若い兄弟たち,この特別な奉仕の特権を受け入れることができますか
「あなたは露のしずくのような若者の仲間を持っておられます」。(詩 110:3,新)この預言的な言葉は,ある特定な時代に特別な業を行なわせるため,エホバが,進んで事を行なう若い男子の大群をお持ちになることを示しています。節の前半を見れば,その時代が今であることがわかります。それは,エホバがご自分の「軍勢」(新)を示される時代です。では,その「露のしずく」はどんな働きをするでしょうか。ちょうど植物に生気と命を与えるために文字通りの露を備えてくださったのと同様,エホバは義に飢え渇いている人々に生気と命を与えるため,象徴的な露を備えられました。
露のしずくの数が非常に多いと同じように,今日,進んで自分をささげる人々の数もふくれ上がっています。そうです,過ぐる10年間だけで,神の王国の良いたよりを宣べ伝える人の数はほとんど二倍になり,200万人を超えました。しかも毎月さらに幾千人もの人がエホバに献身しているのです。この事はわたしたちに喜びを与えます。それにしても,わたしたちすべてを霊的に支えるために是非とも重要な聖書文書を準備したり,王国伝道を遂行する上でたいへん有用な幾百万冊もの聖書,書籍,雑誌,冊子を供給するためにだれが働くのでしょうか。今度はそのような働き人が必要になってきます。あなたはこの特別な奉仕の特権に応じることができますか。
必要は大きい!
ベテルでは,大勢の若い男子が一団となって,日本中に住む羊のような人々の必要としている出版物の印刷,発送を行なっています。ベテル・ホームと事務所で幾人かの姉妹たちが働いてはいますが,ほとんどの仕事は体力のある若い男子を必要としています。それで,わたしたちは現在姉妹たちには申込みをお勧めしておりません。しかし,独身の若い男子の必要は増すばかりです。通常のベテルの活動に加えて,現在海老名ベテルでは,拡大する王国の業の必要を満たすため,新しい工場およびベテルを建設するぼう大な仕事が大ぜいの兄弟たちの手によって進められています。これらの兄弟たちも,進んで自己犠牲の精神を示し,自分たちのエネルギーや能力をこの特別な目的のために喜んで費やすべく,工事が完成するまでの期間,一時的なベテル奉仕と生活に応じたのです。この奉仕においても独身の兄弟の働き人はまだまだ求められています!
ですから,そのような立場にあるみなさんには,次のように自問することをお勧めします。「王国を宣べ伝え,弟子を作る業のために必要な文書を生産したり,そのための建物を建設する仕事に携わったりして,そのような特別の方法で奉仕することをわたしはどう思っているだろうか。必要な雑誌やビラなどを準備したり,建設工事に参加したりすることによって,この命を救う奉仕の務めにできる限り十分にあずかりたいと思っているだろうか。献身した一人の若い兄弟として,わたしも,『あなたの民はあなたの軍勢の日に進んで自らを捧げるでしょう』と詩篇作者が描写した人々の中に含まれているだろうか」。―詩 110:3,新。
現在,東京,沼津および海老名ベテルには,合わせて443人の働き人が自らを進んでささげ,働いています。イザヤのように,彼らも『われここにあり,我をつかわしたまえ』と言ったのです。(イザヤ 6:8)既にエホバの証人の一人であったイザヤは,神のしもべとして任命されることを求めていたのではなく,奉仕の特権がさらに与えられることを進んで求めたのです。これは彼に身体的な特典をもたらすものでもなければ,安楽な割当てでもありませんでした。むしろそれは,個人的な特典や慰安の一部を犠牲にすることを意味しました。今日でも,ベテルにいる多くの人々は同じような状況下で奉仕しています。母親,父親,兄弟,姉妹,友達からは離れています。家や快適な環境にも別れを告げました。こうした犠牲は,「良いたよりのために」進んで払われたのです。(マルコ 10:29,30)しかし,その代わりに『神の家』において何という霊的な祝福と益を得たのでしょう! 神に喜ばれる犠牲をささげる時,神は『天の窓をひらきて,いるべきところなきまでに恵みを汝らにそそぐ』ことを約束しておられます。(マラキ 3:10)ベテルで奉仕する人たちは,その約束の真実さを確かめることができるのです。
ベテルの生活
ベテルでの生活はどのようなものですか。それは健全で満足のいく生活です。興奮に満ちた生活だと描写する人もいます。「活動の中心地にいると,ものうい時間などみじんもありません」と一人の兄弟は表現しています。旅行の途中で立ち寄る外国支部の兄弟からその国における業の様子を聞いたり,地帯訪問や大会などのために訪れる組織を代表する兄弟たちとじかに交わるのは何という喜びでしょう。ベテルには確かに,霊的成長に資する空気がみなぎっています。
例えば,月曜日から土曜日までは,霊的な資格を持つ兄弟の司会する日々の聖句の討議をもって一日が始まります。聖書の知識とクリスチャンとしての豊かな経験を持つベテルの長老たちの注解は確かに霊的に築き上げるものです。また,朝食後,毎朝「年鑑」が朗読され,一年間で読み通されます。
ベテルに入ると,ベテルの長老たちの幾人かがベテル生活の様々な面を取り上げた講話をしてくれます。最初の一年以内に,あなたは多分,聖書の理解を広げるよう意図された週毎の優れた聖書学校に出席することでしょう。また,新しく入る人たちは,ベテルにおける最初の年に聖書全巻を読み終える聖書朗読の特別なプログラムを楽しみます。さらには,ベテル家族の「ものみの塔」研究を通して得られる霊的啓発を楽しむでしょう。月曜日の晩のこの研究のためベテル家族は幾つかのグループに分かれ,ベテルの長老たちがその司会にあたります。
ベテルでの活動に加えて,皆会衆への割当てを受けます。会衆においてはベテルでのわたしたちの働きの益を直接受けます。それは霊的に目覚めているようわたしたちを助けてくれます。会衆と共に宣べ伝える業に参加し,集会に出席することにより,ベテル家族の成員は交わる会衆の兄弟姉妹との間に強いきずなを培ってきました。東京,沼津,海老名ベテルからベテル奉仕者が交わっている会衆の数は現在60近くになります。―マルコ 10:29,30。
ベテル家族の成員の時間と努力は,彼らがそのために進んで奉仕を申し出た事柄にほとんどつぎ込まれます。彼らの身体的,精神的能力は,何であれベテルにおいて与えられた割当てに用いられるのです。なされねばならない事柄は実に様々です。印刷機を操作する人がいるかと思えば,断裁や発送の作業をする人もいますし,調理や洗たく,掃除をする人たちもいます。海老名ベテルでは建設現場のありとあらゆる種類の仕事があります。またいろいろな部門の機械を手入れする人たちもいます。こうした割当てすべてには楽しい挑戦が含まれています。
しかし,ベテルにおける生活は,仕事,集会,奉仕,研究がすべてではありません。家族は時々,くつろぎの時も楽しみます。ベテルには多種多様の才能を持つ人たちがおり,時たま行なわれる「ファミリー・ナイト」という楽しみのためのプログラムを家族全員は感謝しています。他の人たちを訪ねて,健全な築き上げる事柄を話す機会もあります。幾らかのレクリエーションの設備もあります。また,図書室も整っており,個人研究や集会の準備のために利用できます。そして忘れることのできないものとして,食事時に食卓を囲んで交わされる楽しい会話があります。
ベテルで奉仕している兄弟たちは,自分の特権についてどう感じているでしょうか。数年間奉仕してきた兄弟は次のように言っています。「ベテルでの仕事は楽なものではありません。でも,価値のあることを成し遂げているので満足感があります。世の多くの人々は仕事を持ってはいますが,前途に何があるかも知らず,人生から自分が何を得たいのかも分からず,ただ何となく働いているように思われます。ベテルに来る前だったなら,この数年はとても長い時間に感じられたことでしょう。でも今は,わたしの業が他の人々に良い結果をもたらしていることが分かるので,時間は大変早く過ぎ去ります」。この兄弟はベテルに来た時20歳でしたが,今では,ベテルの特権に加えて会衆で長老として任命され,他の若い人たちにも進んで行なうこの精神を持つよう援助を与えています。
資格を得るために何ができるか
ベテルとは,円熟したクリスチャン男子が仲間のクリスチャンたちへの奉仕を行なうために働く場所です。それは少年や,霊的に重大な欠点をもった人のための場所ではありません。そこは青年に備えて「仕上げ」をする場所ではないのです。「イエス・キリストの使徒」と共に奉仕したテモテと同様,ベテルで奉仕する人についても同じことが言えます。(テモテ第一 1:1)彼らは会衆内で良い立場を得ていなければならないのです。
使徒 16章2節はテモテについて,「ルステラとイコニオムの兄弟たちから良い評判を得ていた」と述べています。彼は若者でしたが,また,聖書に関心を抱いており,真理に十分根をおろしていました。(テモテ第二 3:14,15)自分の関心事よりも王国の関心事を第一にする,彼の自己犠牲の精神と進んで行なう精神はあまりにも明らかであったため,パウロはフィリピ 2章20-22節で彼について次のように言うことができました。「あなたがたのことを真に気にかける,彼のような気持ちの者は,わたしにとってほかにいないのです。ほかの者はみな自分の益を求め,キリスト・イエスの益を求めていません。しかしあなたがたは,彼が自分自身について示したものを知っています。つまり,良いたよりを推し進めるため,子供が父親に対するようにして,わたしとともに奴隷として仕えてくれたことです」。
ある兄弟たちは,ベテル奉仕に備えて高校卒業後,情報処理の分野やそのほかの職業の特別な進路を選ぶべきかどうか,電話や手紙で尋ねてきました。もちろん,人の教育はその人が決めるべき個人的な事柄です。しかし,ベテル奉仕に備えようとする兄弟は,正規開拓奉仕や特別開拓奉仕といった霊的な活動に経験を積みたいと思うことでしょう。したがって,若者がベテル奉仕の資格を備え,真にテモテの精神を持とうとするなら,ベテルに来る前に王国を自分の生活の中心にしている必要があります。
ベテルにいれば人は自動的に世の霊から守られるわけではありません。聖書の研究,定期的な野外奉仕,会衆内の円熟したクリスチャンとの交わりを通して,霊的に成長し,さらに多くの責任に備えることができるのです。ですから,すべての人はパウロがコロサイの会衆に与えた次の助言に従う必要があります。「ですから,主キリスト・イエスを受け入れたあなたがたは,そのとおり彼と結ばれて歩みつづけ,教えられたところにしたがって彼のうちに根ざしかつ築き上げられ,信仰において安定した者となり,感謝をささげつつ信仰にあふれなさい」。(コロサイ 2:6,7)ベテルで必要とされているのは,こうした種類の霊的な人たちです。また,仕事の性質上,ベテルで奉仕する人は身体的に強健であることも必要です。
あなたは,『われここにあり,我をつかわしたまえ』と言う立場にありますか。もし,あなたがそのような立場にあり,同時に,19歳以上の独身の兄弟で,健康と体力に恵まれ,激しい仕事を行なうことができると同時に進んでそうする気持ちがあり,バプテスマを受けて少なくとも一年以上たっておられるなら,ベテルの申込みをするようお勧めしたいと思います。また,ベテルで長く奉仕できる見込みが今のところなくても,建設が行なわれている間,一時的なベテル奉仕者としてその業に参加したいという願いを持っておられるなら,建設奉仕の申込書をお寄せください。どちらの申込書も,243 海老名市中新田1271 ものみの塔聖書冊子協会に手紙を書いて求めることができます。
長老や親には何ができるか
自ら会衆内のすべての人への健全な模範また仲間となることに加えて,特にエホバへの奉仕を拡大しようと努める若い人たちを励ますのは長老たちにとってふさわしいことです。テモテは,ルステラやイコニオムの会衆の他の若者たちに大いに健全な影響を与えていたことは疑いありませんが,長老たちは,彼を失うことは会衆にとってあまりに大きな損失だと考えて,パウロと共に奉仕することを彼に思いとどまらせるというようなことはしませんでした。―テモテ第一 4:14。
もちろん,長老たちが実際には資格のない若者をベテル奉仕に推薦したとすれば,それも大きな誤りです。それで,ベテルへの資格を得るために必要な調整をするよう援助するのは良いことです。たぶん,王国会館の掃除その他の割当てを与えることはこの点で助けになるでしょう。そうしてから,示される霊や,仕事の習慣などの点で明らかな欠点が認められるなら,ふさわしい助言や援助を与え,責任を負える,信頼できる兄弟に成長するよう助けられるかもしれません。積極的に助言が受け入れられないなら,その人がベテルに送られて有用な人になると信ずる理由はどこにもないことは言うまでもありません。ですから,長老たちが若者にベテル奉仕を励ますのは大切ですが,そのような奉仕に求められている資格を強調するのは大切なことです。
特に親は,子供たちに良い事柄への積極的な感化を与えるべきです。数年間ベテルで奉仕している一人の兄弟は,幼いころから両親が自分を全時間奉仕に励ましたことを覚えています。それで,19歳になった時,ベテル奉仕をとらえることは彼の自然な願いとなっていました。
親が子供たちに健全な刺激となったことを示す例はほかにもたくさんあります。モーセの親であるヨケベトとアムラムは,このことにおいて立派な模範を残しています。ファラオの娘は,赤子をみつけてその子を自分のものとしましたが,モーセの母はその子を育てることを願い出ました。こうしてその子はヘブライ人である両親から,真の崇拝の原則を教えられたのです。(出エジプト 2:9,10)この初期の訓練が,後に極めて重い種々の責任を担う資格を彼に得させたのではありませんか。サムエルの母ハンナも,その行動を通して,進んで奉仕する精神を息子の心に植え付けました。いとけない息子を幕屋での奉仕のために手離したばかりか,来る年も来る年も全時間の奉仕を行なう息子の努力を支えたのです。(サムエル前 2:18,19)その結果,サムエルは「エホバと人とに愛せら」れるようになりました。(サムエル前 2:26)自分たちの息子がエホバから特別な奉仕の特権を受けるのを見て,これらの親たちはどれほど報われたことでしょう! 今日多くの親も同じ感慨を味わっています。
ひとりひとりが参与できる
どこでエホバに奉仕するかにかかわりなく,わたしたちひとりひとりは何を行なえるでしょうか。わたしたちは皆,王国の関心事を生活の中で第一にして,奉仕に魂をこめる必要があります。(コロサイ 3:23。マタイ 6:33)また,ベテルで奉仕している人たちが,これからもそこで神聖な奉仕をささげてゆくように励ますことができます。加えて,資格のある若い兄弟たちに,この特別な奉仕の特権をとらえるよう励ますことができます。
このような性質の事柄が論じられる時,他の人のことについて考えたり,自分には関係のないことだと考える傾向が時々見うけられます。しかし,天の父がみ子を通してわたしたちのためにしてくださった事柄を思う時,わたしたちは神のご意志を成し遂げるため,個人としてできる事を何でもするよう動かされて然るべきです。コリント第二 5章14,15節でパウロが語るとおり,「キリストの持つ愛がわたしたちに迫るのです。わたしたちはこう判断しているからです。つまり,ひとりの人がすべての人のために死んだ,だからすべての人はそれ以前に死んでいたのである,そして,彼がすべての人のために死んだのは,生きている者たちがもはや自分のために生きず,自分たちのために死んでよみがえらされたかたのために生きるためである,と」。
このことを考える時,わたしたち各自は,「わたしはもはや自分のためではなく,エホバのご意志を行なうために生きているだろうか」と自問せずにはおれません。あなたは,現在,神のご意志と思える事柄を何でも行ないたいと心から願っておられるでしょう。自分はベテル奉仕という特別な奉仕の特権に対して資格があると思われるなら,どうぞ申込書を求める手紙をお寄せください。喜んでお送りしたいと思います。―エフェソス 5:17。