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現代におけるエホバの証人の活動 ― 日本ものみの塔 1973 | 11月15日
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発行されて以来,非常に多くの人に読まれるようになりました),それに宿舎捜しのための集中的な戸別訪問のわざによって,近隣の人びとにすぐれた証言が行なわれました。新聞も大会とノア兄弟の訪問を報道してよい宣伝となりました。
(この続きは次号に載せられます)
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読者からの質問ものみの塔 1973 | 11月15日
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読者からの質問
● 神はいつ恐竜を創造されたのですか。そして恐竜はいつ絶滅したのですか。―アメリカの一読者より
この質問に対して聖書は明確な答えを与えていません。創世記の記述によると,動物は創造の第五および第六期間すなわち『五日め』『六日め』に創造されました。もし「海の巨獣」[ヘブル語でタンニニム]と訳されているヘブル語の表現に,沼地や湿地帯に生息することが多かった恐竜(ダイナソア)が含まれていたなら,恐竜は「五日」めに創造されました。(創世 1:21,新)恐竜が人間の創造された時(「六日」めの終わり)まで存在していたかどうかはわかりませんが,どんなにおそくても,ノアの日の洪水の時には地から姿を消していたものと思われます。恐竜は,は虫類でした。そしてある種の恐竜は,構造その他の点でトカゲによく似ていました。(事実,サウロスはギリシア語で「トカゲ」のことです。七十人訳のレビ記 11章29節ではサウラとなっています)恐竜といってもあらゆる恐竜が巨大なものであったわけではありません。したがって,恐竜が大洪水まで生きていたとしても,巨大な種類の恐竜の雄と雌を箱船の中に入れる必要はありませんでした。それらの恐竜が属していた科もしくは「類」の,より小さなメンバーで神の命令は十分に果たせました。―創世 6:19,20; 7:14。
聖書の古い翻訳の中では,ヘブル語のタンニニム(「海の巨獣」,新)を訳すのに「竜」という語が使われています。(詩 74:13; 148:7。イザヤ 27:1,欽定訳)。「竜」(ギリシア語ではドラコン)という語はクリスチャン・ギリシア語聖書中に見られます。この表現は全くの神話に基づくものではなく,もとは恐竜のような巨大な生物を呼ぶのに用いられ,それらの巨大な生物が姿を消してからずっと後になって神話的な感じを帯びるようになった,という説もあります。興味深いことに,神話に出てくる「竜」の描写の多くは,恐竜を含む大は虫類のある種の生物に非常によく似ています。
● ラテン・アメリカのある部分で習慣となっているように,クリスチャンが両親や祖父母に自分を祝福するよう頼むのは正しいことですか。―ベネズエラの一読者より
聖書の示すところによると,古代の神のしもべたちは他の人びとを祝福しました。ヤコブはパロを祝福しました。つまりヤコブはパロが栄えますようにとあいさつしました。(創世 47:7)リベカの家族は,彼女がイサクと結婚するため上メソポタミアを離れた時彼女を祝福しました。(創世 24:60)またヤコブもイサクも,彼らの子孫を特別に祝福しました。(ヘブル 11:20,21)箴言 30章11節によると,親は子どもたちから祝福を受けるに値します。
ですから,聖書的な面からすれば,親または祖父母が自分の子どもたちを祝福することに対して異議を唱える必要はありません。祝福を求めることが一般の習慣となっていない国々においてさえ,祝福を与えるのは普通です。エホバの献身したしもべたちの間ではどこでも,仲間の信者が,任命された特別の仕事に関連して神の祝福を得るように,あるいは別の場所で忠実に奉仕をつづける時に神の祝福があるようにという願いを言い表わすのは珍しいことではありません。また,多くの言語の別れのあいさつは,実際には祝福であることも注目に値します。たとえば英語の「グッド・バイ」は,「神があなたとともにいますように」という意味です。
もとより,自分の住んでいる地域に,ラテン・アメリカのある国で行なわれているような「祝福を求め」たり与えたりする習慣がないのであれば,新たに始める必要はありません。しかし,もし他の人を祝福することがすでによく知られた習慣となっていれば,それについてクリスチャンが考慮しなければならない要素がいくつかあります。つまり次のようなことを自問してみます。自分はそういう祝福について正しい見方を持っているだろうか。その祝福は単なるきまり文句で,誠実さも純粋さもなく,またまごころもこめずに神を口にすることだろうか。(マタイ 15:4-7と比較してください)この習慣に従わない時はいつも物事がうまくいかない,と考える傾向があるだろうか。迷信的になって,その祝福をまじない文句のように考えはじめることのないよう注意しなければなりません。それに,親または祖父母がエホバの献身したしもべでなければ,彼らの宗教的見解がはいってきます。真の崇拝に対する認識を持たない人が,真の神をさえ知らずに,どうして子どもの上に神の祝福があるよう正しく願い求めることができるでしょうか。
以上のように,人が親か祖父母に祝福を求めることは,聖書的には異存はありませんが,特別の場合に直面してどうするかを決定しなければならない時には,クリスチャンは,聖書によって訓練された良心の支配に従わねばなりません。そして,人をつまずかせる,あるいは真の神を誤り伝えるようなことをするのを,ぜひとも避けねばなりません。―ピリピ 1:10。
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