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満ちたりた仕事ものみの塔 1964 | 2月15日
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設立され,これは当時,サンチアゴで3つ目の会衆になりました。
サンチアゴと,後に任命を受けた100キロほど離れた町で働くうちに14年たちました。その後協会は,波止場にはいる船に良いたよりを届けるため,港の町バルパライソに私を派遣しました。特権を得て私が以前に良いたよりを伝えた他の土地の場合と同じように,船に乗る人々の多くも良いたよりに接した事がなく,この割当にもそれなりの喜びがあります。
この愛する仕事とともに過した30年と少しの期間を振り返えると,実に豊かな日々を送ったという感じです。毎年,エホバの民が集まる大会に出席する毎に,以前自分と研究した多くの人々が良いたよりの伝道者となり,さらに他の人を助けて命の水に導いているのを見て,心あたたかく,満たされた気持を覚えました。私は彼らを招いて,真理の水を飲む事をすすめましたが,今度はその人々がさらに他の人々を招いているのです。―黙示 22:17。
1961年は,私にとって特に幸福な年になりました。協会の援助を受けて,ドイツのハンブルグで開かれた「一致した崇拝者の地域大会」に出席できたからです。1935年以来,大きな国際大会に出席した事がありませんでした。それゆえ,私の生まれ故郷の美しい公園の「フェストヴィーザ」(宴の芝生)に集まった8万8000人の大群衆の一人になり得た事は胸もはずむ経験でした。昔なじんだ土地を再び訪れ,かつての友人たちが今なお共に神の国の良いたよりを伝道しており,ヒトラー時代に恐怖の収容所に生活して,やや健康をそこねた人さえなお忠実に奉仕しているのを見るのは実に祝福された経験ではありませんか。このハンブルグ大会が,どんなに私の心をたておこし,どんなに報いある経験となったかをお伝えするには,私の言葉がたりません。
美しい国チリにおいて,自分が選んだ仕事を続ける私は,これまでに示されたそのすべての御親切に対し,偉大な神エホバに深い感謝をささげます。すぐる年の間,私に与えられた数々の奉仕の特権に対しても深く感謝しています。そして,昔のダビデと同じ思いで次の言葉を言いましょう。「なんぢのいつくしみは生命にも勝れるゆえに,わが口唇はなんぢをほめまつらん かく我はわが生くるあひだ汝をいはひ御名によりてわが手をあげん」。―詩 63:3,4。
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読者よりの質問ものみの塔 1964 | 2月15日
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読者よりの質問
● 出エジプト記 12章37節によると,エジプトを出た強壮な男子は,子供を除いて60万人でした。成人男子60万というと,総人口は約200万人であったと考えられます。それなのに,うい子の数が,民数紀略 3章43節に述べられているごとくわずか2万2273人であったというのはどういうわけですか。これで計算すると家族が法外に大きなものにならないでしょうか。―パナマの一読者より
そのうい子については私たちはこう教えられています。「その数えられたういごの男子,すべて一カ月以上の者は,その名の数によると二万二千二百七十三人であった」。(民数 3:43,新口)もし各家族にひとりのうい子の男子がいたとして計算するなら,一家族がだいたい90人だったことになるので,ちょっと考えると不合理に思えるかもしれません。しかし,うい子の男子と同じくらいの数のうい子の女子がいた,といえることにも注目しなければなりません。そうなると家族の大きさは半分,つまり一家族45人ということになります。
第二に,父親であったうい子の男子はどうですか。イスラエルの強壮なうい子の男子60万〔レビ人を除く〕のうちには,「二十歳以上のもの」が含まれています。(民数 1:18,新口)10番目の災がエジプトを襲ったとき,うい子だったに違いないパロは殺されず,まだ成年に達していなかった彼のむすこが殺されたことを私たちはおぼえています。そういうわけでイスラエルには,2万2273人よりも多くのうい子の男子がいましたが,民数紀略 3章43節に示されている数には含まれていないのです。その数は未成年者だけを示すもので,うい子であった父親,祖父,曽祖父を示すものではないのです。同じ時にだいたい3つの世代が住んでいたと考えても不合理ではないので,その面から見ると家族の人数はもっと小さくなります。
しかしそれでもそれだけの人数の家族は大きいものに思えるでしょう。けれども私たちはヤコブが2人の妻と2人の妾によって13人の子供をもっていたのを思い出します。このことはもう一つの要素を指摘します。すなわち,イスラエルには重婚と妾をもつ習慣があって,母親のうい子ではなく,父親のうい子だけが長子と考えられたということです。したがってヤコブの場合,その2人の妻と2人の妾にそれぞれうい子がいましたが,ヤコブにとってはひとりのうい子ルベンがいただけでした。―創世 49:3。
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