聖書理解の助け ― 聖書(その二)
「知恵は主要なものである。知恵を得よ。自分の得るすべてのものをもって,悟りを得よ」― 箴 4:7,新。
聖書(その二)。
内容
書物の中の書物である聖書は,その内容として,過去を明らかにし,現在の事柄を説明し,将来を予告しています。それは,始めから終わりを知っておられる方だけが著わし得る事柄です。(イザヤ 46:10)聖書はまず最初に,過去のいつかに行なわれた天と地の創造から説き起こして,人間の住みかとして地が整えられた4万2,000年余の期間にわたる事柄を記しています。それから,人間の起源に関する真の科学的説明 ― 生命がどのようにして,ただ生命の授与者からのみもたらされるか ― 今や著者としての役割を持たれる創造者のみが説明し得る事実 ― が示されています。(創世 1:26-28; 2:7)次いで,人間が死ぬようになったいきさつの記述があって,聖書全巻を貫いている全体的な主題が紹介されています。エホバのみ名を聖なるものにし,立証するという,その主題は,『女の胤』に関する最初の預言の中に含まれています。(創世 3:15,新)「胤」に関するこの約束が再び言及されたのはそれから二千年余の後のことですが,神はアブラハムにこう告げられました。「あなたの胤によって,地のすべての国の民は必ず自らを祝福するであろう」。(創世 22:18,新)それから,八百年余の後,アブラハムの子孫ダビデ王に改めて保証の言葉が与えられました。その後も,時の経過と共に,エホバの預言者がこの希望の火を赤々と燃え立たせました。(サムエル後 7:12,16。イザヤ 9:6,7)ダビデの後,さらに千年を経て,つまりエデンで最初の預言が行なわれてから四千年余の後,約束された胤,「その父ダビデの座」に就く正当な相続人,イエス・キリストが現われました。(ルカ 1:31-33。ガラテア 3:16)この「至高者の子」は,「へび」の地的な胤によって砕かれて死に,アダムの子孫の失われた命の権利を買いもどすための贖いの価を備え,こうして人間が永遠の命を得ることのできる唯一の手だてを備えました。それから,イエスは天によみがえらされ,『初めからのへびで,悪魔またサタンと呼ばれた』者を地に投げ落とす定めの時を待つことになりました。サタンはついにはそこで永久に滅ぼされるのです。こうして,創世記で発表され,その後ずっと聖書の残りの箇所で展開され,詳述されてきたこの堂々たる主題は,聖書巻末に至って,エホバの王国によって成し遂げられるその偉大な目的が明らかにされると共に,最高潮を迎えます。―啓示 11:15; 12:1-12,17; 19:11-16; 20:1-3,7-10; 21:1-5; 22:3-5。
約束された胤であるキリストの治めるこの王国は,神のみ名,エホバを聖なるものにし,立証することを成し遂げる手だてです。聖書はこの主題を追って,他のどんな本も比べものにならない程,エホバの名を大いなるものにしています。この名はヘブライ語のマソラ本文に6,800回余出ていますが,そのほかにも省略形の「ヤハ」や,他の語と結合して,「エホバは救い」という意味の「イエス」というような名で何度も出てきます。創造者の名や,この名にかかわるエデンでの反逆が引き起こした大問題や,全創造物の前でそのみ名を聖なるものにし,立証するという神の目的が聖書の中で明らかにされなかったなら,わたしたちはこのような事を知るよしもありませんでした。
六十六冊の書で成るこの書物の中で,王国という主題とエホバのみ名は,多くの論題に関する情報と密接なかかわりを持っています。この書物は農業,建築,天文学,化学,商業,工学,民族学,政治,衛生,音楽,詩,言語学,戦術などの分野の知識に言及していますが,それはその主題の展開の上では枝葉的なことで,この書物は論文のようなものではありません。それでも,これは考古学者や古文書学者にとって情報の得られる真の宝庫となっています。一般的に言って,この膨大な情報の分野は次の四つの論題に分けられます。(1)歴史と預言。(2)基礎的な真理と教理。(3)基本的な原則。(4)クリスチャンの奉仕。
聖書は歴史的に正確ですし,大変遠い過去にまでさかのぼる書物ですから,他のどんな書物よりもはるかに優れています。しかし,聖書は永遠の王以外に正確に啓示できない将来の事柄を予告していますから,預言の分野ではさらに大きな価値があります。幾世紀にもわたる世界強国の進展は,現代の諸制度のぼっ興や終えんに至るまで,聖書の長期間の預言の中で予告されていました。
神の真理の言葉は,非常に実際的な仕方で,無知や迷信,人間の哲学や無意味な伝承から人を解放します。(ヨハネ 8:32)「神のことばは生きていて,力を及ぼし」ます。(ヘブライ 4:12)聖書がなければ,わたしたちはエホバを知らなかったでしょうし,キリストの贖いの犠牲のもたらすすばらしい益も知らず,神の義の王国で,あるいはそのもとで永遠の命を得るために満たさなければならない必要条件も理解できなかったでしょう。
聖書はほかの点でもまた大変実際的な書物です。それは,現在の生活の仕方,奉仕の仕方および,神に反対し,快楽を追求するこの事物の体制の終わりを生き残る方法について,クリスチャンに健全な助言を与えてくれるからです。クリスチャンは世の人のような考え方をやめて思いを作り直し,『この事物の体制に合わせてはならない』と告げられていますが,「キリスト・イエスにあった」のと同様の謙そんな精神的態度を持ち,古い人格を脱ぎ捨て,新しい人格を着けることによって,前述の勧めに従えます。(ローマ 12:2。フィリピ 2:5-8。エフェソス 4:23,24。コロサイ 3:5-10)それは神の霊の実,「愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,柔和,自制」を表わすことを意味しています。これらの論題については聖書全体で多くの事が書かれています。―ガラテア 5:22,23。コロサイ 3:12-14。
信憑性
聖書の真実性は各方面から論難されてきましたが,そのような努力で少しでも聖書の立場を危うくしたり,弱めたりしたものは一つもありません。かつてアイザック・ニュートン卿は,「聖書にはどんな世俗史よりも多くの,信憑性を示す確かな証拠が見られる」と言いました。真実のその正直な記述は,どの点を吟味しても,確かなことが分かります。その歴史は正確で,信頼できます。例えば,バビロンがメデア人とペルシャ人の前に倒れたことに関する記述は首尾よく反ばくできるものではありません。(エレミヤ 51:11,12,28。ダニエル 5:28)あるいは,バビロニア人ネブカデネザル(エレミヤ 27:20。ダニエル 1:1),エジプト人のシシャク王(列王上 14:25。歴代下 12:2),アッシリア人テグラテ・ピレセルやセナケリブ(列王下 15:29; 16:7; 18:13),あるいはローマ皇帝,アウグスツス,ティベリウス,クラウディウス(ルカ 2:1; 3:1。使徒 18:2)のような人物,あるいはピラト,フェリクス,フェスト(使徒 4:27; 23:26; 24:27)のようなローマ人や,エフェソスのアルテミスの大神殿やアテネのアレオパゴス(使徒 19:35; 17:19-34)などについて述べる事柄 ― 聖書がこのような人物や場所や出来事その他について述べることは,詳細に至るまで歴史的に正確です。
聖書が人間の人種や言語について述べることもやはり真実です。背丈,文化,皮膚の色,言葉などにかかわりなく,すべての民族は被造物の単一の種です。人間家族がヤペテ,ハムおよびセムの三つの種族に分かれましたが,すべてノアを経てアダムから来たことは,首尾よく論ばくできるものではありません。(創世 9:18,19。使徒 17:26)ヘンリー・ローリンソン卿は言いました。「たとえ,我々が単なる言語学上の道筋の交差点に導かれて,聖書の記録を一切参照しなくても,我々は依然,シナルの平野を様々の言語上の系統がそこから方々へ分かれ出た中心地と定めるようになるであろう」。―「聖書の記録の真実性に関する歴史的証拠」287ページ。
聖書の教えや模範や教理も,現代人にとって大変実際的です。そこに含まれている義の原則や高い道徳規準のゆえに,聖書は他のすべての本に勝って孤高な存在となっています。聖書は重要な問題に答えるのみならず,数多くの実際的な提案をも述べており,もし人々がこれに従うなら,それは地上の住民の身体的,精神的健康を高めるのに大いに役立つでしょう。聖書は仕事の上での物事の正しい扱い方の定規ともなる正邪の原則(レビ 19:35,36。箴 20:10; 22:22,23。マタイ 7:12),勤勉さ(エフェソス 4:28。コロサイ 3:23。テサロニケ第一 4:11,12。テサロニケ第二 3:10-12),清い道徳行為(出エジプト 20:14-17。レビ 20:10-16。ガラテア 5:19-23),築き上げる交わり(箴 5:3-11; 13:20。コリント第一 15:33。ヘブライ 10:24,25)正しい家族関係 ― 妻や子に対する夫の務め,夫や子供に対する妻の務め,親に対する子供の務め(申命 6:4-9。箴 13:24。エフェソス 5:21-33; 6:1-4。コロサイ 3:18-21)を定めています。聖書を愛する人はその益として思いの平安,満足感および安全を享受します。有名な教育者,ウィリアム・ライアン・フェルプスがかつて,「聖書抜きの大学の課程よりも,大学の課程抜きの聖書の知識の方が貴重だと思う」と述べた通りです。ジョン・クインキー・アダムズによれば,「それは,最も無知で,最も弱い者も,また最も博学で,最もそう明な人も,改善を図ることなしには読めない書物」です。
聖書は科学的正確さという点でも欠陥がありません。地球を漸進的に整えて住みかとした順序を説明し(創世 1:1-31),地球が球体で,「無」の上に掛けられていることを述べ(ヨブ 26:7,新。イザヤ 40:22),「歯の皮」に言及し(ヨブ 19:20,新),野うさぎを反すうする動物として類別し(レビ 11:6,新),「肉の魂は血の中にある」(レビ 17:11-14,新)と宣言するいずれの場合でも,また他の多くの詳細についても,聖書は科学的にも確実です。
文化や習慣に関する事柄の点でも,聖書は決して間違ってはいません。政治上の問題でも,聖書は支配者のことを,聖書が著わされた時代のその人の持っていた正しい称号を用いて述べています。例えば,ヘロデ・アンテパスやルサニアは地区支配者(「四分領主」),ヘロデ・アグリッパは王,セルギオ・パウロやガリオは執政官代理と呼ばれています。(ルカ 3:1。使徒 25:13; 13:7; 18:12)勝利を収めた軍隊が捕虜を引き連れてがい旋行列をしたことは,ローマ時代の普通の事でした。(コリント第二 2:14)他の詳細の点でも聖書は正確です。例えば,見知らぬ人に示された親切なもてなし,東洋人の生活様式,土地の購入方法,契約を結ぶ際の法的手続き,およびヘブライ人や他の民族の割礼の慣行などが挙げられます。―創世 18:1-8; 23:7-18; 17:10-14。エレミヤ 9:25,26。
聖書の筆者は,他の古代の著述家には見られない虚心坦懐さを示しています。それも最初から,モーセはその民の罪や過ちはもとより,自分自身の罪もあからさまに伝えており,これは他のヘブライ人筆者の従った方針となっています。(出エジプト 14:11,12; 32:1-6。民数 14:1-9; 20:9-12; 27:12-14。申命 4:21)ダビデやソロモンのような偉大な人物の罪も隠されずに伝えられています。(サムエル後 11:2-27。列王上 11:1-13)ヨナは自分自身の不従順について語りました。(ヨナ 1:1-3; 4:1)同様に,他の預言者たちもこの同じ率直で虚心坦懐な性質を示しました。クリスチャン・ギリシャ語聖書の筆者たちも,ヘブライ語聖書に示されているような,真実を伝えることを尊重する同じ態度を示しました。パウロは以前の罪深い生き方について語っていますし,マルコやペテロの誤った行動も述べられています。(使徒 22:19,20; 15:37-39。ガラテア 2:11-14)このように物事が率直に,あからさまに伝えられていることは,聖書が正直で真実であるという主張に対する確信を強めるものとなっています。
多くの事実は聖書の誠実さを証ししています。聖書の物語はそれぞれの時代の歴史と密接なかかわりを持っています。聖書は率直で真実な教えを最も簡潔な仕方で述べています。その筆者の偽りのないまじめさや忠実さ,真実に対するその燃えるような熱意,詳細な点でも正確を期そうとするその勤勉な努力は,聖書をそのあるがままのもの,つまり神の真理の言葉として推奨するものとなっています。―ヨハネ 17:17。
ただそれだけで聖書がエホバの霊感を受けた言葉であることを証明する,唯一の事があるとすれば,それは預言です。一体,2,3時間先の天気さえ正確に予告できる人がいるでしょうか。ところが,聖書には既に成就している長期間にわたる預言が数多くあるのです。
保存
今日,聖書の最初の文書としてその存在が知られているものは一つもありません。しかしエホバは,古くなってゆく原本に代わるものとして写本を作らせるよう取り計らわれました。また,バビロンへの追放以後,それにパレスチナの外でユダヤ人共同体が多数発達するにつれ,聖書の写本に対する需要が一層増大しました。手書き写本の正確さを期すために大変な努力を払った専門の写字生がこの需要に答え応じました。エズラはまさしくそのような人の一人で,「イスラエルの神エホバが賜わったモーセの律法に通じていた熟練した写字生」でした。―エズラ 7:6,新。
聖書の手書き写本は引き続き何百年にもわたって作られ,その間に聖書はクリスチャン・ギリシャ語聖書が付け加えられて拡充されました。また,これら聖書の他の言語による翻訳も現われました。実際,ヘブライ語聖書は他の言語に翻訳された注目すべき最初の書物としての栄誉を付されています。これら聖書の幾千もの写本や翻訳は今日でも残存しています。
十五世紀の半ばごろ,グーテンベルクの印刷機で最初の印刷された聖書が作られました。今日,聖書(の全巻もしくは一部)は1,600余の言語に訳され,発行部数は20億部を超えています。しかし,このことは様々の方面からの大変な反対なしに成し遂げられてきたのではありません。実際,聖書は他のどんな本よりも多くの敵に直面してきました。教皇や公会議は破門という処罰をもって聖書を読むことを禁じさえしました。聖書を愛する人々は幾千人も命を失い,何千冊もの聖書が焼き捨てられました。聖書を存続させるための戦いで犠牲となった人の一人で,翻訳者のウィリアム・ティンダルはかつて,『もし神が私に命を賜わるなら,多年を待たずして,すきを引く牛馬の手綱を取る若者の方が僧職者よりも聖書をよく知るようになろう』と言いました。
このような激しい反対を考えれば,聖書が生き残ったことに対する誉れと感謝は,み言葉を保存させて来られたエホバに帰すべきです。このことは,使徒ペテロが引用した,「肉なるものはみな草のごとく,その栄光はみな草の花のようである。草は枯れ,花は落ちる。しかしエホバの語られることばは永久に存続する」という預言者イザヤの言葉を一層意義深いものにします。(ペテロ第一 1:24,25。イザヤ 40:6-8)ですから,この二十世紀に,「暗い所に輝くともしびのように……それに注意」を払うのは良いことです。(ペテロ第二 1:19。詩 119:105)『その喜びはエホバの律法にあり,その律法を昼も夜も小声で読む』人,そしてその読むことを実行する人は,栄える幸いな人です。(詩 1:1,2,新。ヨシュア 1:8)そのような人にとって,聖書に収められているエホバの律法,諭し,命令,戒め,司法上の定めは,「蜜よりも甘」く,そこから得られる知恵は「金よりも,いや,多くの精錬された金よりも一層望まれるべきもの」です。それはその人の命を意味するからです。―詩 19:7-10,新。箴 3:13,16-18。