だれが死人の中から復活するか
「死人がよみがえることは,モーセも…これを示した」。―ルカ 20:37。
1 (イ)モーセよりも偉大な,約束の預言者はだれでしたか。(ロ)この偉大な預言者とモーセは,復活という問題のとりあげ方の点で,どうくらべられますか。
35世紀前の預言者モーセは,モーセの民族から出る更に偉大な預言者を預言的に表わしていました。モーセ自身も最高至上の神からその事を告げられていました。(申命 18:17-19)モーセより偉大な,この約束の預言者は,19世紀前すなわち西暦1世紀に現われたイエス・キリストでした。イエスはモーセの民族の人であり,モーセの神と同じ神の名によって来ました。そしてモーセが行なったよりも偉大な奇跡を行ないました。イエスの言葉を聞いた多くの人が,「このかたは,ほんとうに,あの預言者である」と語っています。(ヨハネ 7:40)イエスがこのような預言者であったことは,エルサレムの宮においても,またエルサレムの宗教的な最高法廷においても宣言されました。(使行 3:22-26; 7:37,38,52)それでモーセが復活すなわち死人のよみがえりというすばらしい事を明らかにしたとすれば,モーセの如き預言者で,しかもモーセより偉大なイエス・キリストが,死人の復活について多くのことを語っても不思議ではありません。事実イエス・キリストは復活について多く語りました。イエスご自身も死人の中から復活したのです。
2,3 マタイ伝 11章20節から24節において,イエスがコラジン,ベッサイダ,カペナウムを責めているのはなぜですか。
2 西暦31年のある日,モーセよりも偉大なこの預言者は昔の人々と昔の町の住人をあげ,その将来についてある事柄を示しました。彼はツロ,シドン,ソドムの町々について次のように語りました。
3 「それからイエスは,数々の力あるわざがなされたのに,悔い改めることをしなかった町々を,責めはじめられた。『わざわいだ,コラジンよ。わざわいだ,ベッサイダよ。おまえたちのうちでなされた力あるわざが,もしツロとシドンでなされたなら,彼らはとうの昔に,荒布をまとい灰をかぶって,悔い改めたであろう。しかし,おまえたちに言っておく。さばきの日には,ツロとシドンの方がおまえたちよりも,耐えやすいであろう。ああ,カペナウムよ,おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落されるであろう。おまえの中でなされた力あるわざが,もしソドムでなされたなら,その町は今日までも残っていたであろう。しかし,あなたがたに言う。さばきの日には,ソドムの地の方がおまえよりも耐えやすいであろう」― マタイ 11:20-24。ルカ 10:11-15。
4,5 (イ)イエスのこの言葉は,異教の町ツロやシドンの人々には復活がないことを論じたものですか。(ロ)エゼキエル書 32章21節から30節は,ツロとシドンの人々に関して何を示していますか。
4 ここで次の疑問が生じます。これら昔の町の人々は死人の中から復活しますか。異教徒であるというだけの理由で異教の町ツロとシドンの人々はさばきの日に耐えることなく,従って復活しないという意味に,イエスの言葉を理解すべきですか。しかし仮にツロとシドンの人々が復活するものとし,さばきの日にはユダヤ人のコラジンやベッサイダよりも耐えやすいとしてごらんなさい。さばきの日にもっと不利な立場に立つコラジンやベッサイダのユダヤ人は,全然望みがなく,従って復活しないという事になるのですか。
5 言葉をかえて言えば,コラジンやベッサイダのユダヤ人は,異教のツロやシドンの人々と同様,復活することがないという意味に,イエスの言葉を理解すべきですか。そうではありません。それとは反対にエゼキエル書 32章21節から30節は,異教の町シドンの人々がゲヘナではなく,シェオール(陰府)すなわちヘーデース(黄泉)にいることを明白に述べています。従ってさばきの日に死と黄泉がその中の死人を出すとき,その人々は復活すると言えます。(黙示 20:11-15)ツロはシドンの植民地でした。死んだツロの町の人々も黄泉にいます。
6 ツロとシドンの人々が生命によみがえることは,なぜ理にかなっていますか。
6 ツロとシドンの人々がシェオール(陰府)すなわちヘーデース(黄泉)におり,従って復活を受けて生命に戻ることは当然に期待されます。なぜですか。宗教的に言ってこれらの人々は,悔い改めと,神の義に立ち帰ることが不可能な状態に立ち至っていないからです。イエスはその事を明白に示しました。彼らはエホバ神と救いの御国について,まだ十分な証言を聞いていません。コラジンやベッサイダの町のようにその機会に恵まれたならば,「彼らはとうの昔に,荒布をまとい灰をかぶって,悔い改めた」ことでしょう。「ふたたび悔い改めにたち帰ることは不可能である」とヘブル書 6章4節から6節にしるされた宗教的状態に,彼らは立ち至っていません。
7 昔のツロやシドンの人々は,復活によってどんな機会を与えられますか。
7 さばきの日によみがえることによって,シドンとツロの人々はイエス・キリストの治める神の国の下で余すところなく証言を聞く機会に恵まれます。そのとき彼らは,いわば「荒布をまとい灰をかぶって」真実に悔い改めるおりを得るでしょう。その希望は天の神の国における生命ではなく,至るところ楽園となった地における永遠の生命です。
8 ソドムは何時まで存続しましたか。ソドムは復活せず,従ってカペナウムにも復活がないと論ずることはなぜできませんか。
8 では昔のソドムの町の人々については何が言えますか。ソドムは,神が天から火と硫黄を降らせたとき,近くの町ゴモラと共に滅びました。さばきの日にソドムは耐えることができず,従ってソドムよりも罪の重いカペナウムはさばきの日にとうてい耐えることなく,ソドムと同様に復活しないと言えますか。そうではありません。なぜですか。イエスはソドムをツロおよびシドンと同列に置いているからです。
9 (イ)ソドムの人々が悔い改めの不可能な霊的状態に立ち至っていなかった事は,どうしてわかりますか。(ロ)エゼキエル書 16章46節から61節はソドムに関してどのように述べていますか。
9 ツロとシドンの場合と同じく,イエスはソドムが悪いにしても,悔い改めの不可能な状態には立ち至っていないことを示しました。それゆえにイエスは,カペナウムで行なわれたイエスの力あるわざがソドムで行なわれたならば,ソドムはイエスの時代にまで「残っていたであろう」と言われたのです。またその事に関連して,イエスは霊的な意味で天にまで高められていたカペナウムが,ゲヘナではなく黄泉にまで低くされると語りました。天は高いことを表わし,黄泉また陰府は低いことを表わします。天と黄泉を対照させたイエスは,カペナウムが最も低くいやしめられることを示したのです。イエスの好んだ町であったにもかかわらず,カペナウムはソドムと同様,今日もはや存在していません。しかしソドムがカペナウムと同じ機会に恵まれたならば,ソドムには10人あるいはそれ以上の義人がいて,1900年余り後のイエス時代,更にのちのちまでも町はつづいたことでしょう。ゆえに死んだソドムの人々が霊的に回復する望みは皆無ではありません。(創世 18:22-32)エゼキエル書 16章46節から61節は,望みのある人々を昔のソドムの人にくらべています。
10 弟子たちを伝道に遣わしたとき,イエスはソドムとゴモラに関して何を述べましたか。なぜそのように述べたのですか。
10 「イスラエルの家の失われた羊」に神の国を宣べ伝えさせるために弟子たちを遣わしたイエスは,次のことを言われました。「もしあなたがたを迎えもせず,またあなたがたの言葉を聞きもしない人があれば,その家や町を立ち去る時に,足のちりを払い落しなさい。あなたがたによく言っておく。さばきの日には,ソドム,ゴモラの地の方が,その町よりは耐えやすいであろう」。(マタイ 10:14,15。ルカ 10:10-12)なぜそうですか。ソドムとゴモラは神の国に関するこのような証言を聞いていないからです。
11 とくにカペナウムと比較して,ソドムにはどの程度まで証言を聞く機会がありましたか。
11 たしかにアブラハムのおいロトはソドムに住みましたが,御国の音信を知っていたわけではなく,従ってソドムの人にそれを伝えることもできませんでした。ロトは2人の娘をソドムの男たちと結婚させようとさえしています。エホバ神の天使2人もたしかにソドムの町をおとずれましたが,それは一晩留まって町を直接にしらべるためであり,神の国をソドムに伝道するためではありません。その晩天使たちの身に起きた出来事は,ソドムの男たちが如何に堕落していたかを物語っています。しかし悔改めと改心と永遠の救いの音信はソドムに伝えられませんでした。ただロトの義理の息子になるはずの者たちは,町に臨もうとしていた滅びを警告されました。彼らは,イエスと使徒の時代にカペナウムで行なわれたような御国の証言を全く知りませんでした。―創世 13:12,13; 19:1-29。
預言的な型
12,13 (イ)ソドムの人々はもともとどんな不利な立場におかれていましたか。しかし霊的にいってソドムより悪いどんな町がありましたか。(ロ)ペテロ後書 2章6節から10節の言葉に照らして,ソドムの滅びに関するどんな疑問が起きますか。
12 エホバの天使は,正しい女は言うに及ばず,たとえ10人でも正しい男をソドムに見出せませんでした。ソドムの人々はカナン人であり,従ってその先祖カナンが族長ノアから受けたのろいの下におかれていました。(創世 9:20-25; 10:19)しかし比較して言えば,イエス時代のカペナウムの町は霊的な意味でソドムより悪い状態にあり,ソドムより重い罪があったのです。では天から降った火と硫黄によって,ソドムの住民は永遠に滅びましたか。あるいはその滅びは,ソドムの人々と同様に道を踏みはずし,しかも更に罪深い人々の受ける滅びを模型的に表わすものでしたか。これに関して,ペテロ後書 2章6節から10節の言葉に注目して下さい。
13 「また,ソドムとゴモラの町々を灰に帰せしめて破滅に処し,不信仰に走ろうとする人々の見せしめ〔鑑(文語)〕とし,ただ,非道の者どもの放縦な行いによってなやまされていた義人ロトだけを救い出された。(この義人は,彼らの間に住み,彼らの不法の行いを日々見聞きして,その正しい心を痛めていたのである。)こういうわけで,〔エホバ〕は,信心深い者を試錬の中から救い出し,また,不義な者ども,特に,汚れた情欲におぼれて肉にしたがって歩み,また,権威ある者を軽んじる人々を罰して,さばきの日まで閉じ込めておくべきことを,よくご存じなのである。こういう人々は,大胆不敵なわがまま者であって,栄光ある者たちをそしってはばかるところがない」。―〔新世〕
14 ロトの救いはどの程度までの救いでしたか。ソドムの滅びはどんな面で鑑となりましたか。
14 ロトはソドムの滅びから救われましたが,神の国の下で享ける永遠の生命にまだ救われていません。そのためには復活が必要です。ペテロ後書 2章6節は,ソドムとゴモラの滅びが,敬虔なクリスチャンに教訓を与える「鑑」に過ぎないことを述べています。その事に注目して下さい。それはエホバ神に忠実を保つならばどうなるか,またソドム,ゴモラの人々の行いにならうとどうなるかを教えています。
15 (イ)ペテロは,ソドムとゴモラの人々が永遠に滅びたと述べていますか。(ロ)ペテロ後書 2章12,13節において,ペテロはだれが永遠の滅びを受けると述べていますか。なぜですか。
15 ソドムの人々は他のカナン人よりも堕落していましたか。レビ記 18章21節から28節によればそうではありません。またペテロはソドムとゴモラの人々が永遠に滅ぼされたとは述べていません。しかし献身したクリスチャンはソドム,ゴモラのおかれていた立場よりも責任の重い立場にあり,不信仰のカペナウムよりも重い責任を持っています。ゆえに献身してバプテスマを受けてのち堕落するクリスチャンは,永遠の滅びを受けるでしょう。ペテロ後書 2章12節はこのような人について次の事を述べています。「これらの者は,捕えられ,ほふられるために生れてきた,分別のない動物のようなもので,自分が知りもしないことをそしり,その不義の報いとして罰を受け,必ず滅ぼされてしまうのである」。彼らは動物と同じように滅びます。
16,17 ソドムとゴモラに関するユダ書 7節の言葉は,ペテロ後書 2章6節に一致させてどう読むべきですか。
16 ソドム,ゴモラは町としては永遠に滅びました。イエス時代にも,これらの町は存在していません。しかしこれらの町にいて滅びた人々については何が言えますか。次の言葉を読むとき,前述のクリスチャン使徒ペテロの述べた事柄を心に留めておかねばなりません。「ソドム,ゴモラも,まわりの町々も,同様であって,同じように淫行にふけり,不自然な肉欲に走ったので,永遠の火の刑罰を受け,人々の見せしめにされている」― ユダ 7。
17 ゆえにソドム,ゴモラの住民は,「見せしめ」にされました。その町はイエス・キリストやペテロ,ユダその他の弟子たちの時代まで存続しなかったからです。ソドム,ゴモラの人々がゲヘナに定められ,「火と硫黄の燃えている池」に投げ入れられたというのではありません。その人々は「永遠の火」すなわち永遠の滅びという罰を受けることになる不忠実なクリスチャン(「不信仰に走ろうとする人々」)に対する警告の例とされたのです。―黙示 20:14,15; 21:8。ペテロ後 2:6。
18 「不信仰に走」るクリスチャンは,ソドム,ゴモラの人々よりもどのように厳しい罰を受けますか。
18 ソドムとゴモラの人々は神の天使の手で,硫黄の混じた火によって滅ぼされました。その影響は2000年後のイエス,ペテロ,ユダの時代にも及んでおり,そのためソドム,ゴモラの人々は,イエス時代のカペナウムのユダヤ人に与えられたような機会に恵まれませんでした。しかし献身したクリスチャンでありながら不忠実になり,ソドム,ゴモラの人々にならう者は,「重い刑罰」すなわち「永遠の火」の象徴する永遠の滅びを受けます。―ヘブル 10:29。
19 (イ)ゆえにペテロとユダは,クリスチャンに何を警告しているのですか。(ロ)ヘブル書 6章1節から8節によれば,不忠実なクリスチャンは,どんな「キリストの教の初歩」に対する認識を失いますか。
19 ペテロとユダがそれぞれクリスチャンに書き送った手紙は,「ゲヘナの刑罰」を受けて永遠の滅びに定められることのないようにとの警告を与えているのです。もしそのような事になれば,死んで後に復活の希望はありません。クリスチャンとなったヘブル人に宛てた手紙の筆者は,不忠実なクリスチャンが復活の希望のない滅びに定められる理由を更に明らかにしています。ヘブル書 6章1節から8節は,「完成を目ざして進」むことを拒むクリスチャンが,基本の教え,「死んだ行いの悔改めと神への信仰,洗いごとについての教と按手,死人の復活と永遠のさばき」などの「キリストの教の初歩」に関する認識さえも失うことを述べています。「完成を目ざして進」むべき重要な理由はそこにあるのです。なぜそうですか。
20 ヘブル書 6章4節から8節によれば,クリスチャンはなぜ「完成を目ざして進」むべきですか。
20 「いったん,光を受けて天よりの賜物を味わい,聖霊にあずかる者となり,また,神の良きみ言葉と,きたるべき世の力とを味わった者たちが,そののち堕落した場合には,またもや神の御子を,自ら〔杭〕につけて,さらしものにするわけであるから,ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である。たとえば,土地が,その上にたびたび降る雨を吸い込んで,耕す人々に役立つ作物を育てるなら,神の祝福にあずかる。しかし,いばらやあざみをはえさせるなら,それは無用になり,やがてのろわれ,ついには焼かれてしまう」― ヘブル 6:4-8。
21 あるクリスチャンは,遂にどんな罪をことさらに犯しますか。このような人がたとえ復活しても,なぜ無駄ですか。
21 「聖霊にあずかる者」となったこのようなクリスチャンが堕落するならば,遂に聖霊に対して罪を犯すことになります。あえてそうする者は自分をかたくなにして,悔い改めることをしません。イエス・キリストに働いた神の聖霊の力を見ながら,それを悪しざまに言ったユダヤ人に対して,イエスは聖霊に対する罪のことを語りました。「だから,あなたがたに言っておく。人には,その犯すすべての罪も神を汚す言葉も,ゆるされる。しかし,聖霊を汚す言葉は,ゆるされることはない。また人の子に対して言い逆らう者は,ゆるされるであろう。しかし,聖霊に対して言い逆らう者は,この世でも,きたるべき世でも,ゆるされることはない」。(マタイ 12:31,32)ゆえに神の国の治める来たるべき事物の制度の下に,このような者が復活しても無意味であり,その復活の機会は無駄になります。
22 ヘブル書 10章26節から31節によれば,クリスチャンはなぜ定期的に集まって互に建ておこすべきですか。
22 真実のクリスチャンは「ゲヘナの刑罰」に定められるのを避けようとします。それで常に集まって励まし合い,霊的に強め合うことが必要です。なぜそう言えますか。ヘブル書 10章26節から31節はそれに答えています。「もしわたしたちが,真理の知識を受けたのちにもなお,ことさらに罪を犯しつづけるなら,罪のためのいけにえは,もはやあり得ない。ただ,さばきと,逆らう者たちを焼きつくす〔神の〕激しい火とを,恐れつつ待つことだけがある。モーセの律法を無視する者が,あわれみを受けることなしに,二,三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば,神の子を踏みつけ,自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし,さらに恵みの御霊を侮る者は,どんなにか重い刑罰に価することであろう。『復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と言われ,また『〔エホバ〕はその民をさばかれる』と言われたかたを,わたしたちは知っている。生ける神のみ手のうちに落ちるのは,恐ろしいことである」。(新世)
「どんなにか重い」
23 不忠実なクリスチャンは,モーセの律法を無視したユダヤ人よりもどれだけ厳しい罰を受けますか。
23 真理の正確な知識を得てクリスチャンとなってのち,あえて罪を犯す者のために,イエス・キリストが再び死なれることはありません。このような者は神の御子イエス・キリストご自身を否定し,イエスのあがないと清めの血,そしてイエスの契約の血を普通の人の血と同様に見なします。そこでイエスの完全な人間の生命の犠牲を拒絶するとき,彼らのことさらの罪を除くため神にささげる犠牲がなお残されていますか。ひとつも残されていません。それゆえに彼らは死ぬ時,ゲヘナ,「火の池」すなわち「第二の死」に定められます。それで復活の可能なヘーデース(黄泉)すなわちシェオール(陰府)に行くのではありません。こうして彼らは,モーセの律法を破って「あわれみを受けることなしに」死刑に処せられたイスラエル人よりも「重い刑罰」を受けます。モーセは単に預言的にイエス・キリストを表わしていました。
24 このようなクリスチャンは初めどんな復活を望んでいましたか。しかし死ぬとき,何を受けますか。
24 ゆえにことさらに罪を犯すクリスチャンは復活を受けません。王なる祭司イエス・キリストの共同相続者として見えない天に生命を享ける14万4000人の弟子たちは,「第一の復活」にあずかります。しかし霊に生まれた神の子として,はじめ「第一の復活」を望んでいたにしても,許されることのない罪をことさらに犯すならば,栄光ある天の生命に復活する可能性は全く失われます。その人は死ぬとき,「生ける神のみ手」によって永遠の滅びを受けます。
25,26 (イ)西暦33年五旬節の日に天の希望に生み出されなかったにしても,イスカリオテのユダはなぜこのような「重い」罰を受けましたか。(ロ)イスカリオテのユダは死んでどこに行きましたか。なぜですか。
25 イスカリオテのユダは,生ける神のみ手に落ち,永遠の滅びという「重い」刑罰を受けたクリスチャンです。西暦33年の五旬節を迎えることなく死んだユダは聖霊によってバプテスマを受けず,父なる神によって天の希望に生み出されることもありませんでした。しかしユダはイエス・キリストの使徒に選ばれた者であり,他の11人の使徒と共に伝道に遣わされた時には聖霊による特別な力を授けられていました。(マタイ 10:1-8)それなのにユダは永遠の救いを得るためではなく,銀30枚を得るために,自分の救い主イエス・キリストを裏切り,イエスを殺そうとしていた敵の手に自分の主を渡したのです。
26 改宗者を得てはおのれに倍するゲヘナの子とし,自分も「ゲヘナの刑罰」を受けるとイエスから言われた人々を相手に,イスカリオテのユダは取り引きをしました。(マタイ 23:15,33,文語)ユダは,犠牲となった「神の小羊」を拒絶しました。それでユダのことさらの罪のためにささげる犠牲はありません。当然の結果としてユダは「滅びの子」になりました。自殺したとき,彼はゲヘナに行きました。それで血肉の人として地上に復活することさえもありません。―ヨハネ 6:70,71; 17:12。
27-29 (イ)パウロが述べた他の「滅びの子」とはだれですか。(ロ)この者について,パウロはテサロニケ後書 2章3節から12節に何を述べていますか。
27 使徒パウロの言葉は,ユダのほかにも「滅びの子」がいることを示しています。これはイスカリオテのユダのような個人ではありません。それは西暦33年の五旬節以来,そしてとくにイエス・キリストの忠実な12使徒の死後,姿を現わしたグループで,自らクリスチャンと唱えています。「滅びの子」と呼ばれるこのグループは,聖書に教えられた真のキリスト教の教えを離れ,たとえ神のみ子イエス・キリストの追随者をよそおっていても,神の律法を破る者となった,自称キリスト教指導者から成り立っています。彼らは,今日大いなるバビロン(偽りの宗教の世界帝国)の主要な部分を成すキリスト教国の宗教教職者を組織しています。テサロニケ後書 2章3節から12節においてパウロは,この「滅びの子」のことを次のように警告しました。
28 「だれがどんな事をしても,それにだまされてはならない。まず背教のことが起り,不法の者,すなわち,滅びの子が現れるにちがいない。彼は,すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり,自ら神の宮に座して,自分は神だと宣言する。わたしがまだあなたがたの所にいた時,これらの事をくり返して言ったのを思い出さないのか。そして,あなたがたが知っているとおり,彼が自分に定められた時になってから現れるように,いま彼を阻止しているものがある。不法の秘密の力が,すでに働いているのである。ただそれは,いま阻止しいている者が取り除かれる時までのことである。その時になると,不法の者が現れる。この者を,主イエスは口の息をもって殺し,来臨の輝きによって滅ぼすであろう。不法の者が来るのは,サタンの働きによるのであって,あらゆる偽りの力と,しるしと,不思議と,また,あらゆる不義の惑わしとを,滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは,自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。そこで神は,彼らが偽りを信じるように,迷わす力を送り,こうして,真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を,さばくのである」。
30 この「滅びの子」の「不法」はどなた対する不法ですか。その事はどうして明らかですか。この者は何時まで阻止されましたか。
30 集合的なこの「不法の者」あるいは「罪の者」(欽定訳,アメリカ標準訳,ドウエイ訳)の不法は,至上の神に対する不法です。それはこの不法の者が,およそ神として崇められるものの上に自分を高めようとしている事からも明らかです。この者は神の霊的な宮において,真の神の地位を得ようとさえします。この不法の者は崇拝と尊崇を自ら得ることを望み,神の聖書を押しやって,宗教上の伝統と異教の教えを大切にしています。この者は宗教的な欺きに満ち,偽りの父サタン悪魔の手先をつとめています。この不法の者は忠実な12使徒の死まで阻止されていました。しかしその後は容易に勢力をのばし,クリスチャンと唱えた人々の上に力をふるい始めました。
31 (イ)この者にとって「滅びの子」という名はなぜ適当ですか。(ロ)キリスト教国の教職者が御国の音信に反対しても,なぜ不思議ではありませんか。
31 しかし主イエスは天の御国に臨在するとき,この不法の者を除き,彼を無に帰せしめます。イエスはこの不法の者を完全に滅ぼします。その理由でこの者は「滅びの子」と呼ばれているのです。過去19世紀にわたってこの「不法の者」を構成した者たちは不利なさばきを受け,その各人は死の時にゲヘナに定められました。別の「滅びの子」すなわちイスカリオテのユダと同じく彼らは復活しません。彼らは救いに導く真理を愛しません。従って偽りを信じて,あくまでも誤びゅうをひろめます。キリスト教国の教職者が,メシヤによる神の国の音信に反対し,音信を宣べる者を迫害するのも不思議ではありません。大いなるバビロンが永遠に滅びるとき,この「不法の人」も「ゲヘナの刑罰」を受けて滅びるでしょう。
「悪い僕」
32 マタイ伝 24章45節から51節にあるしもべのたとえの中で,他のどんな自称クリスチャンのグループが滅びに定められていますか。
32 クリスチャンと唱えていて,「不法の人」と同じ罰を受ける別のグループがあります。イエスはこのグループを預言的に指して「悪い僕」あるいは「あの悪いどれい」と言われました。(マタイ 24:48-51,新世。ルカ 12:45,46)これらは献身してバプテスマを受け,神の霊によって天の希望に生み出されたクリスチャンです。彼らは,イエスが「忠実な思慮深い僕」あるいは「忠実な思慮深いどれい」と呼んだ忠節なクリスチャン会衆と交わっていました。(マタイ 24:45-47,新世)しかし「悪い僕」を構成する者たちは反逆し,自分勝手に主の持ちものを運営し,肉欲をみたし,「忠実な思慮深い僕」を虐待します。
33 (イ)「悪い僕」は主の家の外にいる偽善者よりも罪が重いとなぜ言えますか。(ロ)イエスのたとえ話にある他のどんなグループがこのしもべと同類ですか。
33 主イエス・キリストは「悪い僕」が悪行にふけっているところを捕えて「厳罰」に処し,家の外に追い出して,宗教的偽善者と同じ目に会わせます。主の家にあって霊的に貴重なものを委ねられていたゆえに,クリスチャンの「悪い僕」は家の外の偽善者よりも罪が重いと言わなければなりません。またイスカリオテのユダが主イエス・キリストを裏切ったように,忠実なクリスチャンの兄弟を裏切った罪も負わねばなりません。彼らはユダと同じく復活を受けません。マタイ伝 25章15,16節,22節から30節のイエスのたとえ話で主人から1タラントを与えられた「悪い怠惰な僕」,およびルカ伝 19章13節,20節から27節のたとえ話の中で主人の1ミナを有利に用いなかった「悪い僕」も,前述の「悪い僕」と同類に入れられます。聖書から見るとき,これらの者が天の生命に復活する希望は皆無です。