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「神」という称号を訳出するものみの塔 1977 | 12月1日
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ついて過度に心配する理由はありません。聖書の中でさえ,真の神を指して用いられるのと同じ語が,偽りの神々にも用いられています。神に相当する語そのものが神聖であるわけではないのです。ですから,その言語を話す人々が聖書の神を知るようになるまでは,偽りの神々だけしか指さなかったような名称を使うことにも異存はありません。
事実,多くの現代語に関して起きたのはこのことでした。日本語の「神」という言葉は,「八百万の神」を意味して使われることがあります。エチオピアの二つの主要な言語アムハラ語とチグレア語で,神に相当する一般的な名称はエグジアブヘルです。この語は字義的には「国土の主」,つまり「エチオピア国土の主」を意味しています。英語の「神<ゴッド>」について,「ザ・センチュリー英語辞典兼百科語集」(1899年版,第三巻,2561ページ)は,その語が元来中性名詞で,「異教の神々を指して用いられたため,大抵の場合複数形であった。しかし,チュートン族が改宗するに及んで,キリスト教で言う神にまで引き上げられた」と述べています。ウィルフレッド・ファンクの書いた,「語源」という本にはこう書かれています。「あらゆる信仰の中心となる語は神であり,(英語の)神という称号の歴史は諸説紛々としている。(英語の)神という語そのものは,デンマーク語,サクソン語,古高地ドイツ語,北欧語などの諸言語に見られる類似した言葉と関係している。さらには,魔術を習わしにする人を指す,古代リトアニア語の言葉とも関係があるかもしれない」― 279ページ。
前述のどの言語においても,神に相当する語は元来創造者を指してはいませんでしたが,今日,その語が聞き手や読み手の脳裏に誤った概念を抱かせることはありません。ですから,聖書の翻訳にそうした言葉が使われていても,そのことに異議を唱えることはできないのです。
聖書の神を指す言葉の用い方については,他のすべての事柄と同様,道理にかなった見方をしなければなりません。結局,「神」に相当するいかなる語も,称号であって,固有名詞ではないのです。真の神を他のすべての神々と本当に異なったものにしているのは,その固有の名前,エホバです。―詩 83:18。
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読者からの質問ものみの塔 1977 | 12月1日
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読者からの質問
● 堕胎は,故意に命を取ることになるので,聖書的な見地から見て間違った行為であることは分かります。そして,出エジプト 21章22節と23節がこの事実を支持していることも知っています。しかし最近,この聖句を別の意味に訳出した聖書の訳を読みました。この聖句は実際に何を言い,何を意味しているのでしょうか。
新世界訳聖書は,出エジプト 21章22節と23節を次のように訳出しています。「また,人が闘い合って妊娠している女を実際に傷つけ,その子供らがまさに出てしまうが致命的な事故にはならないような場合,その者は,その女の持ち主が負わせるところにしたがって必ず損害を賠償しなければならない。それを,裁判人たちを通して与えねばならない。しかし,もしも致命的な事故になるなら,魂には魂(を与えねばならない)」。
しかし,他の翻訳の中には,堕胎はそれほど重大なことではないと結論する人が出かねないような仕方で,この箇所を訳出しているものもあります。例えば,日本聖書協会の口語訳聖書はその箇所をこう訳出しています。「もし人が互いに争って,身ごもった女を撃ち,これに流産させるならば,ほかの害がなくとも,彼は必ず……罰金を課せられ(る)。……ほかの害がある時は,命には命……をもって償わなければならない」。これでは,重大な問題となるのは妊婦の命で,胎児の命ではないという印象を与えかねません。中には,このような翻訳に基づいて,傷が原因で流産しても,当の妊婦にそのほかの害がなければ,その罪を犯した者は単に罰金を課されるにすぎない,との結論を出す人もいるでしょう。そうなると,堕胎は重大なことでないように思えるかもしれません。
恐らくそのような翻訳は,一世紀のユダヤ人史家フラビウス・ヨセフスによるこの聖句の次のような書き替えの影響を受けているものと思われます。「身ごもった女をけとばし,その女に流産させた者には,裁き人の定めるところに従って罰金を払わせなさい。女の胎内にいる者を滅ぼすことによって[国民の]多くを消滅させたからである。また,女をけとばした者は女の夫にも金を与えねばならない。しかし,その一撃で女が死ぬなら,その者も殺されねばならない。律法の定めによれば,命には命を与えるのが公正なことだからである」。ヨセフスの著作を翻訳したウィリアム・ウィストンによると,出エジプト 21章22節と23節のこの理解は,「ヨセフスの時代のパリサイ人の解釈」を反映しています。―「ユダヤ古誌」,第四巻,第8章,33節,および脚注。
他方,ギリシャ語セプトゥアギンタ訳を作った翻訳者たちは,この問題に関して異なった見解を持っていました。彼らの翻訳では出エジプト 21章22節と23節は次のようになっています。「二人の男が戦って,身ごもった女を強く打ち,その子供が完全に形作られていない状態で生まれて来る[あるいは,「女が胚胎を流産する」]なら,その男は罰金を支払わねばならない」。ですからこの聖書の翻訳者たちは,流産させられた子供が,見てそれと分かるほどに人間としての特徴を備えるところまで成長していなかったなら,罰金刑を科すだけで十分であると考えたのです。しかし,胎児が「完全に形作られていた」,つまり「全く構成されていた」なら,流産の原因を作った男は命に対して命を支払わねばなりません。―L・L・ブレントン卿およびチャールズ・トムソンによる,英語訳セプトゥアギンタ聖書。
このように多くの異なった見解がある以上,原語のヘブライ語に戻って,この聖句が何を言っており,何を言っていないかを調べるのは,確かに賢明なことです。
出エジプト 21章22節と23節は,傷害に対する償いにかかわるモーセの律法の一部です。続きの節の示すとおり,「目には目,歯には歯」というのが基本的な原則です。しかし,妊娠した婦人に危害が加えられた場合,どんな処置が取られたのでしょうか。
実際のところ,加えられた危害のもたらす結果にはいろいろあるでしょう。まず,危害を加えられた婦人について考えてみましょう。その婦人は傷つき,不具にさえなるかもしれませんが,それは致命傷ではないかもしれません。一方,その傷がもとで,婦人が死ぬこともあるでしょう。次に,婦人の胎内で成長しつつある子供あるいは子供たちについて考えてみましょう。もし臨月が迫っているなら,その一撃,あるいはショックでお産が早まり,生きた赤子が月足らずで生まれてくるかもしれません。あるいは,母親の受けた傷が流産を引き起こし,母親の胎内で成長していた命が損なわれることもあります。妊娠した婦人に対する傷害について律法の述べる事柄は,幾つかの可能性をカバーしていなければならないのは明白です。
正確に言って,律法はどんなことを述べていたのでしょうか。ここに,G・R・ベリー博士のヘブライ語 ― 英語行間逐語訳を掲げます。(右から左へ読む)
22 וְכִי־יִנָּצוּ אֲנָשִׁים וְנָגְפוּ אִשָּׁה הָרָה
,1pregnant 2woman a strike they and ,men contend when And
妊娠した 一人の女 そして彼らが打つ 男 そして争うとき
וְיָצְאוּ יְלָדֶיהָ וְלֹא יִהְיֶה אָסוֹן עָנוֹשׁ יֵעָנֵשׁ
,fined be shall he surely ;injury is not and ,child her forth goes and
彼は罰金を課されねばならない 確かに そして傷ついていない 彼女の子供 そして出る
כַּאֲשֶׁר יָשִׁית עָלָיו בַּעַל הָאִשָּׁה וְנָתַן
give shall he and ,woman the of husband the him upon put may as
そして与えねばならない その婦人 の夫 彼の上に 負わせる とおりに
23 בִּפְלִלִים ׃ וְאִם־אָסוֹן יִהְיֶה וְנָתַתָּה נֶפֶשׁ
soul give shalt thou(and) ,is injury if And .judges the with
魂 (そして)汝は与えねばならない またもし傷があれば 裁判人に従って
תַּחַת נָפֶשׁ ׃
,soul for
魂 には
ここで「傷」(改訂標準訳では「害」,欽定訳では「危害」)と訳されているヘブライ語は,アーソーンです。ウィリアム・L・ホラディの辞書によると,アーソーンは「命にかかわる事故」を意味します。この点は,聖書の中にこの語が現われる他の三つの事例における,アーソーンの用法によっても確証されます。(創世 42:4,38; 44:29)ですから,新世界訳で用いられている「致命的な事故」という訳は,ここで律法の言わんとしている事柄をより正確に把握するのに役立ちます。
しかしここで,「致命的な事故」という表現はだれに当てはまるのか,という問題が持ち上がります。それは,子供ですか,母親ですか,それともその両方に当てはまるのでしょうか。中には,この問題に関する解釈を示している翻訳もあります。例えば,エルサレム聖書は次のように訳出しています。「もし,男が殴り合いを始め,彼らが妊娠している女を傷つけ,その女が流産するなら,たとえ彼女がそのために死ななくても,責めを負うべき男は自分に求められるところの補償金を支払わねばならない。……しかし,彼女が死ぬようなことがあれば,命には命を与えねばならない」。(出エジプト 21:22,23,下線は編者による)この翻訳は致命的な事故が問題となっていることをはっきりと示しています。しかし,「彼女」という説明的な語がそう入されているため,その一撃で女が流産しても彼女が生きていれば,罰金刑に科されるだけで済むという印象が残ります。しかし,それがヘブライ語本文の本当に言わんとしているところなのでしょうか。
前述の行間逐語訳は,ヘブライ語が「傷」(致命的な事故)の適用を単に母親だけに限定していないことを明らかにしています。ですから,C・F・キールとF・デリッチ共著の,権威ある注釈書によると,罰金で済んだのは,「女に対しても,生まれて来た子供に対しても,傷を負わせなかった[致命的な事故がなかった]」場合だけです。もし母親が生きている限りどんな損害でも罰金で償えるということを律法が意味していたのなら,「彼女に」を意味するラーという語がヘブライ語本文に加えられていたはずであることを,この注釈書は示しています。そうであれば,この節は次のようになっていたはずです。『男が争い,妊娠した一人の女を打ち,彼女の子供が出てしまい,彼女に傷[致命的な事故]が負わされなかったなら,罰金が支払われねばならない』。しかし,これらの注釈者たちは結論として次のように述べています。「ラーが省略されていることからも,これらの言葉が女に加えられた傷だけを指しているとすることはできないようである」。
したがって,加えられた危害によって子供が早く生まれて来てしまい,母親にも子供にも致命的な結果がもたらされなかった場合に,罰金が科されたのです。しかし,その一撃で,母親または母親の胎内にいる子供の命が失われたなら,律法によって「魂には魂」を支払うことが求められました。
この点は,エホバ神が,人間の生きた胚胎や胎児を女性の胎内にある単なる一片の組織とはみなしておられないことを示す聖書の言葉とも調和します。(詩 139:13-16)このことを確証するものとして,エホバは預言者エレミヤにこう告げられました。「わたしはあなたを腹の中で形造っていたその前から知っていた。またあなたが胎から出て来る前から,わたしはあなたを神聖にした」。(エレミヤ 1:5,新)また,女を死に至らせたり,流産させたりした男に対して,「魂には魂を」という規定が設けられていることは,命を尊重し,人殺しを非とする聖書全体の教えとも一致します。―創世 9:6。民数 35:30,31。啓示 21:8。
ゆえに,出エジプト 21章22節と23節は,堕胎が重大な悪行であることを軽視するものでは決してありません。むしろこの聖句は,女,あるいは胎内で成長している子供に「致命的な事故」をもたらす者に対して,「魂には魂を」という厳しい罰則がモーセの律法の中に定められていたことを示すものです。
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地獄は熱い所ですかものみの塔 1977 | 12月1日
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地獄は熱い所ですか
諸教会は長い間,邪悪な者は熱い地獄で責め苦に遭うと教えてきました。しかし,それは事実でしょうか。
地獄および死者の状態について聖書は何と言っているかお調べになってください。「今ある命がすべてですか」という本の中の,上記の主題の章に説明されています。この本は192ページの堅表紙の本で,現代語に訳された読みやすい聖書,「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」とともに,わずか450円のご寄付でお求めになれます。108 東京都港区三田5丁目5番8号 ものみの塔聖書冊子協会(振替 東京 5-138022番)にお申し込みください。
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