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エホバが守護された町ものみの塔 1979 | 6月1日
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に命じました。最後に彼は不法な縁組を行なっていた人々を懲らしめました。ユダヤ人は娘を外国人に嫁がせ,外国人の娘を自分たちの息子にめとっていたのです。―ネヘミヤ 5:1-13; 13:2-27,30。
祭司エズラの協力を得て遂行されたネヘミヤのわざは無駄ではありませんでした。これらの忠実な人々はエホバに用いられました。しかしエルサレムの町を繁栄させ,守護されたのは,実際には神ご自身でした。その結果,町を滅ぼそうとする敵のあらゆる努力にもかかわらず,エルサレムはおよそ400年後,メシアとその使徒たちが地を歩んだ時にも存在したのです。それでキリストの共同相続者となる栄光ある機会を「ユダヤ人を初めとしてギリシャ人に」差しのべることは,エルサレムの町から始められました。―ローマ 2:10。
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読者からの質問ものみの塔 1979 | 6月1日
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読者からの質問
● 創世記 3章22節は,エホバのほかに天の他の者が善悪に関するある特別な知識を持っていたことを示唆しているように思われます。果たしてそうでしょうか。
創世記で意図されている意味からすれば,エホバだけでなく,その独り子も善悪の知識を持っていたようです。
アダムとエバが罪を犯した後,エホバは彼らに判決を言い渡されました。それから神はこう言われました。「さあ,人は善悪を知る点でわたしたちのひとりのようになった。今,彼が手を出して,実際に命の木からも実を取って食べ,定めなき時まで生きることにならないために,―」― 創世 3:22,新。
最初の人間夫婦は善悪の知識を欠いていたわけではありませんでした。神は,彼らに,一本の指定された木の実を食べることは間違いで悪いことであり,また逆に,神に従うことは良いことであると告げておられました。(創世 2:16,17)それで,「善悪の知識の木」によって表わされた特別の「知識」は,何が善で何が悪かを自ら決定することを意味するものでした。この点に関して,T・J・コナント教授は次のように書いています。「神の意志を無視し,独自に決定し行動することによって,人は何が善で何が悪かを自ら知ることを選んだ」。そうです,アダムとエバは神の決定を退けて,何が善で何が悪であるかについて独自の規準を設けることを選びました。
ところで,「人は善悪を知る点でわたしたちのひとりのようになった」という神の陳述についてはどうですか。
ある人々は,人間の王がただ自分自身だけに言及するのに「我々は不愉快だ」と言うことがあるように,ここで神は尊厳の複数形を用いておられると考えています。しかし,強力な聖書的裏付けを持つように思える別の可能性があります。
創世記 1章26節で,エホバは『わたしたちの像に人を造ろう』と言われました。神がここで話しかけておられたのは,その独り子であり,後にイエスとして地上に来られた方であるという結論を聖書は指し示しています。ことばであるこの方は神の熟達した働き手でした。この方を通して他のすべてのものが造られたのです。(ヨハネ 1:1,3。コロサイ 1:15,16。箴 8:22-31)創世記 3章22節の表現との類似性からして,エホバが再び,ご自分と最も親しい方,その独り子に話しておられたようです。
もしそうならば,ことばはすでに「善悪の知識」を持っていたことになります。エホバとの長い親密な経験から,み子は確かに,み父の考え方や原則そして規準をよく学んでいました。エホバは,み子がそれらの事柄に精通し,それらに忠節であることを確信しておられたのでその都度,直接み父に相談することなしに物事を扱う自由をある程度み子に与えておられたのかもしれません。それで,み子はこの程度まで,何が善で何が悪かを決定することができ,またそうする権限が与えられていたのでしょう。しかしながら,み子が,エホバの規準と衝突するような規準を設けることはありませんでした。
アダムとエバの場合,彼らが善悪を知るようになることは,エホバの命令に背き,その規準を退けることを意味していました。このために,彼らは死に値する者となり,そしてそのように宣告されました。
新世界訳といくつかの他の翻訳によると,創世記 3章22節はダッシュで終わっています。このことは,何がなされるべきかについての声明を,神が記録に含められなかったことを示しています。むしろ,神の言葉はここで切れ,次の節は行動自体を描写しています。すなわち,神はアダムとエバを園から追い出されました。それで,彼らの善悪に関する独自の規準は,エホバとみ子の規準のようではありませんでした。むしろ,それは彼らを不幸へ導くものでした。―エレミヤ 10:23。
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