聖書理解の助け ― 神への接近
「知恵は主要なものである。知恵を得よ。自分の得るすべてのものをもって,悟りを得よ」― 箴 4:7,新。
神への接近。 古代オリエントの王宮では,定められたおきてや帝王の許可に従わなければ,だれも帝王の面前に接近することはできませんでした。大抵の場合,仲介者が,支配者との接見を望む請願者の代理を務め,請願者を紹介して,その信用証明書の真実性を保証しました。ペルシャの王アハシュエロスの王宮の奥の中庭に,召されないのに入ることは,死を意味しました。それでも,命をかけて王の面前に近づこうとした王妃エステルは,恵みを受けて許されました。(エステル 4:11,16; 5:1-3)ヨセフの兄弟たちの言動は,王の前で相手を怒らせないようにするため注意を払ったことを例証しています。というのは,ユダはヨセフに,「あなたはファラオと同様なお方でございます」と言ったからです。(創世 42:6; 43:15-26; 44:14,18,新)ですから,地上の支配者は不完全な人間にすぎないのに,その面前に近づくことは,多くの場合,至難なことで,まれな特権でした。
神の御前の神聖さ
パウロはアテネで,神は,「わたしたちひとりひとりから遠く離れておられるわけではありません」と述べましたし(使徒 17:27),神に近寄れることは,そのみ言葉,聖書の随所に示されてはいますが,神に近づく人もまた,明確な要求にかない,神からの許可あるいは是認を得なければなりません。「人の子」が「近づき」,「その方のすぐ前に連れて」来られた,「日を経た方」の荘厳な天の法廷に関するダニエルの幻は,宇宙の至高の支配者の御前と関連する尊厳と敬意と秩序を例証しています。(ダニエル 7:9,10,13,14,新。エレミヤ記 30章21節と比べなさい。)ヨブ記 1章6節や2章1節の記録によれば,神のみ使いである子らもまた,定められた時に神のすぐ御前に入るよう招かれますし,それらみ使いの中にサタンが現われたのは当然,至高者の許可があったからにすぎないことが分かります。
人間は,神の特質をある程度まで付与されて,創造者の像と様に造られ,惑星の地球とその上の被造物を世話する責任を得たので,その父なる神と意志の伝達を図る必要がありました。(創世 1:26,27)そのような意志の伝達が,創世記 1章28-30節,2章16,17節に述べられています。
アダムとエバは完全な被造物として,またそれゆえに有罪の観念複合,つまり罪の意識なしに,本来,自分たちと創造者との間のとりなし役の必要も感ずることなく,子供たちがその父親にするように,神に近づいて言葉を交わすことができました。(創世 1:31; 2:25)そのふたりは罪と反逆のゆえにこのような関係を失い,死の有罪宣告を招きました。(創世 3:16-24)その後,ふたりが神に近づこうとしたかどうかは述べられていません。
信仰と正しい業と犠牲によって近寄る
カインとアベルは捧げ物を根拠にして神に近づきましたが,この記録は,神に近寄るのに信仰と正しい業という必要条件があることを明らかにしています。ですから,カインは,『善いことをするようになる』までは,神に受け入れてもらえませんでした。(創世 4:5-9,新。ヨハネ第一 3:12。ヘブライ 11:4)後に,エノスの時代になって,「エホバの名を呼ぶ」ことが行なわれ始めましたが,これは誠実に行なわれたのではなかったようです。(創世 4:26,新)というのは,アベルの後,次に信仰の人として指摘されているのは,エノスではなく,エノクだからです。このエノクは『神と共に歩み』ましたが,それは神に近づくのを許されたことを示しています。(創世 5:24,新。ヘブライ 11:5)しかし,ユダ 14,15節に記されているエノクの預言は,当時,神に対する不敬の念がはびこっていたことを示しています。
ノアは同時代の人々の中で,義にかなった,とがのない道を歩んだので,神に近寄ることができ,生き長らえました。(創世 6:9-19)大洪水の後,ノアはアベルのように,犠牲を根拠にして神に近づき,祝福され,神の是認を得るのにさらに必要な要求や,以後世界的な大洪水が起こらないことを保証した,すべての肉なるものとの神の契約について知らされました。(創世 8:20,21; 9:1-11)「セムの神,エホバ」という表現は明らかに,この息子の方がその二人の兄弟たちよりも,神とのもっと恵まれた立場を得たことを示しています。―創世 9:26,27,新。
メルキゼデクの祭司職
ノアはその家族のために祭壇で司式をしましたが,神に近づけるよう人間のために務めた「祭司」のことは,メルキゼデクの時まで特に何も指摘されていません。メルキゼデクの祭司職は,「すべてのものの十分の一を彼に与えた」アブラハムにより認められました。(創世 14:18-20,新)メルキゼデクは,ヘブライ 7章1-3,15-17,25節で,キリスト・イエスの預言的な型として述べられています。
ほかの族長たちによる接近
アブラハムが持った神との関係は,彼に『神の友』と呼ばれる資格を得させるものとなりましたし(イザヤ 41:8。歴代下 20:7。ヤコブ 2:23),祭壇や捧げ物によって丁重に行なわれた接近と共に,その信仰と従順が,その接近の根拠として強調されています。(創世 18:18,19; 26:3-6。ヘブライ 11:8-10,17-19)アブラハムは神との契約関係に入れられました。(創世 12:1-3,7; 15:1,5-21; 17:1-8)そのしるしとして割礼が施され,一時,それが神に受け入れられるための要求となりました。(創世 17:9-14。ローマ 4:11)アブラハムはその立場ゆえに,他の人々のためにさえ祈願をする資格を得ました。(創世 20:7,新)それにしても,エホバの御前では,あるいはその代表者の前ではアブラハムはいつも深い敬意の程を表わしています。(創世 17:3; 18:23-33)アブラハムの子孫,ヨブもその家族のために祭司を務めて,家族のために焼燔の犠牲を捧げ(ヨブ 1:5),その三人の「友」のために祈願をし,そして,「エホバはヨブの顔を受け入れられ」ました。―ヨブ 42:7-9,新。
アブラハムに対する約束の跡継ぎであった,イサクとヤコブも,信仰によって「エホバの名」を呼び,祭壇を築き,捧げ物を捧げることによって神に近づきました。―ヘブライ 11:9,20,21。創世 26:25; 31:54; 33:20。
モーセは神のみ使いにより,燃えるかん木に近づかないよう諭され,「聖なる土地」に立っているゆえにサンダルを脱ぐよう命じられました。(出エジプト 3:5,新)イスラエル国民の中の神の立てられた代表者として,モーセは,エホバが「口と口とで」彼と話されたように,その生涯中,特異な仕方でエホバの御前に近づきました。(民数 12:6-13,新。出エジプト 24:1,2,12-18; 34:30-35)モーセは,メルキゼデクのように,キリスト・イエスの預言的な型となりました。―申命 18:15。使徒 3:20-23。
シナイで強調された,認められた接近の重要性
律法契約を与える前に,エホバは全イスラエル国民に,その衣服を洗って三日間,身を聖なるものとするよう指示されました。近づく境が設けられ,人も獣も,何ものもシナイ山に触れてはならず,これに反すれば死の処罰を受けることになりました。(出エジプト 19:10-15)それから,モーセは,「真の神に会わせるため民を宿営から連れ出し」,山のふもとに立たせ,彼は雷や稲妻,煙や火,それにラッパの音の中で契約の条項を受け取るために山に登りました。(同 19:16-20,新)モーセは,『祭司たちと民が押し入ってエホバのもとに上』らせないようにすることを命じられました。それは,エホバが「彼らを襲うことのないため」でした。(同 19:20-25,新)ここで指摘されている「祭司たち」(同 19:22,24,新)とは,恐らくイスラエルの各氏族の主立った男子で,そのような者として,ヨブのように,氏族のために『定期的にエホバに近づいて』いました。
律法契約のもとで
個人ならびに国民が,立てられた祭司職により,また聖なる幕屋および後には神殿と結び付けられた,正式に定められた犠牲をもって神に近づくことを規定した一つの取り決めが,律法契約によって設けられました。レビ人アロンの子らが,民のために祭司を務めたのです。他の人々,つまりアロンの家系の者ではないレビ人でさえ,祭壇あるいは聖なる器具にあえて近づいて,そのような奉仕を果たそうとすれば,死を招く恐れがありました。(レビ 2:8。民数 3:10; 16:40; 17:12,13; 18:2-4,7)祭壇もしくは「聖なる所」に近づくときには,祭司は認可された衣装を着用すると共に,身体的ならびに儀式上の清さに関する厳格な要求にかなわなければなりませんでした。(出エジプト 28:40-43; 30:18-21; 40:32,新。レビ 22:2,3)アロン自身の二人の子らの場合のように,至高の神に近づく際,何らかの不敬な行動あるいは神聖な指示の違反があれば,死の処罰がもたらされました。(レビ 10:1-3,8-11; 16:1)国民全体のうちで,ただアロンだけが,そして大祭司として彼の跡を継ぐ者たちだけが,至聖所の,エホバの臨在を象徴する契約の箱の前に入ることができました。しかし,それでも,アロンは一年にただ一日,つまり贖罪の日に入ることを許されただけでした。(レビ 16:2,17)特権を与えられたこの立場にあって,アロンは神の大祭司としてのキリスト・イエスを予表していました。―ヘブライ 8:1-6; 9:6,7,24。
エルサレムにおける神殿の献納に際して,ソロモン王は国民のためにエホバに近づき,エホバがみ名を付されたその家に対してエホバの目が昼夜開かれ,また王や,国民や,さらにはイスラエルに加わって,「この家に向かって祈る」異国の人々の行なう嘆願を聞かれるようにという祈りを捧げました。ですから,エホバは,王を初め,国民の中の最も小さな者に至るまで,すべての人にとって近づきやすい方でした。―歴代下 6:19-42,新。
イスラエルでは,国民全体にかかわる問題に関しては,王や祭司や預言者が神ご自身の指示にしたがって神に近づき,場合によっては神の導きを確かめるために大祭司のウリムとトンミムが用いられました。(サムエル前 8:21,22; 14:36-41。列王上 18:36-45。エレミヤ 42:1-3)接近の正しい仕方に関するエホバの律法を破ると,ウジヤの場合のように,処罰されましたし(歴代下 26:16-20),サウルの場合のように,神との意志の伝達が完全に断ち切られる恐れがありました。(サムエル前 28:6。歴代上 10:13)エホバはご自身の至高者としての臨在をいい加減にあしらうことを許されませんでしたが,これを例証するものとして,アビナダブの子で,祭司ではなかったウザの場合があります。彼は契約の箱を安定させようとしてそれを押えましたが,その結果,「エホバの怒りがウザに対して燃え盛り,真の神は,その不敬な行為のために,そこで彼を討ち倒され」ました。―サムエル後 6:3-17,新。
単なる儀式や犠牲だけでは不十分
エホバの礼拝は儀式と犠牲で成るものから,道徳上の要求に基づく礼拝へと発展してきたと論じられていますが,証拠は全くそれとは反対のことを示しています。単なる儀式や犠牲は,それだけでは決して十分ではなく,神に近づくためのしるしだけの法的根拠を供したにすぎませんでした。(ヘブライ 9:9,10)結局のところ,エホバご自身が,だれを受け入れるべきかを決定されたのです。ですから,詩篇 65篇4節(新)は,「幸いなことよ。あなたが選び,近づかせ,あなたの中庭に住まう者は」と述べています。信仰,義,公正,流血の罪を免れていること,真実および表明された神の意志に対する従順が絶えず,神に近づくのに必要な信用証明書として強調されました。ですから,単に宇宙の至高者に供え物を差し上げる者ではなく,「手に罪がなく,心の清い」者がエホバの山に登ることができたのです。(詩 15:1-4; 24:3-6; 50:7-23; 119:169-171,新。箴 3:32; 21:3。ホセア 6:6。ミカ 6:6-8)これらの特質が欠けている場合,犠牲も,断食も,また祈りさえもが神の目には忌み嫌うべき,無価値なものとなりました。(イザヤ 1:11-17; 58:1-9; 29:13。箴 15:8)悪行が犯されたときには,打ちひしがれた霊と砕けた心がまず最初に明らかに示されなければ,近づくことは許されませんでした。(詩 51:16,17,新)もし祭司たちがみ名に対して無礼を示したり,受け入れられない犠牲を捧げたりしたなら,祭司職といえども神の恵みによって受け入れられることはあり得ませんでした。―マラキ 1:6-9。
また,神に近づくことは,法廷に出頭するとか,裁きを受けるために裁き司の前に近づくという意味で述べられています。(出エジプト 22:8。民数 5:16。ヨブ 31:35-37。イザヤ 50:8)イザヤ書 41章1,21,22節では,エホバはもろもろの国民に論争問題と議論をもって近づき,裁きを受けるようにと告げておられます。
新しい契約のもとでの接近のための勝った根拠
動物の犠牲を伴う律法契約の取り決めは,描画的な法的根拠として,神への接近のための勝った根拠を指し示していました。(ヘブライ 9:8-10; 10:1)この勝った根拠は,すべての人が『最も小なる者から最も大いなる者に至るまで……エホバを知る』ようになる新しい契約によってもたらされました。(エレミヤ 31:31-34,新。ヘブライ 7:19; 8:10-13)その新しい契約の唯一の仲介者として,キリスト・イエスは「道」となられたので,イエスを「通してでなければ,だれひとり父のもとに来ることはありません」。(ヨハネ 14:6,13,14)イスラエルとの神の国家的契約に属さない,割礼を受けていない異邦諸国民からユダヤ人を引き離していた障壁は,キリストの死によって取り除かれたので,「彼を通してわたしたち両方の民は,一つの霊のもとに父に近づくことができる」のです。(エフェソス 2:11-19。使徒 10:35)イエス・キリストを通して平和裏に近づき,神に優しく受け入れていただくには,まず,「せつに求める者に報いてくださる」方としての神と,贖いとに対する信仰がなければなりません。(ヘブライ 11:6。ペテロ第一 3:18)大祭司で,とりなしをしてくださる方であるキリスト・イエスを通して近づく人々は,「彼は……常に生きておられて彼らのために願い出てくださる」ことを知っており(ヘブライ 7:25),確信を抱いて,『はばかりのないことばで過分のご親切のみ座に近づく』ことができます。(ヘブライ 4:14-16。エフェソス 3:12)罪に定められているという恐れをもって近づくのではありません。(ローマ 8:33,34)それでも,「すべてのものの裁き主」なる神へのこのような接近にふさわしい,敬虔な恐れと畏敬の念を保持しています。―ヘブライ 12:18-24,28,29。
クリスチャンが神に近づくことには,霊的な種類の犠牲や捧げ物が関係しています。(ペテロ第一 2:4,5。ヘブライ 13:15。ローマ 12:1)真の神に近づくには,物質でできた神殿や金銀や石像は全く無益であることが示されています。(使徒 7:47-50; 17:24-29。エフェソス 2章20-22節と比べなさい。)世の友は神の敵ですし,神はごう慢な者に反対されますが,『手が清く』『心が浄い』謙そんな人は,「神に近づ(け)」ますし,「そうすれば,神はあなたがたに近づいてくださいます」― ヤコブ 4:4-8。
天的希望に召された油そそがれたクリスチャンには,「イエスの血によって聖なる所へ入る道」がありますし,「神の家の上に立つ偉大な祭司」をよく知っていますから,『信仰の全き確信のうちに,真実の心をいだいて近づく』ことができます。―ヘブライ 10:19-22。
人が信じて疑わずに神に近づくことの重要性については,詩篇作者は次のように述べて,この問題を上手に要約しています。「ご覧ください。あなたから離れている者たちは,滅びうせるからです。あなたは確かに,不道徳な仕方であなたから去って行く者を皆,沈黙させられます。しかしわたしについては,神に近づくのはわたしにとっては良いことなのです。主権者なる主エホバに,わたしは避難所を置きました。あなたのすべてのみ業を告げ知らせるために」― 詩 73:27,28,新。