎みがあれば,他の人を心から敬い,喜んで支えることができます。―ロマ 12:10。
慎みを示すとはどんなことではないか
15. ギデオンの慎み深さから何を学べますか。
15 ギデオンは慎み深く行動する点で優れた手本を示しました。エホバのみ使いが最初に現われた時,ギデオンは自分が取るに足りない者であると述べました。(裁 6:15)エホバからの割り当てを受け入れた後は,自分に求められている事柄を十分に理解したかどうかを確かめ,エホバに導きを求めました。(裁 6:36-40)ギデオンは大胆で勇敢な人でしたが,思慮深く慎重に行動しました。(裁 6:11,27)自分の業績に乗じて王になろうとはせず,務めを終えた後はすぐに自分の家に戻りました。―裁 8:22,23,29。
16,17. 慎み深い人は,霊的な進歩についてどんな見方をしますか。
16 慎みを示すとは,奉仕の特権をとらえようと努めたり,それを受け入れたりしない,という意味ではありません。聖書は,わたしたちすべてが進歩すべきであると述べています。(テモ一 4:13-15)では,新たな割り当てを受けなければ進歩できないのでしょうか。必ずしもそうではありません。今の割り当てがどんなものであれ,クリスチャンの特質を磨き,エホバから与えられた能力を向上させることができます。そうすれば,いっそう効果的にエホバに仕え,他の人たちを助けることができるでしょう。
17 慎み深い人は,新たな割り当てを受け入れるなら何が求められることになるかを前もって考えます。そして,自分の状況を正直に吟味します。例えば,他の重要な務めをおろそかにせずに,その割り当てを果たせるでしょうか。新たな責任を果たす時間を作り出すため,今の仕事の一部をだれかにゆだねることができるでしょうか。自分の状況について,祈りのうちに現実的に分析するなら,今の能力や限界を超えて仕事を引き受けることを避けられます。慎みがあれば,割り当てを辞退することもできるでしょう。
18. (イ)慎み深い人は,新しい割り当てをどのように果たしますか。(ロ)慎み深くあるために,ローマ 12章3節はどのように役立ちますか。
18 新しい割り当てを受け入れた場合,ギデオンの例から,成功するためにはエホバからの指示と祝福が欠かせない,という点を思い起こすことができるでしょう。わたしたちは,「慎みをもって……神と共に歩む」よう勧められているのです。(ミカ 6:8)それで,新たな責任を与えられた時にはいつでも,エホバが聖書や組織を通して教えてくださっている事柄を祈りのうちに熟考する必要があります。自分の不安定な足取りを,エホバの安定した導きに合わせて調整しなければなりません。わたしたちを「大いなる者とする」のは,自分の能力ではなくエホバの謙遜さである,ということを忘れないようにしましょう。(詩 18:35)慎みをもって神と共に歩むことを選ぶ人は,自分を過大評価することも過小評価することもありません。―ローマ 12:3を読む。
19. 慎みを培うべきなのはなぜですか。
19 慎み深い人は,創造者また宇宙主権者であるエホバに当然の誉れをもたらします。(啓 4:11)慎みがあれば,神の取り決めの中で与えられた立場に満足し,そこで産出的な奉仕を行なえます。兄弟姉妹に敬意を示すので,エホバの民の一致を促進できます。自分より他の人の益を考えます。注意深く行動するので,重大な過ちを避けられます。ですから,慎みは神の民すべてにとって非常に大切な特質です。エホバに愛されるためには,この特質を培わなければなりません。では,圧力を受けたり難しい状況に置かれたりする時,どうすれば慎みを保てるでしょうか。次の記事で考えましょう。