見いだせる間に神を尋ね求めなさい
「〔神は〕定められた時と人びとの居住のための一定の限界とをお定めになりました。人びとが神を求めるためであり,それは,彼らが神を模索してほんとうに見いだすならばのことです」― 使行 17:26,27,新。
1 パウロが自分の知らない都市に,あまり知られていない人として登場したいきさつを述べなさい。そのことはどのような結果になりましたか。
その人はその都市では知られておらず,そこに着いた時には,彼自身もその都市についてよく知りませんでした。あたりを見てまわった彼は,「知られていない神」に献げられた祭壇があるのに気づきました。あなたは,自分が知らない神への崇拝に関与することを望みますか。それはきわめて不満足な状態であり,西暦50年ごろ,二回めの宣教旅行のさいアテネに着いた使徒パウロもそのように感じたに違いありません。パウロのクリスチャン兄弟たちは彼をベレヤからアテネに伴い,そののちパウロの指示に従い,彼をそこに残して戻って行きました。パウロが天からの導きを受けてアテネの北方にあたるマケドニアを訪れたのはこれより少し前のことであり,彼がアテネに足を踏み入れたのはこれが最初であったと思われます。もとより彼は,そこが学問の中心であり,また宗教の中心でもあることは知っていたでしょう。彼はこの第二の点に関して穏やかでないものを感じ,「その都市に偶像が満ちているのを見て,パウロの内なる霊はいらだつように」なりました。パウロはそうした状態に対してどう応じましたか。もしあなたがクリスチャンのユダヤ人であったとしたら,どのように応じたでしょうか。―使行 16:9,10; 17:15,16,23,新。
2 どういう点で,『知らない』ものは害を生みますか。パウロはどのようにしてこれを克服しようとしましたか。
2 自分の『知らない』ものには,明確に定められた境界や「一定の限界」というものがありません。このことは多くの害を生み,容易に悲劇に至ります。ゆえに,できることなら,こうした状態は克服すべきものです。パウロはそれを克服しました。彼は自分と自分の使命について知らせることに努め,一方では,アテネ人とその考え方とについてさらに詳しく知ることに努めました。「それで彼は,会堂でユダヤ人と,また神を崇拝するほかの人たちと,さらには毎日,市の立つ広場でそこに居合わせる人びとと論ずるようにな」りました。(使行 17:17,新)アテネのユダヤ人に関するパウロの経験は,他の都市で起きた事とあまり変わらなかったことでしょう。しかし,市の立つ広場では,学問や哲学に対する関心を持ち,そのことを誇りとする多くの人に接することができました。「すべてのアテネ人とそこにとう留している異国人とは,暇な時間といえば何か新しい事がらを語ったり聴いたりして過ごして」いましたが,そのゆえに,彼らははっきり知った宗教上の境界内で神を尋ね求めていたと言えますか。決してそうではありません。市の立つ広場に群がっていたそれらの人々について簡単に学ぶことにしましょう。―使行 17:21,新。
3 エピクロス派とストア派の人々はどんなことで知られていましたか。同様な態度が今日でも見られることを述べなさい。
3 エピクロス派の人々のことが述べられています。彼らは,放縦による悪い結果を避けつつ最大の快楽を得ることこそ人生の主要な目標であると信じていました。パウロは「イエスおよび復活の良いたよりを宣明して」いましたが,それは,「ただ食べたり飲んだりしよう。あしたは死ぬのだから」という彼らの哲学と相いれないものでした。(使行 17:18; コリント前 15:32,新)彼らがただ一つ越えないように努めた境界といえば,その快楽追求を脅かすような事がらを避けるということだけでした。そうです,彼らは,神の定めた境界の中で真の神を尋ね求めてはいませんでした。ストア派の人たちのことも述べられています。ストア派の人々は人格的な神の存在を信じず,むしろ非人格的な神について考え,人間の魂はその非人格的な神から発したと考えました。彼らにとって,徳行の生活とは『自然に従う』ことでした。物質とエネルギーは宇宙の基本原理であると信じたからです。また彼らは,運命が人事を支配していると信じました。彼らも真の意味の真理追求者ではなかったので,パウロの伝える神からの音信を受け入れる素地はありませんでした。ついでながら,ここに述べた人々の教説と今日の多くの人々の教えとの間に密接な類似点を見ることは難しくありません。物質中心,また快楽追求という点で共通するものが認められるからです。それを実際に口にしてもしなくても,彼らにとって「神はすでに死んだ」存在です。少なくとも,誠実な態度で神を尋ね求め,あるいはせめて神を模索するということに関してはそう言えます。
4 パウロがアレオパゴスに連れて行かれたのはなぜですか。彼はそのことをどのようにみなしたに違いありませんか。
4 パウロに対する一般の態度は友好的なものではありませんでした。彼らはパウロと「言い合うようになり」,パウロのことを「おしゃべり」とか,「異国の神々を広める者」と呼びました。そして彼らは,パウロをアレオパゴスに連れて行きました。それはおそらく,彼を審理するためであったのでしょう。パウロは証しをするためのこの良い機会を喜んだに違いありません。そして,その時のパウロのことばがわたしたちのために記録されているのはうれしいことです。わたしたちは,『知っていない』ということの問題と,物事の境界に関する関連した疑問に,パウロがどのように取り組んだかを見ることにしましょう。その場にいてパウロのことばを聴いているものと想像してください。―使行 17:18-22,新。
神権的な境界
5 (イ)パウロの開口のことばについてどんな点が注目に価しますか。(ロ)『知っていない』という問題に彼はどのように取り組みますか。
5 「アテネの皆さん,わたしは,あなたがたがすべての事において,他の人たち以上に神々への恐れの念を厚くいだいておられる様子を見ました。例えば,歩きながらあなたがたの崇敬の対象となっているものを注意深く見ているうちに,わたしは,『知られていない神に』と刻み込まれた祭壇も見つけました。それですから,あなたがたが知らないで敬神の情をささげているもの,それをわたしはあなたがたに広めているのです」。(使行 17:22,23,新)この開口のことばはいかにも巧みではありませんか。聞き手に敵意をいだかせたり,違和感を感じさせたりするものは何もありません。彼は人々の「崇敬の対象となっているもの」の一つを取り上げ,いわば彼らに加わって,特にその祭壇について考えようとしています。考えを止めて,その崇拝者たちが頭に描いているのがどのような神であるかを尋ねようとするよりも,論理的で説得力に富んだ論議を展開させ,明確な真理を次々に積み重ねてゆきます。まず彼は,「知られていない」ものから離れます。彼はそれが誤りであるときめつけるような無骨な言い方をせず,敬神の情を傾けるべき唯一のものについて広めまた説明するという自分の意図を明らかにします。彼がそれをどのように行なうかに注目してください。
6 人間とその住まいに関する神の目的についてパウロはどんな真理を確立しますか。
6 彼は,すべてのものの創造者であり,命と息の与え主である神が人の手でこしらえた神殿などには住んでおられないこと,また人間の手で仕えてもらう必要もないことを説明します。もしこれが,神は全く人間の近づきえないものといった印象を与えるとすれば,パウロの次のことばが事の真の姿を示すでしょう。「そして[神は],ひとりの人からすべての国の人を作って地の全面に住まわせ,また,定められた時と人びとの居住のための一定の限界とをお定めになりました。人びとが神を求めるためであり,それは,彼らが神を模索してほんとうに見いだすならばのことですが,実際のところ神は,わたしたちひとりひとりから遠く離れておられるわけではありません」。(使行 17:24-27,新)科学も聖書も,全人間家族の起源が初めのひとりの人にたどりうることを証言しています。そして,その初めの人間は,命と息を,創造者なる神から受けました。ついで興味深い点が指摘されています。つまり,人間の居住の限界は「地の全面」です。もとよりこれは,天空にその限界を伸ばせるとする野望的な態度と相いれません。人間は大気圏を旅行し,月の探査をさえ行なうかもしれません。しかし,人間はそのどちらの場所にも恒久的に住むことはできません。人間は,神の定めた境界内に居住することに甘んじなければならないのです。
7 神が何かの定め,あるいは他の類似のものを発する場合,そこには常に何が含まれていますか。
7 ついでパウロは,神が「定められた時と人びとの居住のための一定の限界[字義的には,『範囲を定めること』]とをお定めに」なったこと,それが,「人びとが神を求めるため」であったことを述べていますが,パウロは何を頭に描いていたのでしょうか。「定める」ということばに注目してください。主権者である神が,なんらかの定め,もしくは布告,律法,命令等を発する場合,それによって,神権的な境界,固定した限界,もしくは物事の境界線が直ちに確立されます。これはどんな場合でもあてはまります。この種のものが発せられると,一定の要求および義務が課せられることになり,それを守ることが求められるからです。従順であるためには,それによって定められた範囲の中にとどまらねばなりません。それに不従順であれば,そうした範囲もしくは限界を踏み越え,またはそれを犯し,自分に定められたわくから出たり,他の者の権利を侵害したりする結果になります。聖書に照らしてこの点をさらに調べることは神を尋ね求めるうえで助けになりますが,わたしたちはまず,「定められた時」と「人びとの居住のための一定の限界」ということについて調べましょう。
8 アブラハムに対する神の約束は一定の限界もしくは範囲をどのように啓示しましたか。
8 神のことばと霊に導かれたパウロは,創造以後のできごとをたどり,唯一まことの神が,時間と場所の両方の面で一定の限界や範囲をどのように確立されたかを示しています。その範囲や限界とはどんなものでしたか。最初の約束と預言はエデンにおいてすでに与えられていましたが,その後に求められる連結子,最初の踏み石を見定めることができるのは,神が,誓いでもって保証を加えた契約をアブラハムと結ばれた時です。エホバは次のように語って契約を結ばれました。「またあなたの胤によって地のあらゆる国民は自らを祝福するであろう。あなたがわたしの声に聴き従ったからである」。(創世 22:18,新)これは,アブラハムが『自分の知らない神に知らないで敬神の情をささげて』いたのではないことをはっきり示しています。決してそうではありません。これはまた,諸国民が無知のままにただ自分の考えで祝福を求めるなら決して成功しえないことをも意味しています。人間は神の指定された道に従ってのみ,神を見いだし,また神の祝福を得ることができるのです。イザヤが述べたとおりです,「あなたがたは,見いだせる間にエホバを捜し求めなさい」。また人は,「近くにいてくださる間に」,そして,見いだせる所に彼を捜し求めねばなりません。(イザヤ 55:6,新)あなたは,アブラハムと同じように,神の声にすすんで聴き従いますか。
9 その約束はどのように展開し,時間と場所の双方の面で限界を設けるものとなりましたか。
9 さて,神の約束がどのように展開し,時間と場所の双方の面で限界を設けるものとなったかを見てください。アブラハムの胤に関して神はこう言われました。『なんぢ確かに知るべし なんぢの子孫ひとの国に旅人とな(らん)……四百年のあひだ……四代に及びて彼らこゝに返りきたらん』。エホバはさらに約束されました,「我この地をエジプトの河よりかの大河すなはちユフラテ河までなんぢの子孫に与ふ」。ちょうどその四百年間ののち,アブラハムの子孫であるイスラエル人がシナイ山で律法を伝授されていたさい,エホバは,『我なんぢの境をさだめて紅海よりペリシテ人の海にいたらせ,荒野より河にいたらしめん』と明確に約束されました。他方,荒野を旅していたさい,イスラエル人は,モアブ,アンモンなど他の国民の境界を犯さないようにと警告されました。このことは,申命記 32章8節にあるモーセの歌のことばの適切さを認識させます。『至高者人の子を四方に散らしてよろづの民にその産業を分かちイスラエルの子孫の数に照らしてもろもろの民の境界を定めたまへり』。―創世 15:13-21。出エジプト 23:31。申命 2:4,5,18,19。
10 (イ)神が「定められた時」と「一定の限界」を設けられたことにはどんな目的がありましたか。(ロ)これに基づいて,さらにどんな論議と警告がなされていますか。
10 わたしたちは今,「定められた時」とか「人びとの居住のための一定の限界」に関してパウロが頭に描いていた事がらをいっそうよく理解できます。神はどのような目的でそれらのものを定めたのですか。人はしばしば,自分の知らない人や望まない人々が入って来ないようにするために高いへいなどの境界を設けます。しかし,この,神の場合には,これと対照的な喜ばしいものが含まれています。パウロは,人が「神を求め……ほんとうに見いだす」ための道標もしくは指標とすることがその目的であると述べています。「実際のところ神は,わたしたちひとりひとりから遠く離れておられるわけでは」ないのです。以上のことは,人間が命と運動を神に依存しているということによっても裏書きされています。「あなたがたの詩人のある者たちも,『そはわれらはまたその子孫なり』と言っている」とパウロは語りました。ついでパウロは,無知による崇拝の方式である偶像礼拝に惑わされることのないようにとの警告を与えています。「したがって,わたしたちは神の子孫なのですから,神たる者を……人間の技巧や考案によって彫刻されたもののごとくに思うべきではありません」。これを聴くわたしたちは,この点で何が求められているかを知りたいと思います。直ちにわたしたちはこう告げられます。「神はそうした無知の時代を見過ごしてこられはしましたが,今では,どこにおいてもすべての者が悔い改めるべきことを人類に告げておられます」― 使行 17:27-30,新。
11 パウロの論議の中で最高潮をなすものはなんでしたか。それにはどのような神権的な境界が含まれていましたか。
11 使徒パウロは,許された範囲の中で手早く自分の論議の最高潮に至ります。短い話の中で,パウロは創造の初めに帰り,神が今人に求めておられることを告げ,将来のことに言及してそのことの理由をも示します。悔い改めが求められているのはなぜですか。「なぜなら,[神は]ご自分が任命したひとりの人によって人の住む地を義をもって裁くために日を定め,彼を死人の中から復活させてすべての人に保証をお与えになったから」です。(使行 17:31,新)定められた「日」,任命された「人」など,神権的な境界に気づきますか。その人は,義の裁きを下し,誠実な態度で神を尋ね求める者に恵みを注ぐことが,神によって保証されています。ここに定められている時間的な範囲は,さきに使徒行伝 17章26節の中で取り上げられた「人びとの居住のための一定の限界」より重大な事がらに関するものです。好意的な裁きを願う今日のわたしたちは,神に対する従順と不従順,また,正しいこととまちがったこととの間の明確な分界線を見定めねばなりません。この線を自分で引いてはなりません。これから先に見る点ですが,このことには一般に認められている以上の注意が求められるのであり,そこには思いだけでなく心も関係しています。
12,13 (イ)復活について述べたことはどんな一般的な反応を呼びましたか。しかしどんな例外もありましたか。(ロ)過去を振り返ることによってわたしたちはどんな益を得られるはずですか。
12 パウロは死人の中からの復活に言及しましたが,その場で聴いていた人々の多くにとって,それは全く受け入れがたいものでした。「ある者たちはあざけるようになったが,ほかの者たちは,『これについてはあなたの言うことをまた別の時に聞こう』と言った」。しかしながら,パウロがここで行なったりっぱな証しは全く結実がなかったわけではありません。「幾人かの者は彼に加わって信者となった。その中には,アレオパゴスの裁判官デオヌシオ,ダマリスという名の女,またそのほかの者たちもいた」。聴いて答え応じ,従順さを示した人びとがいたことは,わたしたちの喜びです。―使行 17:32-34,新。
13 パウロはこの場合,手短に話さねばなりませんでした。しかしわたしたちとしては,きょうのうちにかたづけてしまわねばならないわけではありませんから,時間をかけて過去を振り返り,パウロの時代以前に神を尋ね求める必要がなぜどのように生じたか,その必要がどのように満たされたか,そして,わたしたちにどんな務めがあるかを知るのがよいでしょう。
捜し求めることはなぜ,またどのように始まったか
14 (イ)エホバが人間を捜さねばならなかったということは何を意味していましたか。(ロ)アダムはかき乱された良心のほどをどのように表わしましたか。しかし,真の悔い改めの証跡が何かありましたか。
14 意外なことにも,聖書の中で捜し求めることが最初に述べられているのは,人間が神を尋ねて捜し求めたことではなく,全くその逆の場合です。創世記 3章9節にこう記されています。「エホバ神はしきりにその人に呼びかけ,『あなたはどこにいるのか』と[繰り返し]言われた」。(新)これは驚くべき状況ではありませんか。何かよくないことがあったのですか。そうです,誤った行為がなされ,その結果として,アダムとその妻は,「園の中を歩いておられるエホバ神の声を聞いた」時,「エホバ神の顔から隠れ,園の木の間に」身を隠しました。だれかの顔から隠れようとする場合,それはかき乱された良心のため,それから来る恐れと恥じらいのためである場合が少なくありません。あなたもそうした感情を知っておられるでしょう。神に対して返事をしたアダムはそのように感じていました。「あなたの声が園の中で聞こえましたが,わたしは自分が裸だったので怖く感じ,それで身を隠しました」。怖く感じて身を隠そうとすることと,悔い改めの気持ちを感じて良い関係を取り戻そうとすることとは全く異なっています。アダムとエバの場合,この後者の感情は終始少しも示されていませんでした。もとより彼らは自分たちの行動の結果をひどく悔みましたが,その行動そのものに対する後悔や恥じらいは少しも表わされませんでした。彼らの犯した誤った行動とはなんでしたか。―創世 3:8,10,新。
15 創世記 2章16,17節の神の命令が,文字どおりにも道徳的にも境界を定めるものとなったことを述べなさい。
15 アダムとその妻の両人は,一定の神権的な境界を,文字どおりにも比ゆ的にも,もしくは道徳的にも踏み越えていました。彼らはまた,他人の権利を侵害するという罪も犯していました。初めにアダムをエデンに置いた時,神は,一本の木を除いて他のすべての木から自由に食べるようにとアダムを招かれたのではありません。むしろ,こう記されています。「神は人にこの命令を与えられた。『園のどの木からも満足のゆくまで食べてよい。しかし善悪の知識の木については,それから食べてはならない。それから食べる日に,あなたは必ず死ぬからである」。その後二回,神はこれを命令として述べておられます。(創世 2:16,17; 3:11,17,新)興味深いことに,サタンがへびを通じてこの命令についてエバに尋ねた時,その両者とも,それを神の命令としてではなく,単に神の言われたこととして語りました。(創世 3:1,3)しかしながら,すでに述べたとおり,命令は常に一つかそれ以上の境界を作り出します。この場合,「善悪の知識の木」は,文字どおりの意味で,アダムとエバに許された範囲外のものとされました。両人は,その実を食べることはもちろん,それに触れることさえしてはなりませんでした。しかしそれは物理的な意味で手の届かないものではありませんでした。したがって,そこには,きわめて重要な道徳上の境界が提示されていたのです。神の命令は,従順の試みを彼らに課するものとなりました。
16 エバの場合,道徳上の境界を犯させたものはなんでしたか。それはさらにどんな誤りに至りましたか。
16 へびのことばに耳を傾けてそれに応じたことは道徳上の境界を犯す結果になりました。「女は,その木が……目に慕わしいものであり,しかもその木がながめるに望ましいものであるのを見た」。思慕と欲望は心から生じます。彼女は神の命令を自分の口で復唱したばかりであるにもかかわらず,偽りの情報が自分の思いを通して心の中に注ぎ込まれるのを許しました。彼女は欺かれて,自分で物事の境界線を引き,自分で「善悪を知る」ことができるのだと考えるようになりました。それこそたいていの人がこの世で行なおうとしていることではありませんか。つまり,自分で正邪の規準を設け,あるいは人の定めた規準を受け入れているのではありませんか。あるいはあなたも,神を離れた他の人々に刺激され,誠実でありさえすればまちがいないと信じて,そのようにしてこられたかもしれません。―創世 3:5,6,新。
17 このことには,文字どおりの境界の侵犯がどのように続きましたか。また,他の者の権利の侵害がどのように起きましたか。
17 こうしてエバは,禁じられた実を食べようとする誤った欲望と決定をいだいて道徳上の境界を犯しましたが,文字どおりの境界の侵犯がそのすぐあとに続きました。彼女は「その実を取って食べはじめた。のちに彼女は,夫がともにいた時にそのいくらかを彼にも与え,彼はそれを食べはじめた」。(創世 3:6,新)境界を踏み越えると,他の者の権利を侵害する結果になる場合が少なくありません。この場合,エバはまず,頭の地位にかかわる夫の権利を侵害しました。自分で勝手に先導的な行動を取ったからです。さらに重要な点として,不従順な行為と精神によって自分の歩みを決定した両人は,ともにエホバ神の権利を侵害しました。彼らは故意に線を踏み越えました。つまり,彼らは,何を食べてよいかいけないかに関して神の定めた境界線を意識的に無視し,自分の勝手な線を引いたのです。それはどんな結果になりましたか。
18 (イ)神はご自分の権利をどのように守られましたか。(ロ)アダムの不従順によって人類はどれほどの影響を受けてきましたか。このことはどんな疑問を生みますか。
18 神の裁きが宣告されたのち,アダムとその妻は自分たちの庭園のような住まいから放逐されました。そこに戻ることはできなくされました。エホバは『その人を逐い出し,エデンの園の東にケルビムとおのずから回る炎の剣を置いて命の木の道を守らせ』ました。(創世 3:24)これは禁断的な境界標であり,彼らにとっては,通り抜けることのできない障壁となりました。さらに悪いことに,彼らはエホバの顔とそのみまえから追放されました。アダムの子孫であり,『ひとりの人から作られた』わたしたちすべては,このことによってきわめて大きな影響を受けました。「無知の時代」のことは言うに及ばず,さらに根本的には,受け継いだ罪と不完全さとのゆえに,わたしたちは神から遠く離れています。(使行 17:26,30,新)しかし,その神から離間した人々の間で多くの宗教活動がなされています。数多くの宗教宗派があり,それぞれ自分の所属する宗教で満足している人が多くいます。彼らは宗教上の問題に関し,あるいは何か道徳上の問題がある場合に,自分で善悪を決定します。あなたもそうしていますか。これはなんの希望も存在しないという意味ですか。真の神を尋ね求め,真の宗教を尋ね求めるのは全く空しいことなのですか。それともわたしたちは,この探求を成功裏に行なうことができますか。人間がエデンから放逐されたのちに何が起きたかを見,そこから得られる励みを見いだしてください。
捜し求めることにはどのような結果があるか
19 アダムの初めのふたりの息子の間にはどんな対照が見られますか。カインの歩みはどのような結果になりましたか。
19 アダムの初めのふたりの息子は明確な対照をなしており,わたしたちの探求を助ける面で多くのものを含んでいます。ふたりはそれぞれエホバにささげ物を携えて来ましたが,その後のできごとに示されるように,ふたりの動機には相違がありました。カインのささげ物は『地から出た幾らかの実』でしたが,それは,『その群れの初子,まさにその肥えたもの』から成るよりぬきのささげ物を携えて来た弟アベルに負けないようにという気持ちから出た,ただの形式であったのかもしれません。明らかにされていないなんらかの手段で,エホバはアベルとそのささげ物に対する好意を示し,一方,『カインとそのささげ物のほうは好意をもってご覧にな』りませんでした。それでカインは『大きな怒りに燃え』ました。そこでエホバは親切にも彼に警告を与え,『転じて善を行なうなら,高められるのではないか。しかし,転じて善を行なわないのであれば,罪が入り口のところにうずくまっており,それが慕い求めているのはあなたである。そして,あなたは,それに打ち勝つであろうか』と言われました。これは,カインがすでに悪の道に入っていたことを示しており,彼が利己的で強情な精神をいだいて『高められること』を求めていたことは明らかです。彼は今にも自制心の境を越えようとしていました。そして実際にそれを越え,最初の殺人者となりました。彼は『エホバのみ顔の前から出て行って,逃亡の地』,処罰者の手から逃れた地に住みました。―創世 4:3-16,新。
20 アベルはどのようにして強固な信仰を築き上げることができましたか。それには他のどんなすぐれた資質が伴っていましたか。
20 一方,アベルのほうを見るとき,これはなんと喜ばしい対照なのでしょう。神はなんらかのしかたで彼に好意を示されました。アベルはそのことに十分に気づいていました。パウロはその点を強調してこう述べています。「信仰によって,アベルはカインよりさらに価値のある犠牲を神にささげ,その信仰によって義なる者と証しされました。神が彼の供え物について証しされたのです。またそれによって,彼は死んだとはいえなお語っているのです」。(ヘブル 11:4,新)アベルの信仰には確かな土台がありました。彼は,エデンの園におけるエホバの恵み深い備えについて細かに伝えられていたに違いありません。また,父親が自分の息子に語りかけるようにしてエホバがアダムに語りかけられたことを知っていたでしょう。さらにアベルは,へびの頭を砕くことに関するエホバ神の約束と預言に通じ,それが正確にいつまたどのように成就するかについては知らないとしても,その成就に対する確かな希望をいだいていました。そうした信仰や希望に加えて,彼には他のひいでた特質がありました。彼はエホバに対する真実の愛を培い,加えて,強い忠節心と感謝の念をいだいていました。それは自分の両親と兄の悪い影響や手本に打ち勝つほどに強いものでした。―創世 3:15。コリント前 13:13。
21 アベルについて考えることからどんな励みを得られますか。
21 エホバの祝福の証拠を与えられたアベルにとって,真の神を捜し求めることは終わりました。心から出た真の従順の精神に基づく正しい行ないによって神の恵みを保つことを常に求めるということを別にすれば,彼が神を尋ね求めることは必要ありませんでした。アベルに可能であったことはあなたにも可能です。わたしたちは,いっそうの導きと励ましを求めて神のことばを調べることに期待と確信をいだきます。エホバがアベルを助けた方法を忘れないでください。そして,エホバはカインに対してさえ助けの手を差し伸べられたと言えるのです。
[617ページの図版]
アレオパゴスでアテネ人に話をした使徒パウロは,真の神を尋ね求めるように励ました
[619ページの図版]
アダムとエバを創造したさい,神は人類の住むべきところとして「地の全面」を与えた
[622ページの図版]
エバは,禁じられた実を食べることによって神の定めた境界を犯した